使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その5)
調教ということになれば、そこには主従が生れる。
主はスピーカーの使い手(鳴らし手)、従はスピーカーということになり、
主従の契りがある。
別項で、このことについて書いた。
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用を、もう一度添えておく。
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用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
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《器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増す》とある。
器は、ここではスピーカーだ。
この主従の契りがない調教では、スピーカーは決していい音で鳴ってはくれない。
いいかれば、主従の契りがあるからこそ調教が成り立つ。
と同時に、別項の最後に書いたように、主従の関係を逆転させる時期をもったことのない者には、
モノの調教はできない、といえる。
私はそう信じている。