Date: 10月 21st, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その8)

CDプレーヤーの天板の上に、CDのプラスチックのケースを置く。
それだけで音は変化する。
この場合の変化する、は、悪い方への変化である。

たった一枚のケースを置いただけでも、間違いなく音は悪くなる。
機種によっては、その出方(量)に多少の差はあっても、音は悪くなる。
まったく音が変らない、ということはない。

プラスチックのケースを置いたことによる、
ほんの少しの雑共振の発生が音が悪くするわけで、
だからステレオサウンドの試聴のとき、
井上先生にこのことを指摘されて以降は、CDプレーヤーの天板の上はもちろんのこと、
原則としてCDプレーヤーを置く台(私がいた頃はヤマハのGTR1Bだった)の上にも中にも置かなかった。

こんなことで音が変るなんてことはあり得ない、という人がきっといるはず。
変らないのではなくて、その人の耳に変化が感知できないのであって、
それは必ずしもその人の聴き方が未熟だとは限らない。
聴いているシステムの使いこなしのレベルが低いこともある。

頭でっかちになって理屈だけをふり回して、
そんなことで音は変らない、と決めつけてしまう前に、
いちど徹底的に自分の使いこなし、ひいてはいま鳴っている音のレベルを疑ってみてほしい、と思う。
音は、どんな些細なことによっても必ず変る。
何かを変えて変らない、ということはない。

変らない、のではなく、変らないといっている人が聴きとれていないだけのことである。

オーディオを科学するために、まず必要なのは観察力である。
オーディオにおける観察力は、聴くことであり、
もっともしんどいことが、聴くことである。

だから、このしんどいことから逃げるために、理屈をつけて音は変らない、という逃げ道をつくり、
そこにひきこもってしまうのは、その人の自由ではあるが、
音が変る現象を、オカルトだと決めつけ、攻撃的になるのはやめてほしい。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その7)

オーディオにおける「異相の木」は、
すべてのジャンルについて存在するのだろうか。

私にとっての「異相の木」はJBLのD130であることは、(その6)に書いた。
他に、どんな異相の木が私にはあるのか、と考えていた。

スピーカーだけに限らず、アンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤー、カートリッジにおいて、
異相の木と呼べるモノが、私にはあるのだろうか。
私に限ることはない。

他の人でいい。
私以外の人の場合、その人にとっての異相の木は、
私と同じようにスピーカーになるのか、それともアンプだったりするのだろうか。

黒田先生が「異相の木」を書かれたのは、ステレオサウンド 56号(1980年)だから、
まだCDは登場していなくてアナログディスク全盛の時代だった。
アナログディスクを再生するカートリッジも、実に豊富だった。

カートリッジもまた、スピーカーと同じく変換器である。
しかもスピーカーとは違い、場所をとらない。
それに同じ部屋に複数置いていても、特に音に影響はない。

スピーカーの場合、同じ空間に鳴らさないスピーカーがあれば、
それが鳴っている音に影響を与えるわけだが、カートリッジには原則としてそういうことはない。

あえて「原則として」と書いたのは、
複数のカートリッジ所有している人で、
それらの複数のカートリッジをアナログプレーヤーの置き台に並べている。
あまりいないけれど、プレーヤーの、空きスペースに置いている人も、何かの雑誌の写真で見かけたこともある。

井上先生が散々いわれたことだが、
こんなふうにカートリッジを無造作に置くのは、音質上影響を与える。
わずかとはいえ、台の上、プレーヤーの上に置いたカートリッジが共振してしまうためである。
だからプレーヤーまわりは、つねに片づけておかなければならない。

ステレオサウンドでの試聴の時も、
アナログプレーヤーを使わないときは、
プレーヤーの置き台はカートリッジやクリーナーなどアクセサリーの置き場所になっている。
けれどアナログプレーヤーを使う試聴にはいると、台の上には何一つ置かない。
置いていた方が便利であっても、だ。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”はCD一枚一枚は紙ジャケットにおさめられている。
この紙ジャケット、ボックスもの、それも廉価盤だと、サイズがぎりぎりなものがかなり多い。
だからCDを取り出すときもしまうときも、きつい。
ジャケットの内側に盤面がすれて、キズがつきやすい感じがして好きになれない。

実際、少なからずキズがついていることも、最近増えている。

ボックスもののCDでも、LPのような薄い紙の内袋におさめられているものだと、
スムーズにとりだせるし、CDの盤面にキズがつく心配もない。

前者のボックスものだと、愛聴盤といえどもCDを取り出すのが億劫になる。
取り出しにくいから、ということもあるけれど、ディスクにどうしても細かいキズがはいっていくからである。

紙ジャケットだけではない。
プラスチックケースのものでも透明タイプのものだと、
ディスクをクランプしているツメの部分がかたすぎて、
CDが取り外しにくいものが、少なからずある。

このことを話してみると、どうもクラシックのCDに関して、多く見受けられることのようだ。
ロック、ポップスのCDをかなりの枚数購入している友人の話では、
そういう経験はいまのところはない、とのこと。

このすべて透明なプラスチックケースの、ディスクの取り外しにくさは、
ギリギリサイズの紙ジャケットよりも、イヤになる。
ディスクが割れるんじゃないか、と心配になるほど反ってしまうことがあるからだ。

正直、ツメの何本かを割ってしまおうかと思いたくなるほど、
ディスクをしっかりとくわえこんでいてディスクを解放してくれない。

聴きたい! と思っても、取り出したいディスクが、この透明のプラスチックケースだと、
聴くのをやめようかな、と思う。

すべての透明のプラスチックケースがそうではない。
すんなり取り出せるケースもある。
けれど、この2、3年の間、クラシックのCDに関しては、
聴き手の心情をまったく考えていないケースが着実に増えてきている。

これらの紙ジャケット、透明のプラスチックケースのCDだと、
極力リッピングするようにしている。
聴きたいと思うたびに、ディスクの取出しでイヤなおもいをしたくないからである。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その2)

バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う。

手に入れること、自分のものとすることが愛ではなくて、
自分の全てを捧げる、そういう愛だからこそ、
それまでの人生によって培われてきた自身の全てをささげるのだから、執拗にもなるだろう。

同じひとりの人間でも、颯爽としていた身体をもっていた若い頃と、
醜く弛んだ肉体になってしまった老人とでは、愛のかたちも変ってきて当然である。

バーンスタインのトリスタンとイゾルデ、
マーラーの新録音、モーツァルトのレクィエムをはじめて聴いたとき,
私はまだ20代だった。

だから、いま書いている、こんなことはまったく思いもしなかった。
それでも、強い衝撃を受けた。
バーンスタインの演奏に強く魅了された。

それから約四半世紀が経った。
まだ、トリスタンとイゾルデ、マーラー、
モーツァルトのレクィエムを振ったときのバーンスタインの年齢には達していないが、
ずいぶん近づいてきている。

いまもバーンスタインの演奏を聴く。
そして、より深く知りたいと思うから、
若い頃には関心の持てなかったコロムビア時代のバーンスタインも、すべてではないが聴いている。

コロムビア時代のバースタインのマーラーと、
ドイツ・グラモフォン時代のバースタインのマーラー、
やはり私は後者をとる。

コロムビア時代のマーラーも、いま聴くと、若い頃には感じ難かった良さを感じている。
それでも私は、ドイツ・グラモフォン時代のマーラーをとる。
老人の、執拗な愛によるマーラーを。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続々・1990年10月14日)

コロムビアに、あれだけの録音を残しているバーンスタインなのに、
モーツァルトのレクィエムだけは残していない。

ドイツ・グラモフォンでの、1988年7月のライヴ録音が、バーンスタインの初録音ということになる。
すこし意外な気もする。
いままでモーツァルトのレクィエムを演奏してなかった、ということはないと思う。
なのに録音は残していない。

1988年7月のコンサートは、愛妻フェリチア没後10年ということによるもの。
それが録音として残され、CDになっている。

1988年7月ということは、バーンスタインは70の誕生日まであと2ヵ月という年齢。
バーンスタインが、このときどう思っていたかは、まったくわからない。
けれど、レクィエムの再録音をすることはない、と思っていたのではなかろうか。

録音して残す、最初で最後のモーツァルトのレクィエムを、
バーンスタインは、そういう演奏をしている。
だから聴き終ると、ついあれこれおもってしまう。

当っていることもあればそうでないこともあるだろう。
でもどれが当っているかなんて、わからない。
それでも、おもう。

おもうことのひとつに、こういうバーンスタインの表現は、いまどう受けとめられているのだろうか、
そして、バーンスタインの演奏をしっかりと鳴らしてくれるスピーカーシステムが、
現代のスピーカーの中に、いったいどれだけあるんだろうか、ということがある。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 電源

電源に関する疑問(その26)

電源部を構成する部品は、そう多くはない。
ここでは伊藤先生の349Aプッシュプルアンプの音を聴いたことから出発しているから、
ここでの電源部とは定電圧電源を使用しない、真空管アンプ用の電源を前提としてすすめていく。

定電圧電源にすれば部品点数はすごく増えるものの、
いわゆる非安定化電源ならば、
電源トランス、整流管もしくは整流ダイオード、平滑コンデンサーがあればいい。

電源トランスは磁性体のコアに2つ以上のコイルを巻いたものである。
1次側のコイルがAC電源に接がれ、
2次側のコイルが整流管(整流ダイオード)を経てコンデンサーへと接がっている。
さらに真空管アンプではコンデンサーは出力トランスの1次側のコイルへ、となっている。

つまりコイルとコンデンサーとコイルが並列になっている状態である。
コイルとコンデンサーがあれば、必ずどこかで共振する。
電源トランスの2次側のコイルと平滑コンデンサーとが、
平滑コンデンサーと出力トランス1次側とのコイルとが、共振していると考えていいはず。

共振であれば、そこには共振周波数とQが存在する。
コンデンサーの容量をやみくもに増やすことは共振周波数を下げていくことになる。
そしてレギュレーションをよくするために電源回路のインピーダンスを下げるということは、
Qに関係してくる。つまりQが大きくなるわけだ。

共振周波数とQの具合によって、低音がボンつくとは考えられないだろうか。

こう仮説をたてると、電源回路に直列にはいっている1kΩの抵抗の役割がはっきりしてくる。
これだけ値の高い抵抗をいれることで電源インピーダンスは高くなるけれど、
それゆえにQを抑えることができる。

整流管を内部抵抗の小さな5AR4から内部抵抗の高い274Bに変えることも、
整流管としての5AR4と274Bの内部構造、材質の違いなどの差も音に関係していると同時に、
内部抵抗が高いことによってQが抑えられている、ということも考えられる。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その20)

ソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)の比較については、
まだまだ、細々と書いていきたいことがあるけれど、
それを全部書いていると、この項がなかなか先に進めなくなるので、このへんにしておく。

TA-NR10とML2(No.20)を比較していくと、
多少強引ではあると自分でも思うのだが、ヤマハのピアノとスタインウェイのピアノの比較と、
どこか通じているものがある、と私は感じている。

ヤマハのピアノには、スタインウェイのピアノやベーゼンドルファーのピアノにある、
聴けばすぐに印象として残る音色の強さ、といったものがない。

ピアノを弾かない聴き手にとって、スタインウェイやベーゼンドルファーのピアノは、
音色の魅力にあふれているようにも聴こえ、それだけヤマハのピアノよりも魅力的に思えてくる。
だから、どこかにヤマハのピアノよりも、スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノのほうが上、
といつしか思い込んでしまうようになっている。

グレン・グールドがヤマハのピアノを選ぶよりも前に、
カッチェン、リヒテルがヤマハのピアノを、スタインウェイやベーゼンドルファーではなく、選択している。
そういうことも知識としては持ってはいても、
やはりどこかスタインウェイ、ベーゼンドルファーの方が上だと思い込みたい気持がある。

そんな気持があるからこそ、ベーゼンドルファーがスピーカーを発表したとき、心ときめかす。
ヤマハもピアノをつくっているし、スピーカーもずいぶん昔からつくっている。
なのに、ヤマハのスピーカーに対して、ベーゼンドルファーのスピーカーほどの思い入れがもてない。

そこには、ヤマハのピアノの完成度とヤマハのスピーカーの完成度の違いということも関係しているけれど、
ただそれだけのことでもない。

その4)で引用した菅野先生の言葉にもあるように、
欧米文化へのコンプレックスをとおして、ヤマハとスタインウェイをくらべていた可能性がある。
ピアノだけではない、スピーカーに関してもアンプに関しても、である。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続・1990年10月14日)

昨夜遅く、といっても正確には今日の午前2時すこし前という時間に、
バーンスタインのモーツァルトのレクィエムを、ひっそりと聴いていた。

スピーカーは、テクニクスの30年以上前の古いモノ。
ヘッドフォンの駆動部をアルミ製のエンクロージュアに収めたモノといったほうがいいSB-F01で聴いていた。

このSB-F01は目の前30cmほどのところに置いている。
もともと大きな音量で聴くためのスピーカーではないから、
このくらいで距離で聴いたときに、このスピーカーの良さは活きてくる。

遮音に優れたところに住んでいるわけではないから、
こんな時間に音楽をスピーカーから聴くには音量を絞らざるをえない。

こういう聴き方もいい。

音量と音像と距離、
この3つのパラメータの関係は、
使っているスピーカー、鳴らしている部屋、聴く音楽、聴く音量によって、
じつにいくつもの組合せがあって、どれが正解とはいえないおもしろさがある。

同じ音量で鳴らしていても距離をとった聴き方とスピーカーにぐんと近づいた聴き方では、
音楽の印象も少なからず変ってくるところがある。

SB-F01による音像は小さい。
その小さな音像を、すこし上から見下ろすように聴いていた。

ひっそりとした音量、小さな音像とは、
およそ似合わない、といいたくなるバーンスタインによるレクィエム。

ここでもバーンスタインはかなり遅めのテンポで劇的なレクィエム、荘厳なレクィエムを表出させている。
これもまた執拗といっていい、そういうレクィエムだと思う。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×五・チャートウェルのLS3/5A)

LS3/5AはBBCモニタースピーカーであり、
ロジャースはBBCからのライセンスを受け製造・販売していた。

BBCのライセンスを受けることができればロジャース以外のメーカーでもLS3/5Aは作れる。
なにもLS3/5Aだけではない。他のBBCモニタースピーカーを作っていける。
実際LS3/5Aはいくつものメーカーから登場することになり、
LS3/5Aに関心のあるマニアにとっては、
どこのLS3/5Aこそが優れているのか、ということが高い関心へとなっていく。

数としてはロジャース製がもっとも出ているのだろう。
もっとも数が少ないのがチャートウェル製であることは間違いない。

LS3/5AはBBCライセンスのもと、厳格な規格で作られているスピーカーシステムである。
つまりスピーカーシステムとしての性能においては、
どこのメーカーのLS3/5Aであろうと、違いがあってはならないわけだ。

なのに、なぜLS3/5Aのマニアは、夢中になるのか。
何に夢中になっているのか。
それは、音色、ということになる。

この音色は、オーディオ的音色である。

LS3/5Aに使われているユニットは、
ウーファーもトゥイーターも KEF製で、B110とT27である。
どこのメーカーのLS3/5Aも、このKEF製のユニットを使わなければならない。

ネットワークの回路もライセンス通りに作らなければならない。

にも関わらず、各社のLS3/5Aには、関心のない人にはわずかな違いしかないとしか思えるのものが、
LS3/5Aに高い関心をもつ人にとっては、決してわずかではない違いになる。

この違いは、他社製の、まったく異るスピーカーシステムとの音の違いに比べれば、
事実、ほんのわずかな違いではある。
ロジャース製のLS3/5Aとロジャース製の他のスピーカーシステムの差よりも小さい。
けれど、各社のLS3/5Aを比較して聴くような人にとっては、
その差はわずかでも、その差がもつ意味は大きい。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その19)

このフロントパネルのハンドルと同じことがヒートシンクにもいえるのが、
アメリカの、きちんとつくりこまれた、ML2(No.20)と同時代のパワーアンプに共通するところである。

たとえばML2のヒートシンクのフィンの先端部分に、
銅を細く切った板をおけば、フィンの鳴きは異種金属のダンプにより、そうとうに抑えられる。
さらに出力段のトランジスターの保護用のコの字型カバーを取り外す。

これらによる音の変化は、フロントパネルからハンドルを外したときの音の変化に共通する。
はっきりと良くなるところが確かにある。
けれど、これらの鳴きを含めて音をつめて製品として完成させていることを確認することになる。

これらの鳴きが、うまいぐあいに、音の輪郭に手応えを感じさせている、とでもいおうか。
鳴きの発生を抑えたり、鳴きの原因であるパーツを外したりすることで、
その手応えが稀薄になってくる。
あえていえば、アナログディスク的な音の旨み的なものを良さとしていたのに、
その良さが失われてしまう。

そうなってしまうと、何かが欠けてしまった音、という印象につながる。

スピーカーシステムにおいて、共振は害だということで、
あれこれ手を尽くして、共振の元を取り除いたり、共振を徹底的に抑えていくことで、
聴感上のS/N比は向上していくものの、
それだけで、感覚的にいい音が得られるのかどうかは、なんともいえない。

完璧なスピーカーユニットが完成すれば、
共振、共鳴はすべて抑えた方向でいくことが正しいし、
いい音を実現するための方向であるのだろうが、
実際には完璧なスピーカーユニットなんて、いままでにもひとつとして存在していない。

スピーカーシステムもアンプにしても、
ひとつひとつは不完全な部品を組み合わせて、全体を構成していく。
だからこそいくつものアプローチが共存しているわけだ。

Date: 10月 17th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その18)

マークレビンソンのML2の登場は1977年。
このころから1990年代のはじめあたりのアメリカのパワーアンプには共通する外観の特徴があった。

フロントパネルの横幅は19インチで、立派なハンドルがフロントパネルについていた。
ML2にもついていた。No.20にも、形状の変更はあったものの、ついていた。

マークレビンソンだけでなく、クレルのパワーアンプにもジェフ・ロゥランドのパワーアンプにも、
他のアメリカ製のパワーアンプの、けっこうな数に、金属製のそれぞれに立派なハンドルがついていた時期があった。

このハンドル、
割と簡単に取り外せるモノが多かった。
はずしてみるとわかるが、けっこうな重量である。
叩いてみてもわかるように、パイプのものはほとんどなかった、と記憶している。
金属のムクである。
そして、このハンドルがついているフロントパネルが、
筐体の中で板厚がもっとも厚みをもたせてあった。

何機種かではあったが、ハンドルをはずした状態の音を聴いたことがある。
音の変化としては、かなり大きい。
外した方が、全体的な傾向として素直な音になる、といえる。
聴感上のS/N比が若干良くなり、なめらかなになっていく。

たしかによくなっている、といえる。
いえるのだが、何か物足りなさも同時に感じてしまう。
ハンドルをふたたび取り付けた音を聴くと、納得できるものを感じる。

海外製のこのころのパワーアンプは、
あくまでもフロントパネルに、わりとごつい感じのハンドルを付けた状態で、
音を決めていっている、ということだ。

だから安易に外してしまうと、そのバランスが崩れてしまい、しっくりこなくなる。
つまりハンドルもまた、ヒートシンクと同様に筐体ならぬ響体であることがわかる。

Date: 10月 17th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その13)

ふたりの音楽愛好家がいる、としよう。
ふたりともクラシックを聴く愛好家である。

ひとりはステレオサウンド 66号のベストオーディオファイルに登場された丸尾氏のように、
ノイズの多い、貧しい音のSPで音楽を聴いてきたバックボーンがある人、とする。
もうひとりは、SPの時代なんてまったく知らない、はじめて耳にしたレコードはすでにステレオ録音、
しかも優秀録音ばかりを聴いてきた人、とする。

このふたりが自分のオーディオで、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーの第四を聴いた、とする。
仮に同じシステム(音)で聴いたとする。
丸尾氏と同じバックボーンをもつ人ならば、
そこで鳴ってきたギラギラした音のマーラーであっても、
丸尾氏と同じように愛聴盤とされることだろう。

でも、もうひとりはどうだろうか。
録音のひどさ、スピーカーから鳴ってきた音の悪さによって、
バーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とすることは、
丸尾氏のようにはならないだろう、と思う。

そこに、音楽に対する想像力が関係してくるのではないだろうか。

菅野先生は、
バーンスタインの、このLPの音をギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象といわれている。
さらに著書「オーディオ羅針盤」にも、このバーンスタインのマーラーのLPのことを書かれている。
つまり丸尾氏のことについて、「オーディオ羅針盤」でも書かれている。
第5章「コンポーネント構成とその問題点」のなかの「CD否定の一般的概念(F氏の場合)」がそうだ。

ここを読めばよりはっきりとするのだが、
バーンスタインのマーラーのLP(丸尾氏所有のこの盤はCBSソニーの国内プレス)は、
2kHz〜4kHzあたりの中高域がかなり盛り上っていて、10kHz以上の高域もやかましい感じ、
400Hz〜600Hzあたりは反対に凹んでいる──、
そんな感じの録音らしい。

ここでの「録音」はテープレコーダーに記録されている録音ということではなく、
カッティングされプレスされて聴き手の元に届けられるLPを再生した印象で語られる録音である。
つまりカッティング、プレスなど、
LPができあがるまでのすべての過程を含んだ結果としての録音ということになる。

丸尾氏が、レコード番号SONC10204のバーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とされたのは、
音楽の本来の姿を想像する、という意味の想像力があったからこそ、のはず。

そのまま鳴らせば「死の舞踏」がアパッチの踊りへと、簡単に変質してしまうような録音であっても、
丸尾氏は、そこにバーンスタインが描いていた本来の姿を、少なくと頭の中で想像されていた……。
私は、そう思っている。

この想像力をもっているかいないかが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーをとるかとらないかになっていく。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々続々・チャートウェルのLS3/5A)

PM510SIIの外観は、PM510とほとんど見分けがつかない。
トゥイーターのパンチングメタルがメッシュに変更されたことぐらいである。
もっとも裏側にまわれば入力端子がバイアンプ対応になったため、
そのための変更がなされているからすぐにPM510SIIと判断はつく。

PM510をバイアンプ駆動すれば、LS5/8とほほ同じにできる。
それが結果的に望ましい音が得られるかどうかは別として、
PM510のクォリティをさらに追求する手段が、ロジャースによって提供された、ともいえる、
SIIへの改良であった。

音を聴くまで、実を言うと、PM510の購入はもうすこし待てばよかったかも……、と思っていた。
でも、ステレオサウンドの試聴室で鳴ったPM510SIIの音を聴いて安心した。
PM510を買っておいて、良かった、とも思っていた。

PM510SIIはエンクロージュアの材質も変更されている。
そのこともあって、PM510の低音に不満をもっていた人にとっては、
ずいぶんとすっきりした低音になった、ということになるのだろうが、
PM510に惚れ込んでいた私の耳には、PM510に感じていた良さの大半が失われた、と感じた。

これは市場の要求に応えた改良ということになるのかもしれない。
実際に、PM510SIIの方がいい、という人がこのときも何人もいたのだから、そういうことになるのだろう。

でも、瀬川先生が健在だったら……、と思った。
PM510に惚れ込まれていた瀬川先生ならば、PM510SIIの音になんといわれるか。

PM510SIIを聴いて、もうひとつ思っていた。
私がロジャースのスピーカーの中で惚れ込んでいたのはPM510とLS3/5Aだけである。
このふたつのスピーカーシステムは、ロジャースが製造していることは間違いないけれど、
ロジャースが開発した、とはいえないスピーカーシステムであることを、思っていた。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その17)

いま市販されているスピーカーシステムに限っても、さまざまな種類が存在している。
過去のスピーカーシステムまで含めれば、その種類はさらに増す。

スピーカーユニットの形式もいくつもあるし、口径も実に豊富で、
それらの組合せとなると、大変な数になる。
そこにエンクロージュアの形式、つくり、材質などといったことが加わり、
ネットワークの存在も絡んでくる。

それぞれのメーカーが、ある制約の中で出した答が、市販された、市販されている製品という見方をすれば、
たったひとつの答というものはオーディオには存在しない、ともいえる。

よく、これこれは、こうでなければならない、
それ以外は一切認めない、という物言いをする人が少なからずいる。

オーディオマニアというアマチュアだけではなく、
プロのエンジニアを名乗っている人のなかにも、そういう人はいる。

ご本人は、それだけがたったひとつの正しい答だと思い込んでいる。
そのため、他のいっさいの答を間違っているものとして認めようとしない。
そんな人は、ソニーのTA-NR10とマークレビンソンのML2(No.20)のヒートシンクを比較すれば、
どちらかを認め、他方は否定するんだろうな、と思う。

どちらを正しい答とすれば、他方はそうではない、ということになるぐらい、
ソニーとマークレビンソンの、A級100Wのモノーラルパワーアンプのヒートシンクは異る。

でも、どちらかが正しくて、他方はそうではない、ということではない。
スピーカーシステムに、実に多くの種類があるように、
パワーアンプのヒートシンクにしても、パワーアンプを構成する他の要素との関係において、
絶対的な答は存在しない、ともいえる。

どちらかをとる、ということはもちろんある。
けれど、どちらかのみが正しい、ということではない、とくリ返しておく。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その1)

音楽を聴くには十分だ、とか、
これ以上の性能はオーバースペックだ、とか、
こういった類の表現が、昔からなされることがある。

オーディオは家庭で音楽を聴く行為である。
音ではなく、音楽を聴く──、
この「音楽を」を強調する意味も含めて、音楽を聴くには十分だ、という表現だということはわかっている。

わかっていはいる。
けれど、こういう表現をみかけると、黙ってはいられなくなる。

ほんとうに、音楽を聴くには十分なのだろうか、
音楽を聴くにはオーバースペックな性能なのだろうか……。

この手の表現からは、
私は音を聴いているのではない、音楽を聴いているのだ、という主張が顔をのぞかせていることがある。

にも関わらず、この手の表現には主語がないことがある。
私、ぼく、といった主語がなく、この手の表現が使われることには、
私は強い違和感をおぼえる。

私には十分だ、となっていれば、
こんなことを書くこともない。

けれど、不思議なことに、主語がないことのほうが多いようにも思うから、
こんなことをつい書いてしまっている。