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Date: 5月 11th, 2013
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その4)

なぜこんな大がかりで、思いついた時には実現がほぼ無理なことを考えたかというと、
グラフィックイコライザーである帯域を絞ったとする。
例えばテクニクスのグラフィックイコライザーSH8065は±12dBとなっている。
100Hzのノブを下まで下げれば12dB減衰する。

100Hzといえば、ほとんどのスピーカーシステムでウーファー受け持つ周波数である。
ウーファーのカットオフ周波数が低く設定される4ウェイ構成であっても、
100Hzはウーファー受け持っている。

JBLの4343は300Hzがミッドバスとのクロスオーバー周波数となっているから、
グラフィックイコライザーで100Hzを12dB減衰させたとして、
本当にきっちり12dB減衰するのだろうか、という疑問がまずあった。

つまり4343のウーファー2231Aは、音楽信号に含まれていれば、
100Hz近辺の信号を音に変換している。
80Hzの音も125Hzあたりの音も2231Aが出していて、
100Hzの音を12dB減衰させたとしても、100Hz近辺の音が鳴っていれば、
2231Aのコーン紙は近辺の周波数の振動の影響を受けているわけだから、
きっちり100Hzを中心とした1/3オクターヴの帯域幅を12dB減衰させることはできないのではなかろうか、
そう考えたわけである。

ならば100Hzの音をきっちりグラフィックイコライザーでの減衰量と一致するようにするには、
グラフィックイコライザーが33素子であるならば33ウェイとするしかない。
それで、こんな馬鹿げたことを考えていた。

そしてこれならばある帯域の音を完全に鳴らないようにもできる。
100Hzの帯域を受け持つパワーアンプの電源をきるなり、入力にレベルコントロールがあれば絞りきればいい。
そうすればグラフィックイコライザーでの100Hzと表示されている帯域に関しては完全に削りとることができるし、
櫛の歯が何本も欠けたような周波数特性もつくれる。

そういう音を聴いてみたい、確認したい、と思っていた時期があった。

Date: 5月 10th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(デザインに関しては……)

ステレオサウンドの存在を知り、ステレオサウンドを熱心にくり返し読みはじめたころ、
とにかく、いい音への手がかりをステレオサウンドに求めていたように思う。

経験は圧倒的に少ない。
それを少しでも補うためてもあり、いい音とはいったいどういう音なのか、
音を判断するということはどういことなのか、
その手がかりが欲しかった。

欲しかった手がかりは、音に関することだけではなかった。
デザインに関しての手がかりも、ステレオサウンドにあのころの私は求めていた。

私のオーディオの始まりといえる「五味オーディオ教室」には、B&Oのデザインについて書かれている文章があり、
これを読んだ時、とにかくB&Oがどういうデザインなのかを知りたかったのを想い出す。

中学生の視点で、いいデザインということを判断できるとは思っていなかった。
好きなデザインのオーディオ機器はあった、面白いと思うオーディオ機器のデザインはあった。
いいとおもえるデザインのオーディオ機器もいくつかあった。

でも、それがオーディオ機器のデザインとして優れているのかどうかを判断できる「もの」が、
あのころの私にはなかった。
だから、デザインに関しての手がかりも、音への手がかりと同じくらいに欲していた。

ステレオサウンド 43号に瀬川先生の文章がある。
     *
 最近のオーレックスの一連のアンプは、デザイン面でも非常にユニークで意欲的だが、SY77は、内容も含めてかなり本格的に練り上げられた秀作といえる。ただしこの新しいセパレートシリーズでは、プリアンプの方が出来がいい。適当な時間を鳴らしこまないと本領を発揮しにくいタイプだが、それにしてももう少し踏み込みの深い、艶のある音になれば一層完成度が高められると思う。
     *
オーレックスのコントロールアンプSY77について書かれたものだ。
SY77は、中学生ながらいいデザインだな、と感じていた。
とはいっても、断言できるほどのデザインの判断に関するものがなかったから、
この瀬川先生の文章は「やっぱりそうなんだ!」とおもえ、嬉しかったのを憶えている。

そして同じオーレックスのチューナーST720についてはこう書かれている。
     *
 物理データや音質面で、この価格のチューナーとしてほんとうに他社と同格あるいは以上かといえばその点は注文もあるが、画一的な表現の国産チューナーの中にあって、ユニークな操作性を大胆な意匠で完成させたところに絶大な拍手を送りたい。こういう製品が、モデルチェンジなしに育つ土壌を大切にしよう。
     *
ここでもオーレックスのデザインについてふれられている。
ステレオサウンド 43号は、私にとっては別冊を含めて四冊目のステレオサウンドであった。
それでも四冊をくり返し読んでいれば、瀬川先生の書かれたものに、何かを感じることはできていた。

この人が、「絶大な拍手を送りたい」と書かれている。

SY77、ST720が、その後の私にとってどういう意味をもつモノになるのかは、
まったく想像できなかった遠い日に得た、
オーディオ機器のデザインに関する、小さいけれど、確実な「手がかり」であった。

Date: 5月 10th, 2013
Cate: audio wednesday

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(再掲・第29回audio sharing例会のお知らせ)

ひとりでも多くの方に来ていただきたいので、5月1日に公開したものを再掲します。
5月1日の段階では片桐氏と西川氏、おふたりでしたが、
ビクターに勤務されていた西松朝男氏も来てくださることになりました。

−−−−−以下再掲−−−−−
「昔はよかった」と書いている。
だからいまは、そのよかった昔よりもずっとよい、といいたい。
本音で、心からそういいたい。

すべてがその昔よりも悪くなっているとは言わないけれど、
それでも「昔はよかった」といわざるをえないのが現実であり現状である。

「昔はよかった」と書いている私は、いま50。
私より上の世代の人は大勢いる。
私が「昔はよかった」といっている時代よりも、もっと前のことを体験してきている人たちがいる。

私は瀬川先生とは何度かお会いできた。
話をすることもできた。
けれど五味先生、岩崎先生には会えなかった。

オーディオ界には、岩崎先生、瀬川先生と仕事をされてきた人たちがいる。
その人たちに、いまのうちに話をきいておこう、と思っている。

「昔はよかった」のはなぜだったのかを、より深く知りたいという気持もあるからだ。

6月5日(水曜日)のaudio sharingの例会には、
岩崎先生、瀬川先生と仕事をされてきた国内メーカーに勤務されていた、
いわばオーディオの先輩といえる人たちに来ていただく。

パイオニアに勤務されていた片桐陽氏、
サンスイに勤務されていた西川彰氏、
ビクターに勤務されていた西松朝男氏、
お三方に「岩崎千明・瀬川冬樹がいた時代」について語っていただく。

折しも5月31日には、ステレオサウンドから岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊、
さらに瀬川先生の著作集の出版も予定されている。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

「岩崎千明・瀬川冬樹がいた時代」についてなら、
私にも語らせろ、という方いらっしゃいましたらご連絡ください。

こんなスピーカーもあった(その1)

駅までの1km弱のあいだの歩道に、いま松ぼっくりが落ちている。
私は実物を見たわけではないけれど、
昔、松ぼっくりがエンクロージュア内にはいっていたスピーカーがあった、ときいたことがある。

井上先生の話だと、
ある国産メーカー(ごく小さなメーカーだったそうだ)が新製品としてスピーカーシステムを、
ステレオサウンド試聴室に持ち込んできた。
音を聴くと、残念ながら評価に値するモノではなかったそうだ。
というよりも、あきらかに変な音がするスピーカーシステムで、
どこかこわれているんじゃないか、と中を確認しようと持ち上げたところ、
エンクロージュアの中からカサコソという、本来あり得ない音がきこえてきた。
部品でも外れているのかと思い確認したところ、
エンクロージュア内部には松ぼっくりと銀紙(アルミホイルだったかも)が吸音材の代りとして使われていた。
松ぼっくりは拡散のためで、銀紙は反射のためで、
つまりは定在波対策らしい、ということだった。

ずいぶん前の話だ。
こまかなことを聞いたのかどうかも忘れてしまっているが、
おそらくステレオサウンドが創刊されて数年ぐらいのことだと思っている。

私が体験した例では、やはり音がおかしい、どこか故障とまではいえないものの、
どこかおかしなところがあるんしじゃないか、と思われるスピーカーシステムがあった。
海外製だった。

それで開けてみよう、ということになった。
実は、これもエンクロージュアを揺すってみると異音がしていた。
案の定、ネットワークのプリント基板の固定が片チャンネルだけいいかげんだった。

そんなこともあるんだ、という笑い話である。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その13)

そのきっかけとなったのは、RIAAカーヴの改訂だった。

RIAAカーヴは、それまで35Hzから15kHzまでは厳格な規格が定められているが、
それ以下、それ以上の周波数帯については、35Hzから15kHzまでのカーヴの延長であればいいとなっていた。

だからハイ上りのカーヴも実際にあったし、
低域に関してもローカットの周波数に関しては規定はなかった。
メーカーの考え方によって、そうとうに低いところまでフラットに再生するカーヴであったり、
ある周波数からなだらかに減衰するカーヴであったりもした。

新RIAAカーヴにいつ改訂されたのかは正確には憶えていないが、
新RIAAカーヴに関する記事を読んだのは、電波科学だった。
それからしばらくしてステレオサウンド 55号にも、
ダイレクトカッティングで知られるシェフィールドのダグラス・サックスのインタヴュー記事の中でふれられている。

新RIAAカーヴは、録音特性を含めてのものではなく、あくまでも再生特性のみである。
20Hz以下の周波数を減衰させる新RIAAカーヴは、レコードの反りや偏芯、
アナログプレーヤーのワウや低域共振などの悪影響から逃れるためであり、
私の知る範囲ではDBシステムズのDB1は新RIAAカーヴに対応していた。

新RIAAカーヴとそれまでのRIAAカーヴ、
フォノイコライザーのカーヴの設定ということになるわけだが、
実際にどちらが音がいいのかというと、一概には言いにくいところがある。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その13)

一本59800円のスピーカーシステムは、いわば普及クラスの製品ということになる。
オーディオをやり始めたばかりの学生にとっては、59800円は安くはない。
スピーカーシステムは二本必要だから、スピーカーだけで約12万円。

598のスピーカーシステムに、価格の点で見合うアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを選べば、
それぞれ6万円前後のモノを揃えたとしてトータルで30万円になる。

これにチューナーやカセットデッキを加え、
さらにはスピーカースタンド、ラックも加えていくと……。

その金額は、いまの非常に高価な製品が当り前になりつつある現状からみれば、
高価なケーブルの値段と同じくらい、という見方もされよう。

それでも、598のスピーカーシステムを購入する層は、そういう層ではない。
598のスピーカーシステムが、オーディオ用と呼べる最初のスピーカーシステムであったり、
はじめてのグレードアップ対象となるスピーカーシステムであったはずだ。

そういう価格帯の製品であっただけに、各社の力の入れようは激化していったのかもしれない。
にも関わらず、598のスピーカーシステムは各社とも似ていく方向にある時期向いていた。

1988年の598のスピーカーシステムに、
ビクターのSX511、オンキョーのD77X、デンオンのSC-R88Zなどがある。
これらのスピーカーシステムの重量は31kg、34kg、34.5kgである。

598のスピーカーシステムは長岡鉄男氏の影響もあって重くなっていった、と書いているが、
実際にどれだけ重くなっているかというと、
1988年の5年前の1983年の598のスピーカーシステムの重量は、
ビクターのZERO5Fineが21.5kg、オンキョーD7Rが22kg、ダイヤトーンDS73Dが21kgであり、
10kg前後、重量が増している。五割増しというわけだ。

しかも外形寸法には大きな変化はない。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その2)

瀬川先生の著作集が出ないことがはっきりした。

よく遺稿集という言い方をする。私もこれまで何度も使ってきた。
けれど遺稿とは、未発表のまま、その筆者が亡くなったあとに残された原稿であって、
すでに発表された文章を一冊の本をまとめたものは遺稿集とは呼ばない──、
ということを、私もつい先日知ったばかりである。

私の手もとには瀬川先生の未発表の原稿(ただし未完成)がひとつだけある。
いずれ電子書籍の形で公開する予定だけれど、それでも一本だけだから、遺稿集とはならない。
あくまでも著作集ということになる。

ステレオサウンドの決まり、
そんなことがあるものか、と思われる方も少なくないと思う。
けれどふりかえってみていただきたい。
瀬川先生の著作集は出なかった。
黒田先生の著作集も出なかった。
黒田先生の本は、すでに「聴こえるものの彼方へ」が出ていたから。

岡先生の本も出ていない。
岡先生の本は、すでに「レコードと音楽とオーディオと」というムックが出ていたから。

山中先生の本も出ていない。
山中先生の本は、すでに「ブリティッシュ・サウンド」というムックが出ていたから。
「ブリティッシュ・サウンド」は山中先生ひとりだけではないものの、
メインは山中先生ということになる。

長島先生の本も出ていない。
長島先生の本は、すでに「HIGH-TECHNIC SERIES2 図説・MC型カートリッジの研究」が出ていたから。

I先輩の言われた「決まり」、
そういうものがあることをあとになって「やっぱりそうなのか」と、
ステレオサウンドをやめたあと、岡先生、長島先生、山中先生が亡くなり、そう思っていた。

だからこそ瀬川先生が亡くなられて32年目の今年、著作集がステレオサウンドから出る、ということは、
嬉しいとともに、意外でもあった。

正直、遅すぎる、とは思う。
そう思うとともに、なぜ、いまになって、とも考えている。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: よもやま

引用・コピーに関して

今日、友人が教えてくれて知ったのですが、
2ちゃんねるのピュアオーディオ板にある長岡鉄男氏に関するスレッドで、
「598のスピーカーという存在(その11)」がまるごとコピーされていました。
少し前にも別のスレッドに、やはりまるごとコピーというのがありました。

まるごとコピーするのはやめてください、とはいいません。
ご自由にコピーしてくださってかまいません。
ひとりでも多くの人に読んでもらいたい、と思っているからです。

ただ本文のコピーとともに、ここのURL(http://audiosharing.com/blog/)を併記していただくか、
コピーされたブログ記事へのディープリンクでもかまいませんから、
元の記事をたどれるようにしていただけるとうれしく思います。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その1)

5月31日に岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊され、
瀬川先生の著作集が出るのだから、このことは書いてもいいと判断したことがある。

私がステレオサウンドで働くようになったのは、1982年1月。
瀬川先生が亡くなって二ヵ月後のこと。
ステレオサウンド試聴室隣の倉庫には、
瀬川先生が愛用されていたKEF・LS5/1A、スチューダーA68、マークレビンソンLNP2があった。

そういうときに私はステレオサウンドで働きはじめた。

入ってしばらくして訊ねたことは「瀬川先生の遺稿集はいつ出るんですか」だった。
編集部のI先輩にきいた。
どうみても、その編集作業にとりかかっている様子はどこにもなかったし、
そんな話も出てきていなかったから、不思議に思いきいたのだった。

I先輩の返事は、当時の私にはたいへんショックなものだった。
「出ないんだよ。ステレオサウンドのルールとして筆者一人一冊と決っているから。
瀬川先生はすでに『コンポーネントステレオのすすめ』がもう出ているから……」

確かに「コンポーネントステレオのすすめ」は出ている。
しかも改訂版も出て、「続・コンポーネントステレオのすすめ」も出ている。
だからといって、なぜ出さないのか。
そんなことを誰が決めたの? そんな決まり(これが決まりと呼べるのだろうか)は破ればいいじゃないか、
ステレオサウンドにとって瀬川冬樹とは、そんな存在だった?──、
とにかくそんなことが次々と頭に浮んだものの、何も言わなかった(言えなかった)。

Date: 5月 7th, 2013
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その1)

2年ほど前に「50年(その10)」で「憶音」という造語を使った。

こんな造語を思いついた理由のひとつは、「50年(その9)」ですこし触れている。
理由というか、こんなことを考えるきっかけは他にもあった。

そのひとつが、なぜ人は音を比較できるか、だった。

スピーカーから出た音はわずかの時間で消失する。
音に、映像のようにポーズ(休止・pause)はかけられない。
だから音を比較するのは、聴いた人の頭の中でのみ行われる。

いま聴いている音と以前聴いた音を比較する。
このとき片方はいま鳴っている音であり、比較対象となる音は記憶の中にある音。
このふたつの音は、音といっても同じとは言い難い。

例えば写真の比較なら二枚の写真を並べて比較できる。
この二枚の写真は同じ条件におかれている。

けれど音は違う。
ふたつの音の条件はまったくといっていいほど異っている。
なのに、われわれは音を比較できる。

もちろん人によって比較の能力に差はあるし、
ひとりの人でも訓練を積むことで、より正確に比較できるようになる。
それでも、比較する音の条件が違うことには変りはない。

ここで考えたのは、比較できるということは、
いま聴いている音も、いま聴いていると思っているだけであって、
実はいったん脳に記憶され、すぐさまその記憶から再生しているからこそ、
比較できる(つまり同じ条件で)のではなかろうか、ということだった。

Date: 5月 7th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その12)

とにかく私は最初のオーディオの手がかりとして、グラシェラ・スサーナの歌を頼りにした。
そしてグラシェラ・スサーナの歌が情感をこめて歌っている音で鳴れば、
その時はグラシェラ・スサーナの歌だけでなく、バックの楽器もそれらしく響いてくれるようになっている。
そうやって、すこしずつ手がかりを増やしていった。

このことにすこし遅れて考えたことがある。
もうひとつ、別の方向での手がかりとなるものがないのか、ということだった。

例えばスピーカーケーブル。
その理想は存在がない、ということになる。
そういう考えにたてば、スピーカーケーブルをいくつかの長さのものを用意する。
5m、3m、1.5m、1m、50cmというふうに、同じケーブルで数種類の長さによる音の違いを聴く。
このとき長いケーブルよりも短いケーブルの音が理屈としてはいい音になっているわけだ。

オーディオは理屈にあわないことが起ったとしても、
同じスピーカーケーブルで5mと50cmと、このくらい極端に長さが違っていれば、
まず50cmよりも5mのスピーカーケーブルの場合が音がいいということは、まずありえない。
そんな仮定を立ててみた。

この考えでは、例えば信号系に直列にはいるコンデンサーでは、
直結の音(コンデンサーなしの音)を基準として、
それに近い音を出してくれるコンデンサーがいい、ということになる。

オーディオをやり始めたばかりのころ、こんなことを考えていた時期がある。
そのときは間違っていない、と思っていた。
けれど少しずつ経験を積んでいくと、この考えは必ずしも正しいばかりとはいえないのではないか、
そう思いはじめてきた。

Date: 5月 6th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その12)

アイロニーがアイロニーとして、ギャグがギャグとして機能しなかったのは、
発信者である長岡鉄男氏と受け手である読者とのあいだに「ズレ」があったから、といえるだろう。

この「ズレ」がなぜ生じたのかについては、どこかで改めて書きたいけれど、とにかくこの「ズレ」が、
598という、日本独自の、この時代ならではのスピーカーシステムの「膨張・肥大」をうんできた、とおもう。
つまり誰が、ということではなく、何が、ということになる。

これはあくまでも1980年代、
ステレオサウンドで働いていた私の捉え方・見方である。
この時代、ステレオサウンドは、598のスピーカーシステムに対して、
どちらかといえば批判的・否定的な立場をとることが多かった。

私は、そのことに影響を受けていたところはある。
だから598のスピーカーシステムを当時肯定的であったところにいた人とは捉え方が違ってくる。
そういう私だから、このブログで598のスピーカーシステムについて書こう、とまったく考えていなかった。
もし書くことがあったとして、別の項でなにかのきっかけで少しだけ触れるだけ、
それもおそらく否定的なことだけを書いていただろう。

それが、こうやって「598というスピーカーの存在」という項を設けてまで書いているのは、
598のスピーカーシステムが、あのまま「膨張・肥大」という改良がなされてきたら、
いったいどういうスピーカーシステムとなったのだろうか、
とふと想像してしまったところがきっかけになっている。

598のスピーカーシステムは、とにかく59800円という価格の制約がある。
実際には59800円よりもやや高い価格になっているだろうが、それでもこの価格の制約は大きい。
その中で、1台あたり、どれだけの利益を生んでいたのか、といらぬ心配をしたくなるほど、
この時代の598のスピーカーシステムは薄利多売の製品であり、
いわばこれがデフレのはじまりなのかもしれない、とまで思ったりもする。

それでもメーカーがいくつもあり互いに競争していくことで、技術者は工夫を重ねていく。

Date: 5月 5th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その11)

長岡鉄男氏にはファンが多かった、ときいている。
熱心なファンもいた。
ときに、それは長岡教とも長岡信者とも呼ばれることもあった。

この熱心な人たちに長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグはそうとは受けとめられずに、
長岡鉄男氏が意図しない方向で受けとめられてしまった──、私にはそうみえる。

だいたいスピーカーユニットやアンプのボリュウム・ツマミの重量を量ってみたところで、
その数字が何を表しているのかといえば、それはただ単に重量でしかない。
それ以上のことは、特に表していない。

そんなことは長岡鉄男氏は百も承知でやっていたはず、と私は思う。
これが他の人がやっていたのであれば、受けとめられ方もずいぶん違ってきただろうが、
国産オーディオ機器への影響力の大きかった長岡鉄男氏が、
熱心な読者をもつ長岡鉄男氏がこれをやったがため、
598のスピーカーシステムの重量増加を煽ることになってしまった。

アイロニーがアイロニーとして、ギャグがギャグとして機能することなく受けとめられて、
時は進んでいった。

メーカーの中には、
長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグだと受けとめていた人もいるだろうし、
長岡鉄男氏の読者の中にも、そう受けとめていた人もいたはず。
でも、そういう人たちよりも、
長岡鉄男氏が重さを量って発表するということは、
それが音の良さへと直接関係することである、と思い込んでしまった人の方が多かった──、
そういえないだろうか。

そうなってしまうと、メーカーもそれに乗らざるを得ない。
長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグだとわかっていても、
他社製よりも重いことが売上げに大きく関係してくるのであればやらざるを得ない。

1980年代の598のスピーカーをうみだしたのは、結局誰だったか、と考えることもある。

Date: 5月 5th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その10)

長岡鉄男氏は執筆だけでなく精力的に活動されていた、といっていいだろう。
読者訪問やそうだし、リスニングルームへ読者を招くこともあった。
他の人よりも、読者と直接会うことの多かった人だったはず。

会えば話す。
話せば、自分が書いてきたことがどう受けとめられているかがわかる。
そこには失望もある。ともすると失望のことが多かったりもする。

私だってそういう経験はある。
何も自分で書いたものに関してだけでなく、
私が熱心に読んできたものに対して、「なぜ、そんなふうにしか読めないの?」と思うことは、
ずっと以前から何度となくあった。

私が書いたものに関してだけなら、自分の書き方がまずかった、と反省することにもなるけれど、
五味先生や瀬川先生、岩崎先生の書かれたものについても、そんなことを経験していると、
「読む」という行為も、実に人さまざまだと思い知らされる。
(何も失望ばかりではないのだけれど、記憶としては失望のほうが強く残る)

長岡鉄男氏は、私よりもずっとそんな経験をされてきたのではなかろうか。
何を書いてもどう書いても誤解・曲解される。
最初から最後まできちん:と読んでくれればわかるように書いているつもりでも、
意外に思われるかもしれないが、最初から最後まで読まない人もいることを、
私だって体験的に知っている。

本、雑誌は商品であり、その商品を購入した人がどう読もうが、
それは購入者の自由であり勝手である、とは私は思っていない。
けれど、そう読まれることが事実としてある、ということは知っている。

そういう事実に対して長岡鉄男氏がとられた手段が、
スピーカーユニットやアンプのボリュウムのツマミの重量を量ることだった。
すくなくとも私はそうみている。

つまり長岡鉄男氏のこの行為は、アイロニーでありギャグでもあったように思えてならない。

Date: 5月 4th, 2013
Cate: 岩崎千明

想像つかないこともある、ということ(その1)

スイングジャーナル 1978年5月号に「岩崎千明を偲ぶ会開かれる」という記事が載っている。
一関ベイシーの菅原昭二氏が、岩崎先生との想い出について書かれている。

そこにこうある。
     *
背筋を伸ばしたままの状態でそっと腰をおろすとパラゴンがうなった。圧倒的な音量。私だって音量では人後におちない部類に入ると思うのだが、岩崎さんのそれはまたひとつ、ケタが違うのだ。見るとSG520のボリュームつまみはこれ以上、上に昇れないところに行っている。プリ・アンプのボリュームをオープンにしちゃうとどうもスカッとふんぎりがつくようなのだ。これができるかできないかで、岩崎さんになれるかなれないかが別れるのだ。
     *
岩崎先生のパラゴンはLE15Aが入っているものだから、カタログに載っている出力音圧レベルは95dB。
菅原氏が聴かれたのは引越しの途中であって、新居にはすでにハーツフィールドやパトリシアンがおさまっていて、
ステレオサウンド 38号にも載っているパラゴンが置かれている、いわば旧宅での音である。

菅原氏の文章ではパワーアンプがなにかははっきりしないけれど、
ステレオサウンド 38号ではクワドエイトLM6200RとパイオニアExclusive M4だったが、
これらのアンプはすでに新居に運ばれていたのだろう。
だからコントロールアンプはSG520だったと思う。

ということはパワーアンプもM4ではなく、JBLのSE400なのかもしれない。
出力はM4もSE400もほぼ同じ。だから、どのパワーアンプなのかはっきりしなくても、
そんなことは些細なことでしかない。

岩崎先生の旧宅のリスニングルームは、写真でみるかぎり、ものすごく広い空間ではない。
そこでSG520のボリュウムが全開ということは、正直想像つかない。

菅原氏が「またひとつ、ケタが違うのだ」と書かれている。
そうとうに大きなことだけははっきりしている。

でも、それがほんとうのところ、どれだけのレベルなのかは、いまの私にはまだ想像つかない。
しかも音圧計で、ピークで何dB出ていました、といったことで表せる領域でもない。
ただ音がでかいだけではないのだから。

それでも、その領域に少しでも近づきたい、という気持が芽生えている。