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Date: 2月 23rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その16)

ステレオサウンド 44号、45号のスピーカーシステム総テストにおいて、
瀬川先生が使われた試聴レコードは、八城一夫の“SIDE by SIDE Vol.3”の他に、
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェン序曲集、
ギレリスのピアノ、ヨッフム/ベルリンフィルハーモニーによるブラームスのピアノ協奏曲、
ウィーンフィル室内アンサンブルによるベートーヴェンの七重奏曲Op.20、
フィッシャー=ディスカウによるシューマンのリーダークライス、
これらはすべてグラモフォンである。

あとはバルバラの「孤独のスケッチ」(フィリップス)、
テルマ・ヒューストンの「アイヴ・ゴッド・ザ・ミュージック・イン・ミー」、
このディスクはシェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

さらに、その他、数枚適宜使用、とも記してある。

これらすべてのレコードについても、“SIDE by SIDE Vol.3”についてと同じように書かれていたら……、思っていた。
いまも思う。

《クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならない》、
そう書かれているぐらいだから、
定期刊行物であるステレオサウンドにそれを求めるのは無理としても、
別冊というかたちで出版してくれていたら……、と思っていたし、いまも思っている。

オーディオは趣味だから……、という発言をこれまでに何度も耳にしてきた。
これから先も何度も聞くはずだす、目にするはずだ。

「オーディオは趣味だから……」の「……」のところ。
これを口にする人は「……」のところをどう考えているのだろうか。

中には趣味なのだから、好き勝手に聴けばいい、という。
この手のことを聞くたびに(目にするたびに)、
瀬川先生が《一枚一枚のレコードについて》、ステレオサウンド一冊分を書いてくれていたら……、とやはり思う。

瀬川先生だけではない、他の方々も書かれていたら、どうなっていただろうか。
ステレオサウンド 44号、45号での黒田先生の試みも、ここだけで終ってしまった。

黒田先生の試みは、そこに登場するレコードを持っていなかった(聴いていなかった)者にとっては、
わかりにくい、もしくは音をイメージしにくい面もあったし、
いま読んでも、このままでは試みとしては未熟な面があるといえるけれど、
なぜ、このような試みをあえてされたのかは、よくわかる。

「オーディオは趣味だから……」と簡単に口にするような人には伝わらないことだと思っている。

Date: 2月 22nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その15)

ステレオサウンド 43号について書き始めたら、
どうしてもベストバイのことについて書きたいことが、とにかくあって、
書き続けていたわけだが、ベストバイの号は47号、51号、55号、59号……ずっと続いていく。

それぞれの号のところで書いていけるので、
ここらで43号(ベストバイ)からはなれて、次の号にうつっていきたい。

44号の表紙はゲイルのスピーカーシステムGS401Aだった。
ゲイルのスピーカーシステムの手前には、ブランデーグラスがぼんやりと写っている。

44号は秋号である。
秋の夜長に……、というわけでもないのだろうが、そんなことを思わせる表紙だ。

ゲイルのGS401Aは、両サイドをクロームメッキ処理したスピーカーで、
ステレオサウンドを読み始めてやっと一年の私にとって、初めて見る意匠でもあった。

特集は「フロアー型中心の最新のスピーカーシステム総テスト(上)」。
(上)とあることから、45号もスピーカーシステムの総テストだとわかる。

42号のプリメインアンプの総テストのスピーカーシステム版かというと、そうとはいえない。
44号、45号のスピーカーシステムの総テストは、42号と同様のスタイルの試聴記と測定ではなかった。

黒田先生の「スピーカー泣かせのレコード10枚の50のチェックポイントグラフ」、
それから特集冒頭の「最新スピーカーシステムの傾向をさぐる」(瀬川先生が書かれている)の最後、
どのレコードの、どういうところをどう聴いているのかが、ある程度具体的に示されている。

瀬川先生の、そのところを引用しておく。
     *
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。

 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
     *
オーディオラボの“SIDE by SIDE Vol.3”は、まだ持っていなかった。
歩いて行けるところにあるレコード店ではオーディオラボのレコードは扱ってなかった。

バスで約一時間、LPほぼ一枚分の乗車賃を払って熊本市内のレコード店に行かなければならなかった。
しかも、そこで“SIDE by SIDE Vol.3”をみかけたことはなかった。

それでも瀬川先生の書かれたものを読み返しては、
いつか“SIDE by SIDE Vol.3”を買ったら、そこに書かれている聴き方をするんだ、と思い続けていた。
14歳のときの話だ。

Date: 2月 21st, 2016
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その12)

KK塾、三回目、
講師の石黒浩氏がモダリティの数について話された。

人間の認識において重要なことは、モダリティの数であり、
少なくても多すぎてもいけないということだった。

その数は二つだ。
二つのモダリティが満たされていると、人の認識は本物と錯覚するとのこと。
実例として、ある人の声を後方からスピーカーで鳴らす。
声の再生だけではモダリティは一でしかない。

ここにもう一つ、別のモダリティを足す。
例えば、その声の主がつけている香水の匂いを、声といっしょにかがせる。
声と匂い、モダリティが二つになる。

すると本人が真後ろにいて話しかけていると錯覚する。
ではもうひとつモダリティを加えると「不気味の谷」の問題が発生するため、逆効果になるそうだ。

二つのモダリティが、足りない情報を人間の脳が勝手に想像(補充)するから、らしい。
この話を聞いていて、以前川崎先生が話されていたことを思い出していた。

この項の(その4)と(その5)に書いたことだ。

五感ではなく二感だ、ということ。
人間には視覚と触覚の、ふたつの感覚しかない、ということである。

まったく同じことをゲーテも語っている。
     *
視覚は最も高尚な感覚である。他の四つの感覚は接触の器官を通じてのみわれわれに教える。即ちわれわれは接触によって聞き、味わい、かぎ、触れるのである。視覚はしかし無限に高い位置にあり、物質以上に純化され、精神の能力に近づいている。
(ゲーテ格言集より)
     *
石黒浩氏の実験における二つのモダリティ(声と匂い)は、
どちらも触覚・接触の器官を通じての感覚である。

Date: 2月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その14)

出している、と変換したいのに、ときおり「堕している」と出る。
このまま「堕している」にしておこうかと、その度に思う。

AppleのPowerBook G4と親指シフトキーボードで、このブログを書いている。
最近PowerBook G4の液晶ディスプレイの具合が悪いことが頻繁で、
iMacでローマ字入力で書くことも増えてきたが、
このブログのほとんどはPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せで書いてきた。

つきあいの長いPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せだから、
私がステレオサウンドを、どう思っているのか、わかっていて「堕している」と変換候補を出しているような気さえする。

私は、ステレオサウンドがおもしろくない、と感じているわけでも、考えているわけでもない。
「堕している」があらわしているように、ダメになってしまった、と感じているし考えている。
オーディスト」のことに関しても、そうである。

そういう私に、いまのステレオサウンドはおもしろいという人(一人ではない)がいる。
もうそういう問題ではなくなっている、と感じている。

そういう人たちから感じられるのは、自分こそがステレオサウンドの良き理解者だ、という、
安っぽい正義感とでも言おうか、なんとも表現しにくい気持悪さである。

Date: 2月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その13)

ステレオサウンドに対して批判的、否定的なことばかり書くやつだと思われているようで、
数度、いまのステレオサウンドはおもしろい、といったことをいわれたことがある。

そういってくる人が、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいの、
そして10代の若者であれば、そう思ってしまうのは当然だと思うし、
私だって、いま10代で、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいであれば、そう思うだろう。

けれど、私に、いまのステレオサウンドはおもしろい、おもしろくなってきている、
といってきた人は、いずれも私よりも年輩の、
私よりも古くからステレオサウンドを読んできている人であった。

えっ、と思う。
ほんとうに、この人は、いまのステレオサウンドをおもしろいと思っているのか。
だから理由をきく。
返ってくることをきいていてると、
いまのステレオサウンドがおもしろい、とはいったいどういうことなのか、と考えてしまう。

少なくとも私は、そういう人たちが返してくる「ステレオサウンドがおもしろい」理由に納得できなかった。
納得できないから、もういいや、と思うときもあるし、さらにつっこんでききかえすこともある。
そういうときにも「時代が違うから……」が出てくる。

私に対して、「時代が違うから……」という人は、
いまのステレオサウンドの理解者である、と私にいいたいのだろうか。

私に対して、おまえはいまのステレオサウンドを理解していない──、
そういいたいのだろうか。

こういう時、私が思っているのは、理解と同情は違う、ということである。

Date: 2月 18th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その12)

ステレオサウンドのベストバイ特集の一回目の35号と二回目の43号までの二年間には、
六冊のステレオサウンドと二冊の別冊の他に、
HI-FI STEREO GUIDEが夏と冬に刊行されていた。

いまのステレオサウンドはどうだろう。
毎年冬号でベストバイは第二特集として定番となっている。
けれど前年の冬号からの一年間に、どれだけの内容を世に送っているだろうか。

まず別冊は出ていない。
そういうと、出しているだろう、という反論があるのはわかっている。
確かに別冊は出ているが、それはステレオサウンド編集部とは別の編集部による別冊であり、
1970年代に出ていた別冊と違う別冊である。

だから同じには考えられない。
そしてHI-FI STEREO GUIDEも出ていない。

特集記事を見ていくと、どうだろうか。
徹底試聴、総テストと呼べる特集が、いまのステレオサウンドで組まれているのかといえば、
残念ながら、そうではない。

43号のベストバイ特集と、現在のベストバイ特集とでは、
背景が大きく違っている。

こう書くと、時代が違う、という反論をいってくる人がいる。
時代は確かに違う。

だからといって、時代が違う、は何のいいわけにもならない。
編集者が「時代が違うから……」と、もしいっているようでは、
口にしていなくとも、心の中でそう思っているのであれば、
その本には、もう期待できないといっていいだろう。

では読者が「時代が違う」というのはいいのか。
私は、これも問題だと捉えている。

結局、そういってしまったことが伝われば、編集部を甘やかすことに、
編集部にいいわけを与えることにつながっていくと考えるからだ。

時代は変っていく。
ただ変っていくだけなのか。
どう変っていっているのか。
そのことを見極めずに「時代が違うから……」といってしまって、どうするというのか。

Date: 2月 18th, 2016
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その2)

「五味オーディオ教室」のまえがきに、こうある。
     *
 なお、筆者が音楽を聴き込んでから——おもにクラシック音楽だが——感じたことを、ここ十年来『藝術新潮』に載せてきた。それを『西方の音』『天の聲』(いずれも新潮社刊)の二冊にまとめたが、本書は、右の二冊のオーディオに関する部分と、オーディオ専門誌である季刊『ステレオ・サウンド』に連載した文章を中心にして、音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条を立て、新たに加筆したものである。
     *
「五味オーディオ教室」にある必要最少限の心得四十箇条。
最後の四十箇条目の大見出しは
「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」となっている。

この四十箇条目の最後には、こう書いてある。
     *
 もちろん、S氏が二人いても同じレコードが残されるとは限らないだろう。人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。同じレコードでさえ、当然、違う鳴り方をすることにもなる。再生装置でもこれは言える。部屋の残響、スピーカーを据えた位置の違いによって音は変わる。どうかすれば別物にきこえるのは可聴空間の反響の差だと、専門家は言うが、なに、人生そのものが違うせいだと私は思っている。
 何を残し何を捨てるかは、その意味では彼の生き方の答になるだろう。それでも、自らに省みて言えば、貧乏なころ街の技術屋さんに作ってもらったアンプでグッドマンの12インチを鳴らした時分——現在わが家で鳴っているのとは比較にならぬそれは歪を伴った音だったが——そういう装置で鳴らしていい演奏と判断したものは、今聴いても、素晴らしい。人間の聴覚は、歪を超越して演奏の核心を案外的確に聴き分けるものなのにあらためて感心するくらいだ。
 だから、少々、低音がこもりがちだからといって、他人の装置にケチをつけるのは僭越だと思うようにもなった。当然、彼のコレクションを一概に軽視するのも。
 だが一方、S氏の、きびしい上にもきびしいレコードの愛蔵ぶりを見ていると、何か、陶冶されている感じがある。単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。
 レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
ここには「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」という見出しがつけられている。
この「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」が、「五味オーディオ教室」の最後にあるわけだ。

「五味オーディオ教室」から多くのことを学んだ。
大切なことがいくつもある。
そのうちのひとつが「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」である。

《単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。》
とある。

これはゲーテ格言集にある《味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる》につながっていく。

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる、
と書いた。

そのためにはくり返し聴くことが、当然のこととして求められる。
くり返し聴くために必要なものは何か。

Date: 2月 17th, 2016
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その1)

クラシックを聴き始めた頃と、五味先生の本と出逢ったころは近い。

バッハの平均律クラヴィーア曲集とベートヴェンの後期のピアノソナタのことは、五味先生の本に出てくる。
くり返し出てくる。
こんなふうに書かれている。
     *
 古今のピアノ奏鳴曲の中で、いちばん好きな曲を問われたら、ベートーヴェンの第三十二番ハ短調(作品一一一)を私は挙げる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を旧約聖書とするなら、ベートーヴェンの後期ソナタは新約聖書だという有名な言葉がある。たしかに後期の四曲(作品一〇六、一〇九、一一〇、一一一)は、聖書にもたとえるべき宗教性・崇厳感・偉大さ、更に人類の有った最も典雅で、輝かしく美しいしらべをちりばめているが——とりわけアダージオでそうだが——そんな四曲の中でも作品一一一を最高の傑作に私は挙げたい。
     *
平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書。
聴く前に、この言葉があった。

聖書を読んだこともない中学生が、旧約聖書、新約聖書のたとえにとらわれて、
特別な曲である、と思い込んでいた。

それは思い込みではなく、聴き込むほどに、
平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書の感は深くなる。

それでも、そのことをうまくは説明できる自信はなかった。
「ゲーテ格言集」に聖書についてのところがある。
     *
私の確信するところによれば、聖書をよく理解すればするほど、即ち、われわれが一般的に解釈し、特にわれわれ自身にあてはめて考える一つ一つのことばが、ある事情、時、場所の関係に従って、独自の特殊な直接個人的な関連を持っていたことを悟り、味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる。
     *
このゲーテのことばを読み、
まさしく平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書である、と思った。

ゲーテの「聖書」を平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタにおきかえる。
《味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる》とある。
ほんとうにそうだと、聴き込んできた人ならば、首肯くはずだ。

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

Date: 2月 17th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(続・ガウスの輸入元のこと)

先日、twitterでガウスの輸入元に関する指摘があった。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の今井商事の広告に、
ガウスが紹介されている、ということだった。

214ページ、215ページの今井商事の広告を早速見ると、
当時今井商事が扱っていた10ブランド、16機種のスピーカーシステムの集合写真があり、
後列中央にガウスのスピーカーシステムがいる。

新製品ということで、型番は”Monitor System”とあるだけで、価格はない。
他のスピーカーシステムは外形寸法、重量が記載されているが、ガウスのシステムにはない。

フロントショートホーンのエンクロージュアに、15インチ口径のウーファーが二発、
その上にかなり横幅のあるラジアルホーンが乗っている。

広告の右下に〈価格は、10月1日現在のものです。〉とある。
1975年10月1日の時点で、ガウスの輸入元は今井商事だったことがわかる。

となるとステレオサウンド 41号での告知、
1976年10月から、輸入元はウェストレックス、販売業務は今井商事で正式に販売されている、ということは、
何を表しているのだろうか。

おそらく今井商事が1975年の時点で正式な輸入元になったのだろう。
その後、1976年に、ウェストレックスが自社製のスピーカーシステムにガウスのユニットを採用することを発表。
前身がウェスターン・エレクトリックであるウェストレックスと今井商事では会社の規模が相当に違う。
結果、輸入元はウェストレックス、販売業務は今井商事で落ち着いたのだろうか。

Date: 2月 16th, 2016
Cate:

オーディオと青の関係(その5)

「青」で思い出すのは、カラヤンの「パルジファル」である。
カラヤンの「パルジファル」に関しては別項で書いている途中だが、
ここでも、「青」ということでどうしても書いておきたい。

カラヤンの「パルジファル」が、文字通り満を持して登場するまで、
「パルジファル」といえばクナッパーツブッシュの「パルジファル」だった。

「パルジファル」を聴くのは、クナッパーツブッシュの演奏から、と私は思っていた。
いまもそう思っている。

当時は、いまよりも強くそう思っていた。
そういう時にカラヤンの「パルジファル」があらわれた。

ジャケットはクナッパーツブッシュ盤とは対照的に青を基調としていた。
クナッパーツブッシュ盤とカラヤン盤のふたつのジャケットを並べてみて、
このふたつが同じワグナーの「パルジファル」をおさめたものとは、
まったくクラシックの知識のない人ならば、すぐにはそうとは思えないだろう。

私は五味先生の影響を強く受けている。
それは音楽の聴き方においてもである。
カラヤンを熱心に聴いてきたとは、いえない。

そんな聴き手の戯言と思ってもらっていいのだが、
「パルジファル」以降、カラヤンの録音で、青が印象的であるものがいくつかある。

モーツァルトの「レクィエム」がある。
それからワグナーの管弦楽曲集もある。ウィーンフィルハーモニーとのライヴ盤のほうだ。

青を基調としているわけではないが、カラヤンの隣にいるジェシー・ノーマンのドレスがそうだ。
このディスクを、いいディスクだと思う。

「パルジファル」以降、つまり晩年のカラヤンと青との関係、
そういっていいのかとも思い、カラヤンの晩年と青との関係といったほうがいいのか、
はっきりとはわからずにいるが、カラヤンは青という色を、どう捉えていたのだろうか。

Date: 2月 15th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その5)

調教ということになれば、そこには主従が生れる。
主はスピーカーの使い手(鳴らし手)、従はスピーカーということになり、
主従の契りがある。

別項で、このことについて書いた。
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用を、もう一度添えておく。
     *
用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
     *
《器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増す》とある。
器は、ここではスピーカーだ。

この主従の契りがない調教では、スピーカーは決していい音で鳴ってはくれない。
いいかれば、主従の契りがあるからこそ調教が成り立つ。

と同時に、別項の最後に書いたように、主従の関係を逆転させる時期をもったことのない者には、
モノの調教はできない、といえる。
私はそう信じている。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その1)

「西方の音」を読んでいると、ワグナーのことが出てくる。
オーディオを介してワグナーを聴くことについて、いくつ書かれている。

「タンノイについて」では、次のように書かれている。
     *
 最近になって、ワグナーのステレオ盤が相ついで欧米でも発売されている。ステレオは、ワグナーとマーラーを聴きたくて誰かが発明したのではあるまいか? と思いたくなるくらい、この二大作曲家のLPはステレオになっていよいよ曲趣の全貌をあらわしてくれた。それでも、フルトヴェングラーとラインスドルフを聴き比べ(フルトヴェングラーのは米国では廃盤。ショルティやカラヤンのワルキューレ全曲盤は、この時はまだ出ていなかった)ステレオのもつ、音のひろがり、立体感が曲趣を倍加するおもしろみを尊重しても、なお私はフルトヴェングラーに軍配をあげる。音楽のスケールが違う。最もステレオ的な曲と思えるワグナーでさえ、最終的にその価値をとどめるのは指揮者の芸術性だ。曲の把握と解釈のいかんであって、これまた、当然すぎることだが、しばしばそれがレコードでやってくる場合、装置の鳴り方いかんが指揮者の芸術を変えてしまう。
     *
「ワグナー」では、こう書かれている。
     *
 ドイツ民族のサーガ神話は、楽劇のストーリーとして興味があるにすぎない私は聴衆だから、膨大な『ニーベルンゲンの指輪』の序夜に、ファーフナーなる巨人が登場したことなど、二日目の『ジークフリート』を聴く時には綺麗に忘れている。ジークフリートの剣に刺される大蛇が実はファーフナーだと、解説を読んでもぴんとこないくらいだ。神話に対しては、それほど私はずぼらな聴衆である。つまり真のワグネリアンでは断じてない。いつかはワグナーの楽劇の膨大さそれ自体にうんざりする日がくるかも分らない。
 が今はまだ、ワグナーの楽劇をその完璧なスケールの大きさで再生してくれる、わが家のステレオ装置をたのしむ意図からだけでも、繰り返し聴くだろう。ドイツ的なワグナーがテレフンケンではなくて英国のタンノイでよりよく鑑賞できるのは、おもえば皮肉だが、バーナード・ショーは死ぬまで、イギリスは自国のワグナー音楽祭を持つべきだと主張していたそうだ。前にも書いたことだが、タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。
     *
いうまでもなく《タンノイの folded horn》とは、五味先生のオートグラフのことである。
オートグラフでワグナーを聴いた経験は、私にはない。
けれど、五味先生がいわんとされることはわかる。

オートグラフの現代版といえるウェストミンスター。
構造的には同じといえる、このふたつのスピーカーシステムの違いは、
私にはオートグラフはベートーヴェンであり、ウェストミンスターはブラームスである、と以前書いた。

その意味でいえば、ワグナーを聴けるのはオートグラフともいえる。

このことはひどく主観的なことであり、賛同される人はいないであろうが、私にはいまもそう感じられる。
おそらく死ぬまで変らないのではないだろうか。

五味先生の書かれたものを読みすぎたせいかもしれない、と思いつつも、
ワグナーをオーディオで聴くという行為は、
他の作曲家の作品をオーディオで聴くという行為とは違う面があるように感じてしまう。

それはなんだろうか、と考えていた。
単なるワグナーへの思い入れ、思い込みからきているだけのものとは思えない。
だから考え続けていた。

答らしきものとして出てきたのは、演出である。
菅野先生はレコード演奏といわれた。

たしかにそのとおりである。
そこにワグナーの場合、レコード演出が加わってくるのではないだろうか。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その11)

ベストバイという企画は、人気のある特集である。
だからこそ43号以降、毎年一回、ステレオサウンドはベストバイを特集にもってきている。
実際にベストバイの号の売行きはいい、ときいているし、
最近では年末の号(ベストバイが第二特集となっている)では、特別定価である。

つまりベストバイの号だけ買う読者がいる、ということである。
その一方で、ベストバイの号だけは買わない、という読者がいる、ということもきいている。

買わないという人たちに共通する意見として、
ベストバイはカタログ誌(号)である、というのがある。
口の悪い人になると、ベストバイだけではない、最近のステレオサウンドすべてがカタログ誌だ、と。

以前も書いたことだが、ほんとうにいまのステレオサウンドはカタログ誌だろうか、
もっといえばカタログ誌たりえているだろうか。

昔からステレオサウンド、その別冊を読んできた者にとっては、
年二回刊行されていたHI-FI STEREO GUIDE(のちのStereo Sound YEAR BOOK)こそが、
カタログ誌と呼べる内容の本だった。

ベストバイの号をカタログというのは、侮蔑の意味が込められている。
けれどカタログは必要でもあり、
カタログ誌も必要なものである。

カタログはメーカーや輸入商社、もしくはオーディオ店から貰うものかもしれないが、
これらはカタログは、当然のことながら、
そのメーカーの、スピーカーならスピーカーだけ、アンプならアンプだけのカタログであることが多い。

けれど、これがカタログ誌となると、すべてのブランドの、すべての機種を一冊で網羅している。
HI-FI STEREO GUIDEは、その意味でカタログ誌であり、そこには侮蔑の意味はまったくない。

HI-FI STEREO GUIDEは地味な存在である。
けれど大切にしなければならない存在でもあった。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その7)

ステレオサウンド別冊「魅力のオーディオブランド101」に、
日本マランツの商品企画部部長の株本辰夫氏の発言が載っている。
     *
株本 ついこのあいだ、マランツさんに会ったんですよ。私にとっては2度目なんですが……。
 相当なお年なんですが、矍鑠として、自分のあたらしい会社で、自分の気に入った製品をつくっておられます。
「実はおれのところにCDがほしいんだ。おまえのところにはCDのいい技術があると聞いているんだが、売ってくれないか?」というお話があったわけです。
 いま、とても小規模にやっておられるのですが、一番教えられたのは、メーカーとしての機能をギブアップされないのですね。
 私どもからCDの供給を受けるといっても、完成品を買うのではなくて、最後の仕上げは自分のところでやりたいようです。
 自分のところにメーカーとしての機能を残しておかなければ、満足するようなものは作れない、というのが、マランツさんの考えかたです。
     *
「魅力のオーディオブランド101」は1986年だから、
このころのマランツの新しい会社というのは、ジョン・カールが参画していた会社のことかもしれない。

そのへんの詳細ははっきりしないが、この株本氏の発言に出てくる「メーカーとしての機能」、
このことについて考えてしまう。

メーカーとしての機能とは、いったいどういうことなのか。
残念ながら、「魅力のオーディオブランド101」には、その説明は出てこない。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: 川崎和男

KK塾(DNPのこと)

別項「続・再生音とは……(その15)」に、
オーディオの世界も、音による空気への印刷と捉えることができる、と書いた。

KK塾では毎回、DNPの社員によるプレゼンテーションがある。
今回もそうなのだが、このプレゼンテーションを見ていると、
印刷は出力であり、出力するためには入力が必要であり、
その入力されたものを処理する技術も必要になる。

このことを改めて実感する。

印刷といえば、やはり紙への印刷であり、
DNPにとっても紙への印刷がメインであっても、
印刷領域の拡大と、その精度は確実に進歩している。

オーディオの世界も入力、信号処理、出力からなる世界である。
だから、DNPの取組みをみていると、
もしかしたらDNPはオーディオの世界に進出することもできるのではないか、とさえ思えてくる。

そうなったら、既存のオーディオメーカーとは違う「印刷(出力)」を見せてくれそうな予感すらある。