Date: 5月 7th, 2013
Cate: 憶音
Tags:

憶音という、ひとつの仮説(その1)

2年ほど前に「50年(その10)」で「憶音」という造語を使った。

こんな造語を思いついた理由のひとつは、「50年(その9)」ですこし触れている。
理由というか、こんなことを考えるきっかけは他にもあった。

そのひとつが、なぜ人は音を比較できるか、だった。

スピーカーから出た音はわずかの時間で消失する。
音に、映像のようにポーズ(休止・pause)はかけられない。
だから音を比較するのは、聴いた人の頭の中でのみ行われる。

いま聴いている音と以前聴いた音を比較する。
このとき片方はいま鳴っている音であり、比較対象となる音は記憶の中にある音。
このふたつの音は、音といっても同じとは言い難い。

例えば写真の比較なら二枚の写真を並べて比較できる。
この二枚の写真は同じ条件におかれている。

けれど音は違う。
ふたつの音の条件はまったくといっていいほど異っている。
なのに、われわれは音を比較できる。

もちろん人によって比較の能力に差はあるし、
ひとりの人でも訓練を積むことで、より正確に比較できるようになる。
それでも、比較する音の条件が違うことには変りはない。

ここで考えたのは、比較できるということは、
いま聴いている音も、いま聴いていると思っているだけであって、
実はいったん脳に記憶され、すぐさまその記憶から再生しているからこそ、
比較できる(つまり同じ条件で)のではなかろうか、ということだった。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]