Date: 10月 16th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その8)

ここでのテーマである、
「評論家は何も生み出せないのか」について考える際に、
「評論家はどうしても何も生み出せないのか」もあわせて考えると、
小林秀雄の批評についての文章を思い出す。
     *
人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。
(「批評に就いて」より)
     *
オーディオ評論家と、いま呼ばれている人たちも(書き手側)、
オーディオ評論家と、いま呼んでいる人たちも(読み手側)、
小林秀雄が指摘しているように、根本のところで《そういう風に考える人々》なのではないのか。

結局、愛のないところには、何も生れない、
このことにつきる。

Date: 10月 15th, 2022
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(アルテック604の現在)

Great Plains Audio(グレート・プレーンズ・オーディオ)は、
1998年にアルテックの資産を受け継いで創業している。

一時期、活動を停止した、というウワサも耳にしたけれど、
いまはまた活動しているようである。

グレート・プレーンズ・オーディオ(GPA)のサイトを見ると、604の最新版がある。
604-8E IIと604-8H IIとがある。

604-8E IIがアルニコ仕様で、604-8H IIがフェライトである。
フレームの形状からいえば、604Eではなく、
604-8Gもしくは604-8Hの後継機となるのだが、そのところはまぁどうでもいい。

私が気になるのは、というか、アルテック時代の604シリーズと大きく違うのは、
ホーンである。

GPAのサイトには604-8E IIと604-8H IIの真横からの写真がある。
ホーンがフレームよりも前面に突き出している。

アルテックの604のホーンはフレームよりも前に出ていない。
だからユニットを下に向けて伏せて置くことができる。

新しい604は、もうできない。
音のため、なんだろう、とは誰だって思う。

音が良ければ、突き出している方がいい、という捉え方もできる。

ホーンがフレームよりも前に張り出している同軸型ユニットは、
604-8E IIと604-8H II以前にも存在していた。

それだから、どうでもいいことじゃないか、と割り切れればいいのだが、
どうも私は、この点が気になる。

GPAの同軸型ユニットのホーンがフレームよりも前に突き出ていてもいいのだけれど、
ならば604という型番ではなく、違う型番にしてほしかった。

八年前、別項で、
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である、
と書いた。

いまもそう思っている。
アルテックの604にあって、GPAの604にはないもの、
それに気がついてほしい。

Date: 10月 15th, 2022
Cate: 新製品

Meridian 210 Streamer(その9)

メリディアンの210にふれていて空想(妄想)していたことがある。
メリディアンのアクティヴ型スピーカーシステム、M20が、
ここにあったらなぁ──、そんなことを想っていた。

M20は40年ほど前のモデルである。
アクティヴ型とはいえ、その時代の製品だからデジタル入力はない。
なので、D/Aコンバーターは必要となる。

D/Aコンバーターはメリディアンの218、
それに210を組み合わせて、M20を鳴らすという組合せを空想していた。
その音を、想像していた。

M20はさほど大きくない。
218も210もそうだ。
コントロールアンプは、あえて使わない選択をする。

全体にこじんまりしたシステムにまとまる。
M20はいまとなっては、もう古い機種、
そこに218と210を組み合わせるのは時代的には隔たりがある。

けれど、そんなことはどうでもいいように思う。
聴いたわけではないし、これからも聴くことはまずないだろう。

だから、つい、どんな音が鳴ってくれるのか、と想像する。
その音は、別項で触れている「見える音」でもないし、「見るオーディオ」でもない。

でも、私にとっては感じられる音、感じられるオーディオである、はずなのだから。

Date: 10月 14th, 2022
Cate: 書く

続・言いたいこと

2008年9月3日、最初に書いたのが「言いたいこと」である。
これを書きたいがために、このブログを始めた、といっていい。

もちろん始めた理由はこのこと一つだけではないが、
このことが理由としては最も大きい。

この日から十四年とちょっとが経った。
あと四ヵ月もしないうちに、このブログも終る。

これが12,261本目になる。

「言いたいこと」は「わかってほしいこと」でもあったわけだが、
どれだけ伝わっているのかは、なんともいえない。

こんなことを書かなくてもわかってくれる人もいる。
そういう人と、このブログを始めたことで出会えている。

でも、わかってほしい、と思っていた人は、案外わかってくれていない──、
と感じている。

なんとなく感じているだけではなく、
あぁ、この人は変らないなぁ……、とおもったことが何度かある。

だからといって嘆くこともない。
昔から、そういう人はいたし、いまもいる。

瀬川先生は、辻説法をしたい、といわれていた。
audio identity (designing)は、私なりの辻説法でもあった。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その36)

このブログを始めたばかりの頃、
2008年9月に、
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい、
と書いている。

再生音は現象だからこそ、おもしろいし、
オーディオを長く続けているのだ、といまひとりで納得している。

ステレオサウンド 38号に、
黒田先生が八人のオーディオ評論家のリスニングルームを訪問された特集がある。

そこで「憧れが響く」という文章を書かれている。
そのなかに、こうある。
     *
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日の音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
     *
この黒田先生の文章と再生音は現象ということが、
いまの私のなかではすんなり結びついている。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その10)

インターナショナルオーディオショウの、
各ブースのスケジュールが発表になっている。

このスケジュール表ではわからないのは最初からわかっていることなのだが、
私が今年のショウでいちばん関心あるのは、
マジコのM9が聴けるのかどうか、である。

今回オーディオショウに足を運ばれる多くの人の関心は、ここにあるように思う。
価格といい重量といい、どこかに行けば聴けるというシロモノではない。

エレクトリのブースで、M9は聴けるのだろうか。
運搬・搬入、設置の大変さを考えると、M9がなくてもしかたない、と思ってしまうが、
それでも聴きたい気持は、やはり強い。

おそらく聴けるだろう、と勝手に期待している。

スケジュール表をみて気づくのは、柳沢功力氏の名前がないことだ。
昨年のオーディオショウには行ってないので、どうだったのかはわからないが、
今年は、どの出展社のところにもない。

コロナ禍前は、ステラ/ゼファンのブースで、最終日は柳沢功力氏という感じだった。

とにかくスケジュール表にある名前を眺めていると、
ずいぶんかわってきたなぁ……、とおもうだけである。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: 菅野沖彦

10月13日(2022年)

四年が経った。
一年前に、三年が経った、
二年前には、二年が経った、と、
三年前には、一年が経った、と書いている。

ここまで書いて、来年(2023年)の1月で、このブログも終るのだから、
「五年が経った」と書くことはないのに気づいた。

私がステレオサウンドにいたころ、つまり1980年代なのだが、
菅野先生は何度か「若さはバカさ」といわれていた。

最近、この菅野先生のことばを思い出す。
「若さはバカさ」ならば、「バカさは若さ」ではないのか、と続けて思うようになった。

Date: 10月 12th, 2022
Cate: 所有と存在

所有と存在(その19)

音楽も音も所有できない──、
そう考えるようになって十年以上が経つ。

音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
一方で、音も音楽も所有できる、と思っている人たちがいる。

私はどこまでもいっても所有できないと考える人間だし、
この考えは今後も変ることはない、と断言できる。

音楽を所有できる、
音を所有できる、
そう考えている人は、美を所有できる、と考えているのか。
そう問いたくなる。

Date: 10月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

La Veillée de NOËL

スージー・ルブラン(Suzie LeBlanc)の“La Veillée de NOËL”。
今日、知ったばかりのアルバムだ。

といっても今年発売になったCDではなく、2014年12月に発売されている。
八年経ったいま、ようやく知ったところだ。

しかもスージー・ルブランについても、まったく知らなかった。
スージー・ルブランは、1961年10月27日生れ。

なので少なからぬ録音を行っている。
なのに、今日初めて知って、初めて聴いた。

TIDALがなければ聴くことはなかっただろう。

スージー・ルブランの声はとてもいい。
どんな声か、ときかれると、答えにくい。

マリア・カラスのように強烈な個性があって、という声ではない。
柔らかいし、ぬくもりがある。
だからといって腑抜けた声、表現ではない。

スージー・ルブランの声が硬かったり、きつい感じになったり、
反対に芯のない声のようにきこえたりしたら、
それはその人のシステムの音が悪い、といいたくなる。

“La Veillée de NOËL”はMQA(88.2kHz)で配信されている。
スージー・ルブランの声は、MQAで聴いてほしい、と思っている。

スージー・ルブランの声の特質を、MQAはあますところなく発揮してくれるように感じられる。
スージー・ルブランをもっと早くに知る機会はあったのかもしれないが、
いま(今日)でよかった、とも感じている。

MQAで聴くことができたからだ。
変な言い方だが、それほどスージー・ルブランの声(表現)はMQAとの相性がいい。

Date: 10月 11th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その37)

ステレオサウンド 224号、342と343ページ、
山本浩司氏が、ディナウディオのContour 60iの新製品紹介記事を書かれている。

見出しに《誰をも「見るオーディオ」の虜にする魔力が宿る》とある。
当然、山本浩司氏の本文の最後に、
《誰をが〈見るオーディオ〉の魔力の虜になってしまうに違いない》とある。

オーディオアクセサリー 186号、46、47ページ、
小原由夫氏が、パラダイムのPERSONA Bの導入記を書かれている。

見出しに《“見える音”を具現化してくれる》とある。
小原由夫氏の本文冒頭に、
《いつの頃だったか、オーディオ再生において『見える音』を意識し始めた》
とあるだけでなく、
PERSONA Bの音について、
《ペルソナBがもたらす『見える音』は、手を伸ばせば触れられそうなリアリスティックな音のフォルムだ》
とある。

小原由夫氏は、見える音について、
《見える音とはつまり、ステレオイメージの中にヴォーカリストや楽器奏者が明確な音像定位を伴って、リアルに浮かび上がり、それが3次元的なホログラフィックの如く見えることだ》
というふうに説明されている。

山本浩司氏のContour 60iの試聴記には、
《高さ方向のみならず奥行きの深い3次元的な広がりを持つステージが構築される》
とある。

山本浩司氏のいう《見るオーディオ》、
小原由夫氏のいう《見える音》は、同じことをいっていると受けとっていいはず。

そして、これは耳に近い音のことなのだろう。

Date: 10月 10th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その36)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会、
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。

リアリティのある音だからこそ、
こういうふうに感じることができるのではないだろうか。

Date: 10月 9th, 2022
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その13)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
純度を高めていったわがまま──、ということをふと考える。

Date: 10月 9th, 2022
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(50CA10単段アンプ・その15)

(その4)に書いているように、
シャーシーは、タカチのSRDSL8である。
SRDは鈴蘭堂の略で、鈴蘭堂のSL8の復刻版である。

伊藤先生のEdプッシュプルアンプに憧れてきた私にとって、
鈴蘭堂のSLシリーズのシャーシーで不満なのは、
天板の長辺二辺を折り曲げていること。

フラットな天板に、なぜしないのか、とみるたびに思う。
ああいうふうに曲げることで、天板の剛性を確保していることはわかっている。
それでも、垂れ下がっているように感じてしまうから、
天板に関しては、アルミ板を別途購入し、加工するつもりだ。

それにしても、なぜ曲げるのか。
剛性ばかりではないようにも思っている。

マッキントッシュの管球式パワーアンプの影響があってのこと、とも思っている。
MC275もMC240も、天板のこの部分を折り曲げている。

もっともマッキントッシュの場合は、
入出力端子が取りつけられている部分もいっしょに折り曲げていることもあって、
鈴蘭堂のシャーシーに感じるような不満はない。

Date: 10月 9th, 2022
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その10)

一年ほど前、
別項「オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その8)」で、
音元出版のanalogが良くなっていることに気づいた、と書いた。

不満がないわけではないが、期待もしている。
そのanalogの最新号、vol.77に赤塚りえ子さんが登場されている。

「レコード悦楽人Special 赤塚りえ子さん」という記事だ。
「レコード悦楽人」は連載記事で、今回の赤塚さん登場の記事には、specialがつく。

赤塚りえ子さんが登場しているからなのか、
vol.77からの田中伊佐資氏の新連載のタイトルは、
「レ・レ・レ・トーク」である。

レコ好きのレコ好きによるレコ好きのための、とあるから、
それゆえのレ・レ・レなのだろうが、
私くらいの世代だと、やはり「レレレのレー」であり、レレレのおじさんが、
まっさきに浮んでくる。

文藝春秋から「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」のという本が出ているくらい、
レレレ・イコール・赤塚不二夫とレレレのおじさんである。

9月29日から、
フジオプロ旧社屋をこわすのだ!!」展がやっている。
10月30日までの開催予定だったのだが、早くもチケットが完売になったため、
11月3日から11月20日まで会期延長される。

チケット販売開始は10月17日、午前0時から。
詳細は上記のリンク先をご覧いただきたい。

私は10月7日に行ってきた。
最寄りの駅は西武新宿線の下落合。
初めて降りる駅だな、と思いながら、下落合の改札を出て、
あれっ? と感じていた。
来たことある、何度か来ている、と思い出した。

私がステレオサウンドにいたころ、エレクトリは下落合にあった。
フジオプロ(旧社屋)はエレクトリの近くにある。

Date: 10月 8th, 2022
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(自動補正がもたらすもの・その3)

その2)を書いたのは、2018年3月。
いまは2022年10月。

その間に何があったかというと、MQAとの出逢いがあった。
メリディアンのULTRA DACの導入はいまのところ無理だけれども、
メリディアンの218を導入することで、そしてTIDALを利用するようになって、
日常的にMQAがもたらしてくれる音のよさにふれていると、
ここでのテーマについての考えに変化が生じている。

ここでの「自動補正」とはデジタル信号処理によるものだ。
これらの自動補正のオーディオ機器が、これからMQAに対応してくれるのどうか。

技術的にMQAと信号処理は両立できる。
事実、roonはMQAであっても、イコライジングを可能にしている。
詳しい説明は省くが、MQAの折りたたんでいる信号のところではなく、
元の信号のところだけに対して信号処理をかけることで、MQAであることを維持している。

なので自動補正の機器も、同じように信号処理をしてくれればMQA対応となる。
けれど、いまのところ、そういう製品が登場するということは聞こえてこない。