オーディオにおけるジャーナリズム(資本主義においてこそ)
「持ちつ持たれつ」は、こういう資本主義(むしろ、悪い意味での商業主義)の世の中においては、
もたれ合い的な意味あいで、ネガティヴな印象のほうが強くなっている気もする。
オーディオ雑誌も、資本主義の中で出版されている。
クライアント(国内メーカー、輸入商社)が広告を出稿することで、
いまの雑誌出版というシステムは成り立っているわけで、
それはなにも広告に関してだけでなく、取材のために製品を調達するのにも、
クライアントの存在は不可欠である。
すべてのオーディオ機器を購入して取材すべきだ、ということを言う人がいる。
けれど実際にそんなことをやっていたら、どうなるか。
すこし頭を働かせればわかることである。
購入するにも資金は要る。購入した器材を保管するスペースも要る。
それに購入した器材は資産と見なされるし、調整・修理などの維持に手間がかかる。
だからクライアントから製品を借りることになる。
広告も出してもらっている。
そこで、いわゆる「制約」が生じる。
この制約を一切無視して、文章を書いている人は、いない。
書き手だけでなく、編集者も、その制約の中にいる。
「持ちつ持たれつ」である。
この「持ちつ持たれつ」こそ諸悪の根源だと見なす人がいる。
はたしてそうだろうか。
「持ちつ持たれつ」は、いわば人間関係である。
この関係を無視して、文章を書く人が仮にいたとして、
そんな人の書いたものを読みたいとは思わない。
それに制約があるからこそ、主張が生れてくる、とも思っている。
もちろん制約の中には、取り除かなければならない制約がある。
それらのすべての制約は取り除けるのか、取り除いていいものだろうか。
オーディオは、つくづく「人」だと思うようになった。
持ちつ持たれつが生みだしていくものは、きっとある。
悪しきもたれ合いは、たしかにいらない。
悪しきもたれ合いは、批判的な表現を隠していこうとする。
クライアントに対して、その取扱い製品に対して、批判的なことは表に出せない。
それもわからぬわけではないが、そのことがすでに行き過ぎてしまっているために、
賞讃の表現のもつ輝き・力をも、同時に殺してしまっている。
このことになぜ気がつかないのか。
言葉も「持ちつ持たれつ」という関係の中で生きてきて、輝きをもつものだということを。