Date: 10月 25th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続・スコア・フィデリティ)

ここでいいたいスコア・フィデリティは、別項にて書いている、
録音におけるコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティの違い──、
そこでのスコア・フィデリティとは少し異る。

ここでいうスコア・フィデリティとは、
CDの直径が11.5cmから12cmに変更されたことによって増すこととなったスコア・フィデリティである。
簡単にいえば、収録時間に関することだ。

CDの直径が12cmに決ったことで収録時間は約74分になり、
ベートーヴェンの第九交響曲がCD1枚、
つまり片面で収まるようになった。
1楽章から4楽章まで、ディスクのかけかえをやることなく聴き続けられる。

なんだ、そんなことかと思われるかもしれない。
でも、家庭においてパッケージメディアで音楽を聴くうえで、
これは大事なことである。

LPではベートーヴェンの第九は、ほとんどが2枚組だった。
4面を必要としていたから、最後まで聴くには3回、レコードをかけかえなくてはならない。

この手間が面倒だと感じているわけではない。
私の世代はLP(アナログディスク)で育ってきているから、
2枚のLPのかけかえを面倒だとは思ったことはない。

でも、ベートーヴェンが第九を作曲した時代は、レコードなんてものは存在しなかった。
音楽を聴くということは、目の前に演奏者がいて、彼等が目の前で演奏している音楽を聴く、ということだった。
ベートーヴェンは(ベートーヴェンに限らずほかの作曲家も)、
レコードの収録時間を気にして作曲していたわけではない。
レコードで、家庭で、演奏者のいない空間で音楽が聴かれるようになるとは、まったく想像していなかった。

クラシック音楽を、いまの時代、オーディオを介して聴くということはそういうところとも関わってくる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(スコア・フィデリティ)

9月末に、ショルティ指揮のニーベルングの指環の限定盤がデッカから発売になった。
話題になっていたから、クラシックに関心の高い人ならばすでにご存知で入手されている方も少なくないだろう。

新たにリマスターされたCDの17枚組にDVD、30cm×30cmのブックレット、
それとは別の冊子などのほかに、この限定盤の最大の目玉(特典)といえるのが、
ブルーレイディスク1枚におさめられた24ビット・96kHzによる音源である。

CD17枚分、しかもサンプリング周波数もビット数も、
通常より高くそれだけデータ量を必要とするにもかかわらず、
ブルーレイディスクだと、1枚におさまってしまうことに、
記録密度の向上はめざましいものがあることは知ってはいても、
こういうふうに具体的な形で登場すると、
CD登場からちょうど30年の今年、その間のデジタル技術の進歩を、音とは違う面で実感できる。

DAD(Digital Audio Disc)がCDに統一されるまでは、
国内のオーディオメーカーからいくつもの規格が提案されていた。
ディスクのサイズもLPと同じ30cmで、収録時間も数時間というものがあった。

そんなに収録時間を長くして、いったいどんな音楽を入れるんだよ、という否定的な意見もあった。
たしかに、LPで流通していた音楽の大半は、それほど長い収録時間は必要としない。
クラシックの曲の大半だって、それほど長い収録時間はいらない。

けれど、オペラとなると、収録時間が長いディスクがあれば、
今回のショルティのブルーレイディスクのように1枚におさめられる。

こんなことを書くと、そんなにディスクの交換が面倒なのか、と思われそうだが、
ここでいいたいのはそんなことではない。
ディスクの枚数が減る、できれば1枚にまとめられれば、
そのことはスコア・フィデリティに関しては、高い、ということになる。
そのことをいいたいのである。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(iBooksとiBooks Author)

日付が変ってから、書きたいことがあったので、深夜ブログを更新していた。
気がついたら午前2時。ちょうどAppleのイベントのはじまる時間になっていた。
ちょっとだけ見てから寝よう、と思い、ライヴストリーミングを見始めた。

発表になったハードウェアの新製品は、
インターネットでウワサになっていたモノがほぼウワサのとおりに出てきたわけだが、
私が個人的にうれしい驚きだったのは、iBooksが縦書きに対応にしていたことだった。

いつかは縦書きに対応してくれるものだと思っていた。
でも、それは早くて来年くらいかな、と漠然と思っていただけに、
こんなに早く!? という感じを受けた。

縦書きも横書きも、どちらでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でも入力作業をやっている者としては、縦書きなのか横書きなのかは、
どちらを前提としなければすすめられないところがる。

おもに数字の入力なのだが、横書き前提でいくのならばすべて半角文字だけですむ。
縦書きとなると、1桁の数字は全角文字、2桁の数字は半角文字、3桁以上となると全角文字となる。
アルファベットの入力も、横書きならば半角文字だが、
縦書きでは英文の文章を引用するときは半角文字、型番の場合には全角文字というふうになる。

こうやって入力した文章を横書きで表示させていると、
文字の表示がバラついていて美しくない。

だから、横書きを前提とした入力に切りかえるべきかも、と考えていたところに、
縦書き対応の発表だっただけに、縦書き前提の入力を続けてきてよかった、と、
ほっとした。

しかもiBooks AuthorではTex数式ができるようになっている。
数式の入力はわずかなのだが、まったくないわけではない。
いままでは数式を言葉に置き換えていた。これもうれしい。

iBooksとiBooks Authorのヴァージョンアップによって、つくりこめる、という感覚が出てきた。
もちろん、まだまだなところもあるのはわかっている。

とはいえ、電子書籍をつくることが、これによりすこし楽しくなってくる。

しかも、今日、amazonのKindleの日本語版の発表もあった。

いつが電子書籍元年なのか、そんなことはもう少し先になってみなければわからない。
それでも、確実に、そのための環境は整いつつあるのを、実感できた日である。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その3)

映画「仮面の中のアリア」の冒頭の拍手のシーンで気づかされるのは、
観客席に大勢の聴衆がいるから、
これだけの拍手が、このコンサートを最後に引退するバリトン歌手に対して送られるのであって、
これがもし会場にまばらにしか聴衆がいなかったとしたら、
そこでバリトン歌手による歌がどれほど素晴らしかろうと、拍手の数は少なく、
そこでの拍手は、引退するバリトン歌手をみじめな気持にさせてしまうことだって考えられる。

これはコンサートというものは、ある一定数以上の聴衆が集まるからこそ成立するところがある。
100人以上の奏者がステージの上にいるオーケストラのコンサートでも、
ピアニストひとりによるコンサートであっても、
観客席には、その席を埋めつくすだけの人(聴衆)が必要だというところに、
コンサートでの音楽を成立させるものがある。

つまり原則としてコンサート会場では、
演奏者の人数よりも聴衆の人数が常に多い、ということになる。
この多数は、小ホールでは数百人、大ホールでは千人をこえる

どんなに聴衆が集まらず、がらがらだとしても、
ステージ上の演奏者の人数のほうが聴衆よりも多い、ということは、まずない。

演奏者の人数と聴衆の人数、
これが逆転するのが、グレン・グールドが選択した(求めた)音楽の聴かれ方(聴き方)ということになる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: background...

background…(その2)

ポール・モーリアのレコードをかけていたとしよう。
ポール・モーリアの音楽の聴き手は、
左右ふたつのスピーカーと聴き手との3点によってつくり出される三角形の頂点において、
微動だにせず、そこで鳴っているポール・モーリアの音楽に向い合うのだろうか。

そういうポール・モーリアの聴き方もあるけれど、
ポール・モーリアの音楽はそうした聴き方を前提としているのか、
そういう聴き方を、そこで鳴っている音楽は聴き手に求めているのだろうか。

もっと気楽に聴くことを望んでいる音楽ではないのだろうか。

ポール・モーリアの音楽をかけている(聴いている)途中で、
誰かからの電話がかかってきた、もしくは宅急便で荷物が届いたら、
電話の場合には会話の邪魔にならないようにアンプのボリュウムに手を伸ばし音量を下げるだろうし、
荷物を受けとるのであれば、そのまま椅子から立ち上り受け取ってくるだろう。

電話も大した用件でなければそれほど時間はかからない。
荷物を受けとるのは、もっと短い時間だ。

電話を切ったり、荷物を受けとったあとに、またポール・モーリアの音楽を聴くわけだが、
このとき音楽がかかってきたとき、荷物が届いたこと知らせる玄関のチャイムが鳴ったとき、
そのときまで再生した曲の途中までもどって聴き直すだろうか。

流しぱなしにしていて、
電話で話していたり荷物を受け取ってしまうのに必要な時間の分だけポール・モーリアの音楽は先に進んでいても、
その先に進んだところからまた聴く人の方が多いように思う。

私なら、たぶんそうするだろう。

カルロス・クライバーのトリスタンとイゾルデのCDが発売になったころだから、もう20年以上もことだが、
不思議なことにこのディスクを聴いていると、必ず同じ人から電話がかかってくる。

まさか、今日はかけてこないだろうな、と思って、クライバーのトリスタンとイゾルデを、
今日こそは最後まで聴き通そうとしよとうしても、やはり電話がかかってくる。

そういうとき、電話に邪魔される、という感じるわけだが、
これがクライバーのトリスタンとイゾルデではなく、ポール・モーリアの「恋はみず色」だとしたら、
邪魔された、とは感じないのではなかろうか。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×七・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのStudio Oneを、高く評価している人がいるのは知っている。
私はなにもStudio Oneが悪いスピーカーといいたいのではなく、
あくまでもBBCモニターの音に惹かれてきた私にとって、
Studio Oneは、その系列の中には含まれない、と感じた、ということである。

このStudio Oneに感じた、同じことをPM510SIIを聴いてたときにも感じていた。

Studio OneはスペンドールBCIIとほほ同じスピーカーユニット構成、
PM510SIIはPM510とほぼ同じスピーカーユニット構成、
Studio OneもPM510SIIも、BCII、PM510とエンクロージュアの構成もほぼ同じであるにもかかわらず、
私の耳には、Studio OneとPM510SII、
このふたつのスピーカーシステムがBBCモニター系列の音とは感じられなかった。

Studio OneとPM510SIIには、ひとつ共通するところがある。
エンクロージュアの材質にファイバーレジンを採用している。
ロジャースのLS7にも、このファイバーレジンは使われている。

BBCモニタースピーカーは、ウーファーの振動板に、ベクストレン、ポリプロピレンなど、
紙からの脱却が早かった。
だからエンクロージュアの材質においても、
同じように自然素材(それだけにバラツキが生じやすい)から
ファイバーレジンのような人工素材へ移行を行なうのは理解できる。

とはいうものの音を聴くと、私はどうしても、このファイバーレジンを使ったスピーカーはダメである。
どこにも魅力を感じられない。
中途半端なBBCモニターという感じがしてしまい、
これならばいっそのことまったく別のスピーカーのほうが魅力的に感じられてしまう。

BBCモニタースピーカーのオーディオ的音色に惚れ込んでいたから、
こういう感じ方になってしまう……。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その4)

聴感上のS/N比をよくしていくことは、音楽の鳴っている場の空気を清浄していくようなものである。
澱んだ空気の中で音楽を聴きたい、とは私は思わないから、
聴感上のS/N比は高くしていきたい。

でも、たとえばジャズのライヴ。
いまでこそ禁煙のところが増えているから、
ジャズのライヴでも全面禁煙もしくは分煙というところが増えているのかもしれない。
とするとジャズのライヴにおいても、タバコの煙がもうもうとしている、
昔の、ずっと昔のジャズのライヴの、そういったイメージのところはもはやないのかもしれない。

現実にはなくなってしまったかもしれない、そういう場を、
オーディオは再現しようと思えば、再現できないことではない。
クラシックが演奏されるホールとは違い、天井の低い、人が集まりすぎて空気が澱んでいるうえに、
タバコの煙まで、だれも遠慮することなく吸っては吐き出している場の雰囲気は、
聴感上のS/N比は悪くすることで、近づけることはできる。

これは特殊な聴き方かもしれない。
でも、そういう時代のそういう場で演奏される音楽を聴きたい、のであれば、
そういう聴き方を否定はしない。

それは、あえてそういう選択をした結果の音として、誰も否定することはできないことだ。

このことと、聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称する、おかしなこととは、
まったく意味の違うことである。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その8)

時代は変ってきている。
編集という仕事も変ってきている。

たとえば以前は罫線を、
どんな細い罫線であろうとキレイに引ければ、それだけでグラフィックデザイナーを名乗れた時代があった。

けれど、いまは罫線はコンピューターで指定すれば、どれだけ細い罫線でも、
誰にでも簡単に引けるようになってしまった。
だから罫線が引ける技術だけでは、デザイナーとは名乗れないし、それで食っていけるわけではなくなった。

こんな例は、他の業種でもいくつもあること。
出版の業界をみても、電子出版が主流となってくれば、
印刷、流通の会社の仕事は大幅に減り、なくなっていくことだろう。

コンピューターの導入で、すでにどれだけの写植の仕事がなくなってしまったことだろう。

写真に関しても同様である。
以前は撮影し、モノクロであれば紙焼きにしてもらっていた。
カラーであればポジフィルムだったわけだが、
デジタルカメラの登場と高性能化のおかげで、現像という仕事も減っているはず。

出版に関係している仕事が、私がいたころからは大きく変化してきたし、
これからも変化していく。

そういう状況の中にいて、編集者の仕事だけが変らない、ということはない。
変らなければならないし、変ってはいけないことも、編集という仕事にはある。
それは、編集という仕事が、出版という世界の中心もしくは中心に近いところにいてやる仕事であるからだ。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(その12)

前回の(その11)の最後に、
自意識なき自己顕示欲は存在するのか、と書いた。

これを書いたことによって、実は先を書きあぐねていた。

自意識なき自己顕示欲、と、1年以上前に、なかば勢いで書いてしまった。
書いてしまって、自意識なき自己顕示欲とは、いったいどういうことなんだろうか、
とそれから考えていた。

自意識とは、辞書には「自分についての意識、自我意識」とある。
わかったようでいてよくわからない説明である。

Wikipediaをみると、自意識の項目は作成中となっていて、
自己認識の項目のところに、自意識についての説明がある。
そこには自意識とは「自意識は責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠」とある。

となると、自意識なき自己顕示欲は、
責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠なき自己顕示欲、ということになる。

こう書いてみると、自意識なき自己顕示欲は存在する、
少なくとも自意識なき自己顕示欲による音は、たしかに存在する。
そして、自意識なき自己顕示欲による音を、聴いてきた──、
そう思える記憶がたしかにあることに気づく。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その5)

「再生音は現象」ということを、今年は実感することが多かった。
こうやって毎日ブログを書きながらも、そのことを実感していた。

再生音を現象と捉えることで、いくつかのことがらがつながってくる。
納得のいくこともある。

そして、ここでいう再生音とは、ステレオの再生音のことである。
モノーラルの音源をスピーカーシステム1本で鳴らすモノーラル再生音は、ここでは含まない。
モノーラルの音源でも、左右2本のスピーカーシステムで再生するのであれば、
その再生音は現象ということになる。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×六・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのPM510とPM510SIIの違いは、
このスピーカーシステムに関心のない人にとっては、さほど大きな違いではないのかもしれない。
そういう人の多くは、きっとSIIのほうがいい、特に低音がまともになっていると評価になるんだろうが、
PM510のというスピーカーシステムの魅力に関しては、
このスピーカーシステムに惚れ込んでいる人とそうでない人とのあいだには大きな違いがある。

ロジャースはPM510の発売1年後にStudio Oneという、
3ウェイのブックシェルフ型を出している。

ベクストレン振動板の20cm口径のコーン型ウーファー、
セレッションのHF1300トゥイーターにKEFのスーパートゥイーターからなる、このStudio Oneは、
ユニット構成もエンクロージュアのサイズもバスレフポートの位置も、
スペンドールのBCIIとそっくりのスピーカーシステムであり、
このことはStudio OneはBBCモニターのLS3/6のロジャース版ともいえるものである。

ウーファーはBCIIと外観的によく似ているものの、ボイスコイルボビンにカプトンを採用することで、
耐入力を一気に改善している。
パワーに弱いといわれるBCIIなだけに、Studio Oneは後から登場しただけに、
よく似てはいても現代的なスピーカーシステムとしての基本性能をもつようになっていた。

BCIIも好きだった私は、Studio Oneには期待していた。
BCIIの良さそのままで、ぐんと良くなっている(そんなことはありえないのだが)、と期待していた、のだ。

どこで聴いたのか、いつ聴いたのか、そんなことをすでに忘れてしまったほど、
Studio Oneの音にはがっかりした。
BCIIに感じていた魅力が、Studio Oneにはまったくといっていいほど感じられない。
ユニット構成はほぼ同じだし、こんなに似ているのになぜ? と思ったのだけははっきりと憶えている。

そのときの試聴条件があまりよくなくて、そういう試聴結果になったのだろう、と
これを読まれた方はそう思われるかもしれない。

おまえも、少し間に「聴くことの怖さ」ということで書いているだろう、と。

けれどStudio Oneはステレオサウンドの試聴室でも、その後聴く機会があった。
だから、私にとってStudio OneはBCII、PM510のように魅力的なスピーカーではなかった。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その10)

JBLが、もしカートリッジをつくっていたら、どんなものだっただろうか。

JBLのスピーカーシステムのラインナップと共通するカートリッジのラインナップを用意していた、
と仮定して、あれこれ想像してみる。

JBLのスピーカーシステムには、家庭用スピーカーシステムとしてハークネス、ハーツフィールド、
オリンパス、パラゴンといったフロアー型があり、
アクエリアスという、あの時代としては実験的な性格の強いスピーカーシステムもつくっている。
そして4300シリーズ、4400シリーズに代表されるプロ用スピーカーシステムも手がけている。

基本的にほぼ同じ設計のスピーカーユニットを組み合わせながらも、
家庭用とプロ用とではスピーカーシステムとしてのデザインが大きく異る。

JBL好きの人にとって、
家庭用に惚れ込む人もいるし、プロ用に惚れ込む人、
両方とも好きな人もいる。

家庭用もプロ用もどちらも明確にJBLのスピーカーシステムでありながらも、
家庭用とプロ用を比較すると、そこにははっきりとした違いを感じるのは、
カートリッジの世界でいえば、
オルトフォンが近い存在のようにも思える。

オルトフォンには伝統的なSPUがあり、
SPUがロングセラーを続けながらも、SPUとは違うカートリッジも積極的に開発した。

私はすべてのオルトフォンのカートリッジを聴いているわけではないが、
ステレオサウンドの古いバックナンバーやステレオサウンドで働いていたころに聞いた話からもわかるように、
オルトフォンもすべてのカートリッジが成功してきたわけではない。

オルトフォンにとって、SPUと並ぶラインナップが生れるきっかけとなったのは、
1976年のMC20の誕生だと思う。
MC20に続きMC30が登場、そのMC30の技術がMC20に活かされMC20MKIIとなり、
ローコストのMC10へとラインナップは充実してきた。

このMCシリーズは、オルトフォンの新世代のカートリッジのはじまり、といえる。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと、の補足)

透明のプラスチックケースの、CDの取り出しにくさは、私だけでないようで、
Facebookでのコメント欄にも、
「割れるのではないかと思うほど湾曲しているCDを見るのは、心臓に宜しくありません」とあった。

ほんとうに、そのくらいCDが湾曲する。
まだ割ったことはないけれど、CDの材質がもう少し硬いものだったら、割れてしまうかもしれない。

今日、この件でメールもいただいた。
その方は、取り出しのコツをつかまれた、とのことで、こう書いてあった。
(Mさん、ありがとうございます。)
     *
まず、蓋を開けて真ん中を左手で右端を机などに置き傾斜させてから中央を(つめの中央部)人差し指か中指押下すれば簡単に外れます。
     *
通常のCDケースであれば、左手でケースをもって右手でディスクを取り出せる。
机の上などの平らなところに置かずとも取り出せる。

透明のプラスチックケースで、容易に取り出せない場合、ケースを平らにところに置いてあれこれやっていた。
これではうまく取り出せない。
CDが湾曲してしまうことがほとんどだ。

ケースを傾斜させることは、考えつかなかった。
右端が机に固定されるわけだから、
その状態でツメの部分に力を加えれば、ケースのそのものがわずかにしなる。
机の上にべたっと置いてしまうと、このしなりは生じない。

まだすべての透明のプラスチックケースでは試していないけれど、
このしなりで、取り出しやすくなったケースがある。

それにしても、CDの取り出し方でブログ(記事)を書くことになるとは、
CDが登場したときには、まったく思いもしなかった。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その9)

カートリッジの話に戻そう。
カートリッジに、異相の木はあるのだろうか。

「異相の木」、それもオーディオにおける異相の木について書こう、と思ったときから、
私の頭の中では、スピーカーの中から異相の木を探そうとしていた。
そして、私にとっての「異相の木」はJBLのD130ということに気がついた。

いま、どうしてそうしたんだろう、と振り返っている。

スピーカー以外のジャンルでも、
アンプにしてもアナログプレーヤーにしてもカートリッジにしても、
これらに較べると歴史の浅いCDプレーヤーにしても、
衝撃をこちらに与えてくれたモノはいくつもある。

でも、それらが異相の木なのか、というと、違う。
なぜ、違う、と感じるのだろうか。

JBLはアンプは手がけていた。
けれどスピーカーと同じ変換器であるカートリッジは手がけていない。

イギリスにはスピーカー専門メーカーとして、JBLとよく比較されるタンノイがある。
タンノイもアンプを一時期手がけていたことがある。
タンノイのカートリッジは存在しない、と思われている方も少なくないようだが、
私も実物は見たことはないのだが、一時期カートリッジを手がけていた。
きちんとしたコンディションのモノであれば、ぜひ聴いてみたいカートリッジのひとつである。

タンノイのカートリッジだから、
タンノイの同軸型ユニットに匹敵するような技術がそこに投入されていたのではない、と思う。
そうであってもスピーカー専門メーカーのつくるカートリッジは、
そのメーカーのスピーカーに対して関心をもっていれば、やはり興味深い存在である。

だがJBLは、いちどもカートリッジをつくっていない。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その8)

CDプレーヤーの天板の上に、CDのプラスチックのケースを置く。
それだけで音は変化する。
この場合の変化する、は、悪い方への変化である。

たった一枚のケースを置いただけでも、間違いなく音は悪くなる。
機種によっては、その出方(量)に多少の差はあっても、音は悪くなる。
まったく音が変らない、ということはない。

プラスチックのケースを置いたことによる、
ほんの少しの雑共振の発生が音が悪くするわけで、
だからステレオサウンドの試聴のとき、
井上先生にこのことを指摘されて以降は、CDプレーヤーの天板の上はもちろんのこと、
原則としてCDプレーヤーを置く台(私がいた頃はヤマハのGTR1Bだった)の上にも中にも置かなかった。

こんなことで音が変るなんてことはあり得ない、という人がきっといるはず。
変らないのではなくて、その人の耳に変化が感知できないのであって、
それは必ずしもその人の聴き方が未熟だとは限らない。
聴いているシステムの使いこなしのレベルが低いこともある。

頭でっかちになって理屈だけをふり回して、
そんなことで音は変らない、と決めつけてしまう前に、
いちど徹底的に自分の使いこなし、ひいてはいま鳴っている音のレベルを疑ってみてほしい、と思う。
音は、どんな些細なことによっても必ず変る。
何かを変えて変らない、ということはない。

変らない、のではなく、変らないといっている人が聴きとれていないだけのことである。

オーディオを科学するために、まず必要なのは観察力である。
オーディオにおける観察力は、聴くことであり、
もっともしんどいことが、聴くことである。

だから、このしんどいことから逃げるために、理屈をつけて音は変らない、という逃げ道をつくり、
そこにひきこもってしまうのは、その人の自由ではあるが、
音が変る現象を、オカルトだと決めつけ、攻撃的になるのはやめてほしい。