Date: 10月 28th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続々続・スコア・フィデリティ)

けれど、そのCDでもオペラによっては幕の途中でかけられるものがある。
ワーグナーのパルジファルや神々の黄昏、ジークフリートなどが、そうだ。

これはもうしかたのないことだと、CDが出たときからそう思ってもいたし、
もしもう少しCDのサイズが大きかったら、
ワーグナーの楽劇でも幕の途中でかけかえるということはなくなったかも、と思わないではなかった。

とはいえ、こういう長さの作品のほうが、音楽の全ジャンルをみてもごく少数なのだから、
注文をつけることではないのはわかってはいる。
それでも、今回のショルティのニーベルングの指環がブルーレイディスク1枚にすべておさまっている、
ときくと、やっとこういう時代が来た、という感がある。

ニーベルングの指環は四夜にわたって演奏されるわけだから、
ディスク1枚ごとに、ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏がおさまって、
計4枚のセットでいいわけだが、それを飛び越えてすべてが1枚にまとまってしまった。

収録時間という点からのスコア・フィデリティにおいて、これ以上のものは必要としない。

とはいえ、CDでもリッピングしてコンピューターに取り込んでしまえば、
スコア・フィデリティは文句なしになる。

楽章の途中でも幕の途中でもリッピングしてしまうことで、
ひとつの楽章、ひとつの幕として切れ目なく再生してくれる。
このことはデジタルの大きなメリットだといっていい。

いまはハードディスクが大容量化されているから、
以前のように圧縮しなくてもCDのデータをそのまま取りこめる。
そうしたデータをコンピューターから再生してもいいし、
iPodにコピーして、ワディアのiTransportなどを利用してデジタル出力を取り出しD/Aコンバーターに接続、
という聴き方をすれば、
iPodがブルーレイディスクをこえる記録容量をもつパッケージメディアとみることができる。

だから私は、別項「ラジカセのデザイン!」の(その11)でも書いているように、
iPodを21世紀のカセットテープだと考えている。

カセットテープの対角線は、世に出なかったものの、もともとのCDの直径でもある11.5cm。
もしCDが11.5cmのまま登場していたら、
16ビット、44.1kHzの規格ではベートーヴェンの第九は1枚に収まらなかった。
フィリップスは最初14ビットで行こうとしていた。16ビットを強く主張し実現させたのはソニーである。
14ビットだったら、11.5cmでも第九はすんなりおさまったのかもしれない。

とにかくいまはどんなに長い演奏時間を必要とする作品でも、
切れ目なく再生することがいともたやすくできる時代になった。

それは、聴き手に音楽を聴くことのしんどさを思い出させてくれることでもある。

Date: 10月 28th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その9)

5日前(10月23日)、こんな記事をインターネットで見かけた。
タイトルには「BALMUDA 風を発明した男」とある。
WIREDの記事だ。記事は5ページある。その4ページ目には、こうあった。
     *
「人間が自然の力や電気の力を利用して、自然界と類似の現象を再現することが機械の役割だとすると、自然の風を再現することこそが、これまでにない扇風機をつくるヒントになるんじゃないかと思いました。自然のそよ風は気持ちいいけれど、扇風機の風にずっと当たっていると、疲れますよね。それは、軸流ファンで空気を前に送り出すため、どうしても空気が渦を巻いてしまうからなんです。それに対して自然の風というのは、大きな面で移動する空気の流れなんです。これを、どうにかして扇風機で生み出せないかと考え始めました」

このとき、またしても寺尾を助けたのが春日井製作所であった。ここの職人たちが、扇風機を壁に向けて使っているのを、思い出したのである。

「職人さんたちは、快適な風を生み出す方法を、長年の経験から知っていました。風を一度壁にぶつけることで空気の渦成分が壊れ、面で移動する空気の流れに変わるわけです。確かにそうしてみると、風が柔らかくなるんですよ。やるべき方向性が見つかりました。あとは、どうやってそれを、『扇風機』のなかに落とし込むかでした」
     *
このところを読んだ瞬間、私の頭の中に同時に浮んできたのは、
エレクトロボイスの30Wの使い方だった。

扇風機が送り出す渦を巻いている風が、
ピストニックモーションによる低音だとすれば、
扇風機の風を一度壁に当ぶつけることで、その渦成分がくずれて風が柔らかくなるのであれば、
ピストニックモーションの低音が壁にぶつかることで、どうなるのか、
それを想像してしまった。

そして、この想像は、モノーラル時代の大型スピーカーシステムの構造へと飛ぶ。
エレクトロボイスのパトリシアン・シリーズ、ヴァイタヴォックスのCN191、JBLのハーツフィールドなどである。

Date: 10月 28th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その8)

2002年、インターナショナルオーディオショウのタイムロードのブースにて、
ジャーマンフィジックスのThe Unicornを聴いて以来、
ジャーマンフィジックスのDDD型ユニットの音、The Unicornの音に惹かれるとともに、
ピストニックモーションに対する疑問が少しずつ大きくなってきている。

いま市場にあるスピーカー、
これまで登場してきたスピーカーのほぼすべてはピストニックモーションによって音を出している。
これまでは考えられてきた発音原理の多くもピストニックモーションの追求から生れてきている。

ピストニックモーションを完璧にすることがスピーカーの本当の理想像なのか、と思う。
完全なるピストニックモーションが実現できたとしたら、
その音に、音楽を聴いて何を感じるんだろう……とも思う。
正直、予測できない面もあり、もしかすると……と思う面もある。

でも、そういうことは完全なピストニックモーションが世に出てきたときに、
やっぱりそうだったのか、か、間違っていたな、とか、判断すればいいことと思いながらも、
DDD型ユニットのベンディングウェーヴという、非ピストニックモーションの発音原理のもつ可能性のほうに、
私の関心は、2003年からずっと、そこにある、といっていい。

現在のところ、低音域に関してはそれほど下まで再生はできないものの、
いちおうフルレンジ的に使えるスピーカーユニットとしては、
どちらもドイツ製の、DDD型ユニット、マンガーユニットがある。

ジャーマンフィジックスはDDD型のウーファーユニットを開発している、といっているものの、
いまだ登場しないところをみると、
実現は可能でも製品化が難しいのか、それとも実現困難なのか、はわからないが、
いまのところベンディングウェーヴで十分な低音域まで再生することは望めない。

そうなるとウーファーに関しては、現時点ではコーン型ユニット、
いいかえればピストニックモーション型のウーファーの助けを借りることになる。

ピストニックモーションのウーファーに、ベンディングウェーヴのフルレンジという組合せは、
竹に木を接ぐ的なところを感じなくもないが、実際にはこの手法しかないし、
それに菅野先生のリスニングルームでは、
竹に木を接ぐ的な面はいっさい感じさせない見事さが実現されていることを何度も耳にして体験しているだけに、
それほどウーファーの非ピストニックモーションにこだわることもない、とは思いつつも、
それでも非ピストニックモーションで、
ピストニックモーションのウーファーと同程度の低音再生ができないのか、とは考えてはいた。
それも無理すれば家庭におさまる範囲内で、である。

Date: 10月 27th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続々・スコア・フィデリティ)

ベートーヴェンの第九交響曲は、ベートーヴェンの作曲した交響曲の中でもっとも長いし、
ベートーヴェン以前の作曲家による、いかなる交響曲よりも長い演奏時間を必要とするけれども、
うまいぐあいにLPだと、それぞれの楽章がレコードの片面におさまってくれる。

けれど同じベートーヴェンのフィデリオになると、そううまくいかない。
フィデリオは2幕からなるオペラだが、
第1幕の演奏時間は約70分、第2幕は約60分だから、
LP片面に1幕すべてを刻むことは、
どんなにカッティングレベルを低くしたところで無理なことであって、
幕の途中でレコードをかけかえることが、聴き手に要求される。

とうぜん、きりのよいところでかけかえられるようにはなってはいても、
幕の途中であることにはかわりはない。
どんなにレコードの扱い、レコードプレーヤーの扱いになれている人でも、
カートリッジを盤面からあげてトーンアームをもどし、レコードをとりあげ裏返してターンテーブルにセットする。
それからカートリッジを降ろす。

レコードプレーヤー目の前に置いている人ならば、これだけの時間でまたフィデリオの再生は始まるが、
目の前にオーディオ機器を置くのが嫌なひとは、
レコードプレーヤーのところまでいって椅子に戻るまでの時間も、さらに必要となる。

ベートーヴェンがフィデリオを作曲していたときにはまったく考えていなかった、考える必要もなかった、
こんな時間が、LPのときには生じていた。

交響曲でもマーラーとなると、
たとえば第二交響曲の第五楽章は、通常33分ぐらいから38分ていど演奏時間がかかる。
LP片面の収録時間は約30分。
音を犠牲にすれば、なんとかカッティングできるのだろうが、
マーラーの交響曲で音を犠牲にしてしまっては……、ということにもなる。

SPにくらべればぐんと収録時間は長くなり、かけかえの回数も減ったLPでも、
曲によっては楽章、幕の途中でかけかえることになっていた。

CDでは74分、実際にそれ以上の収録時間になってたため、
フィデリオもマーラーの第二交響曲も幕、楽章の途中でのかけかえはなくなった。

この意味での、スコア・フィデリティは、SPよりもLP、LPよりもCDが高い、ということになる。

Date: 10月 27th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その7)

エレクトロボイスに、以前は30Wという、その名の通り30インチ(76cm)口径のウーファーがあった。
パトリシアン800にも搭載されているウーファーで、
1970年代には15インチを大きくこえる大口径のウーファーといえば、
この30Wかハートレーの224HS(24インチ・60cm口径)ぐらいだった。
フォステクスの80cm口径のウーファーFW800が登場するのは、もう少し後のこと。

これら3つの大口径ウーファーのなかで、やや異色なのは30Wである。
224HSもFW800も、ダイレクトラジェーター型としての使用が前提である。
30Wはパトリシアン800に採用されていることからもわかるようにホーンロードをかけることが、
ほぼ絶対条件ともいえる設計のウーファーである。

私自身は、これらの大口径ウーファーを使ったことはないけれど、
井上先生によると、30Wはかなりの空気負荷をかけないと、ボイスコイルを擦ってしまうことがあり、
さらにコーンの振動板は一般的な紙ではなく、発泡ポリスチレンを使っているためもあって、
カサカサという附帯音が出てくる、とのことだ。

30Wは大口径だから、大きな内容積をもつエンクロージュアにいれて、
たとえばリスニングルームの隣りの部屋をエンクロージュア代りに使い、
30Wは聴き手の方を直接向いている、というのは、決して正しい30Wの使い方とはいえない。

30Wを導入しようとする人は、
一般的な大口径、つまり15インチのウーファーでは無理な領域の低音を再生したいがためであって、
それだけ低い周波数までホーンロードをかけて、ということになると、
低音ホーンの長さ、開口部の大きさは相当なものになり、ごくごく一部の人しか使えないことになってしまう。

現実的な方法としては、適度な内容積の密閉型エンクロージュアにおさめ、
30Wを壁に向けて鳴らす、ということになる。
壁と30Wの距離を10cmから20cmくらいのあいだで調整していくわけだ。

こうすることでボイスコイルが擦ることもなく、カサカサという附帯音も気にならなくなる、ということだ。

これはあくまでも、ホーンロードがかけられないときの使い方であると思っていたのだけれど、
実はそうではなくて、低音再生において、つまり30Wの使い方ということだけではなくて、
この使い方には大きなヒントがあることに気がついた。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その6)

スピーカーケーブルでも、ピンケーブルでも、
いつごろから安いものと最も高いものとの価格差が、これほど大きくなってしまったのだろうか。

安いものに関しては、以前よりも安くなっている一方で、
高いものは、記録でも更新するかのように、より高価なケーブルが登場してくる。

価格には下限はあっても上限はないから、
買う人がいるのであれば、これからも価格の記録更新はされていくだろう。

こういう非常に高価なスピーカーケーブルを、
本田氏と中野氏が試されたこと、
つまりスピーカーケーブルの長さを30mにして使う、ということをやったらどうなるのか。

価格的にはとんでもない金額になってしまう。
だが、ここではその金額について、ではなく、
果して、この手のケーブルで、30mの長さにしても安心して使える製品はいくつあるのだろうか、
ということを考えてしまう。

パワーアンプの負荷となるのはスピーカーシステムだけではない。
スピーカーケーブルも含めて、パワーアンプの負荷となる。
スピーカーケーブルの長さが1mと30mとでは、パワーアンプにとっての負荷は変る。
それもスピーカーケーブルの種類によって、その変化も変ってくる。

試したことはないし、
1m数十万、もしくはそれ以上の価格のケーブルを30mとなったら、いったいいくらになるのか、
だから、これから先も試す機会は絶対にないから断言はできないものの、
非常に高価なスピーカーケーブルの中には、使える長さに上限があるのではないだろうか。

スピーカーケーブルとして、30mでも50mでも使えるケーブルが優秀であって、
ある長さでしか使えないケーブルは、長くしても使えるケーブルよりも劣っている、
といえるのだろうか。

30mという長さのスピーカーケーブルを必要を必要とする状況はほとんどない、
実際にはパワーアンプをスピーカーの、
ある程度近くに設置すればスピーカーケーブルの長さはそれほど必要としないから、
そういう30mという長さで使えない、としても、実際の数mの使用では問題にならない──、
これも、そういえるのだろうか。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十一・チャートウェルのLS3/5A)

マランツのModel 7は、私がオーディオに興味をもちはじめた1976年には、
製造中止になって10年以上が経過していたし、すでにコントロールアンプの名器として扱われてもいた。
Model 7を聴いたのは、数年後である。

だからなのかもしれない、
私がいまModel 7を手に入れて、コンデンサーを交換するのであれば、
Black Beautyではなく、TRW(現ASC)のコンデンサーにする。

そんなことをしたら、Black Beautyの音色が変ってしまう。
つまりはオリジナルではなくなる、という意見がある。
それもわからないわけではない。

でもBlack Beautyを使ったからといって、他の部品は製造ロットによって多少変更されている。
そういうModel 7の、どれをオリジナルとするのか。
ごく初期のModel 7を、オリジナルということにしよう。

そのごく初期のModel 7に使われている部品と同じものを集めてきて、
手に入れたModel 7をごく初期のModel 7とまったく同じ仕様にした、としよう。
それは、たしかにごく初期のModel 7と同じModel 7といえるかもしれない。

そういうModel 7に高い価値を見いだす人もいるけれど、
私はそうではない。

私がModel 7が、いまも欲しい、と思うのは、
コントロールアンプのとしての完成度の高さと、
基本性能の高さ(物理特性的ではなく、音楽を再生する上での性能)から、である。

ごく初期のModel 7の音色をそのまま手に入れたいわけではない。
だからBlack Beautyを使う気はさらさらない。

シドニー・スミスの頭の中にあった、
シドニー・スミスが世に出したかったModel 7こそが、私の欲しいModel 7であって、
実際に市場に出たModel 7の音色ではない。

そして、ここでいう、Model 7の音色とは、オーディオ的音色のことである。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十・チャートウェルのLS3/5A)

1980年代から1990年代にかけて、シドニー・スミスがマランツのModel 7の、
メインテナンスと改良を行っていた、と聞いたことがある。
シドニー・スミスの手によるModel 7の実物を見たことがないので、
その詳細についてははっきりしないけれど、コンデンサーをすべて別の銘柄に交換している、らしい。

Model 7の信号系に使われているのは、
アンプの部品にさほど関心のない人でも、名前だけは聞いたことがある、というBlack Beautyである。
これが高温多湿の日本では、ことごとくダメになってしまう。
どんなに大切に使われてきたModel 7でも、それが日本で、ということならば、
Black Beautyは全交換ということになることが多い。

そのダメになったBlack Beautyを、何と交換するのか。
Black Beautyの未使用の新品を何としてでも入手して交換するのか、
それとももっと信頼性の高いコンデンサーにしてしまうのか。

人によって、考え方によって、異ってくる。
シドニー・スミスはBlack Beautyは選ばずに、当時のTRWのコンデンサーに置き換えた、そうだ。
TRWのコンデンサーは現在のASCのコンデンサーである。
TRWになる前はGoodAllという銘柄のコンデンサーだった。

シドニー・スミスに直接確かめることはもうできないので真偽のほどはっきりしないものの、
Model 7にもGoodAllのコンデンサーが使われる予定だったのだが、
コストの面でBlack Beautyになってしまった、とのことである。

だから本来使われるはずであったコンデンサー、
つまりシドニー・スミスがメインテナンスを行っていた時期のTRWのコンデンサーへと置き換えている。

この変更をオリジナルの改変、さらにはオリジナルの冒瀆と捉える人もいれば、
逆に、TRWのコンデンサーへの換装こそが、
Model 7の設計者であるシドニー・スミスの頭の中にあった「オリジナル」の実現、という受けとめる人もいる。

これは、どちらが正しいか、ということではなく、何をオリジナルとするかの違いによって生じることである。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その21)

グレン・グールドがヤマハのピアノで録音している、という情報が伝わってきたとき、
こんなことを話してくれた人がいる。

ヤマハのピアノはスタインウェイのピアノと部品の互換性がある、とのこと。
だからグールドが選択したヤマハのピアノは、ほんとうに内部までヤマハのピアノだろうか、
外観はヤマハでも中身はスタインウェイに換えられている、ということだって考えられる、と。

オーディオの関係者が、そう話してくれた。
でも、実際にゴールドベルグ変奏曲を聴けば、
外観だけヤマハのピアノということではなく、正真正銘ヤマハのピアノだということはわかる。

でも、この話をしてくれた人も、心のどこかに欧米文化へのコンプレックスがあったのかもしれない。
そうでなければ、こんなことを考えたりはしない。
さらには、人に話したりはしない。

グールドがヤマハのピアノを選び、しかも絶賛していることを素直に喜べないところに、
あのころ私もふくめて、
まわりの人たちも欧米文化へのコンプレックスがまったくなかった人はいなかったように思う。

そのころの私だったら、
そして、そのころソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)とがすでに存在していたら、
もう間違いなくマークレビンソンの方を高く評価していたはず。
それだけではなく、ソニーの方を、つまらない音、とも評価していたように思う。

グールドのゴールドベルグ変奏曲から30年。
いまは、そのころとは違う。すでに書いているように、
グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
ヤマハのピアノで魅かれたグールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
選ぶスピーカーシステムは日本のダイヤトーン2S305であり、
2S305を鳴らすために選ぶパワーアンプは、日本のソニーのTA-NR10である。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×九・チャートウェルのLS3/5A)

ここからは、例を変えてみよう。
マランツのModel 7にしてみる。

Model 7は、いまも名器として取り扱われている。
Model 7を、いまも欲しいと思っている人は少なからずいる、と思う。
私だって、欲しいという気持は持っている。
持っているけれど、Model 7のシリアルナンバーをチェックして、
初期のModel 7でなければ絶対に認めない、という欲しさではない。

Model 7にこだわっている人にいわせると、
あれはModel 7じゃない、といわれている日本マランツが復刻したModel 7の方が、
オリジナルと呼ばれているけれど、もう中身はボロボロで自分で手直しをしなければならないModel 7よりも、
私は、ずっといいと思っている。

もちろん初期のModel 7の、非常に程度のいいモノが、良心的な価格であるのならば、
こんな私でも、それを選ぶけれど、実際にはそうじゃない。

こんなModel 7が存在していたら、かなりの値がついている。
かなりの値がついていても、中身がしっかりしていれば、それは良心的ともいえるのだが、
外観だけはしっかりしていても中身は……というModel 7にも、かなりの値がついて出廻っているのが現状だ。

そういうModel 7よりは、1990年代のおわりに復刻されたModel 7の出来は非常に良いから、
私は製造国には、それほどこだわらなくなる。

それにModel 7のオリジナルとは、いったいどういうものか、とも考える。
アメリカでつくられたModel 7にしても、
ソウル・B・マランツが自らの手でつくっていたわけではない。

すでにアメリカでは著名なオーディオメーカーとして知られていたマランツだから、
工場をもち、そこで働く多くの人達の手によってつくられていたわけだ。
マランツのModel 7も、工業製品である。

工業製品とは、プロトタイプの精密な大量のコピーなのだから。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×八・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのStudio Oneの、1981年当時の価格は148000円(1本)だった。
同価格帯には、スペンドールのBCII(138000円)、KEFの104aB(129000円)、JBL4311B(135000円)、
ヤマハNS1000M(108000円)、パイオニアS933(118000円)、BOSE901 IV(149000円)などがあった。

これらのスピーカーシステムのなかでは、Studio OneとBCIIの音は近い、といえる。
ほかのスピーカーシステムとStudio Oneとの音の違いは、BCIIとの差よりもずっと大きい。
同じイギリス製の104aBでも、Studio Oneとの差はBCIIよりも大きく、
さらに国が違うヤマハ、パイオニア、JBL、BOSEとなると、まったく別の魅力をもつスピーカーということになる。

Studio OneとNS1000M、Studio Oneと4311Bを比較試聴した後に、
Studio OneとBCIIを比較すれば、同じじゃないか、と判断する人がいても不思議ではない。

Studio OneとBCIIは似ている。
同じところも持っている。なのに、私の耳には、BCIIには魅力を感じてもStudio Oneには魅力を感じない。
PM510に魅力を感じてもPM510SIIには魅力を感じない。

なぜ、そう感じてしまうのか。
これは、私以外の誰にでもあることではないだろうか。

私にとっては、Studio OneとBCII、PM510とPM510SIIがそういうことになるが、
ほかの人にはほかの人なりの、こういう例があるはず。

ほかの人からしてみれば、同じじゃないか、といわれる差が、どうしてもがまんできない、
受け入れ難いものとして存在している。
しかも、この「差」は、オーディオ機器(スピーカーシステム)としての能力の差とは関係ない。

Studio OneとBCIIの間にも、PM510とPM510SIIとの間にも、
変換器としての能力の差は、それほど大きなものではなくとも存在している。
とはいえ、ここで関係しているのは、オーディオ的音色ということになる。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続・スコア・フィデリティ)

ここでいいたいスコア・フィデリティは、別項にて書いている、
録音におけるコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティの違い──、
そこでのスコア・フィデリティとは少し異る。

ここでいうスコア・フィデリティとは、
CDの直径が11.5cmから12cmに変更されたことによって増すこととなったスコア・フィデリティである。
簡単にいえば、収録時間に関することだ。

CDの直径が12cmに決ったことで収録時間は約74分になり、
ベートーヴェンの第九交響曲がCD1枚、
つまり片面で収まるようになった。
1楽章から4楽章まで、ディスクのかけかえをやることなく聴き続けられる。

なんだ、そんなことかと思われるかもしれない。
でも、家庭においてパッケージメディアで音楽を聴くうえで、
これは大事なことである。

LPではベートーヴェンの第九は、ほとんどが2枚組だった。
4面を必要としていたから、最後まで聴くには3回、レコードをかけかえなくてはならない。

この手間が面倒だと感じているわけではない。
私の世代はLP(アナログディスク)で育ってきているから、
2枚のLPのかけかえを面倒だとは思ったことはない。

でも、ベートーヴェンが第九を作曲した時代は、レコードなんてものは存在しなかった。
音楽を聴くということは、目の前に演奏者がいて、彼等が目の前で演奏している音楽を聴く、ということだった。
ベートーヴェンは(ベートーヴェンに限らずほかの作曲家も)、
レコードの収録時間を気にして作曲していたわけではない。
レコードで、家庭で、演奏者のいない空間で音楽が聴かれるようになるとは、まったく想像していなかった。

クラシック音楽を、いまの時代、オーディオを介して聴くということはそういうところとも関わってくる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(スコア・フィデリティ)

9月末に、ショルティ指揮のニーベルングの指環の限定盤がデッカから発売になった。
話題になっていたから、クラシックに関心の高い人ならばすでにご存知で入手されている方も少なくないだろう。

新たにリマスターされたCDの17枚組にDVD、30cm×30cmのブックレット、
それとは別の冊子などのほかに、この限定盤の最大の目玉(特典)といえるのが、
ブルーレイディスク1枚におさめられた24ビット・96kHzによる音源である。

CD17枚分、しかもサンプリング周波数もビット数も、
通常より高くそれだけデータ量を必要とするにもかかわらず、
ブルーレイディスクだと、1枚におさまってしまうことに、
記録密度の向上はめざましいものがあることは知ってはいても、
こういうふうに具体的な形で登場すると、
CD登場からちょうど30年の今年、その間のデジタル技術の進歩を、音とは違う面で実感できる。

DAD(Digital Audio Disc)がCDに統一されるまでは、
国内のオーディオメーカーからいくつもの規格が提案されていた。
ディスクのサイズもLPと同じ30cmで、収録時間も数時間というものがあった。

そんなに収録時間を長くして、いったいどんな音楽を入れるんだよ、という否定的な意見もあった。
たしかに、LPで流通していた音楽の大半は、それほど長い収録時間は必要としない。
クラシックの曲の大半だって、それほど長い収録時間はいらない。

けれど、オペラとなると、収録時間が長いディスクがあれば、
今回のショルティのブルーレイディスクのように1枚におさめられる。

こんなことを書くと、そんなにディスクの交換が面倒なのか、と思われそうだが、
ここでいいたいのはそんなことではない。
ディスクの枚数が減る、できれば1枚にまとめられれば、
そのことはスコア・フィデリティに関しては、高い、ということになる。
そのことをいいたいのである。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(iBooksとiBooks Author)

日付が変ってから、書きたいことがあったので、深夜ブログを更新していた。
気がついたら午前2時。ちょうどAppleのイベントのはじまる時間になっていた。
ちょっとだけ見てから寝よう、と思い、ライヴストリーミングを見始めた。

発表になったハードウェアの新製品は、
インターネットでウワサになっていたモノがほぼウワサのとおりに出てきたわけだが、
私が個人的にうれしい驚きだったのは、iBooksが縦書きに対応にしていたことだった。

いつかは縦書きに対応してくれるものだと思っていた。
でも、それは早くて来年くらいかな、と漠然と思っていただけに、
こんなに早く!? という感じを受けた。

縦書きも横書きも、どちらでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でも入力作業をやっている者としては、縦書きなのか横書きなのかは、
どちらを前提としなければすすめられないところがる。

おもに数字の入力なのだが、横書き前提でいくのならばすべて半角文字だけですむ。
縦書きとなると、1桁の数字は全角文字、2桁の数字は半角文字、3桁以上となると全角文字となる。
アルファベットの入力も、横書きならば半角文字だが、
縦書きでは英文の文章を引用するときは半角文字、型番の場合には全角文字というふうになる。

こうやって入力した文章を横書きで表示させていると、
文字の表示がバラついていて美しくない。

だから、横書きを前提とした入力に切りかえるべきかも、と考えていたところに、
縦書き対応の発表だっただけに、縦書き前提の入力を続けてきてよかった、と、
ほっとした。

しかもiBooks AuthorではTex数式ができるようになっている。
数式の入力はわずかなのだが、まったくないわけではない。
いままでは数式を言葉に置き換えていた。これもうれしい。

iBooksとiBooks Authorのヴァージョンアップによって、つくりこめる、という感覚が出てきた。
もちろん、まだまだなところもあるのはわかっている。

とはいえ、電子書籍をつくることが、これによりすこし楽しくなってくる。

しかも、今日、amazonのKindleの日本語版の発表もあった。

いつが電子書籍元年なのか、そんなことはもう少し先になってみなければわからない。
それでも、確実に、そのための環境は整いつつあるのを、実感できた日である。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その3)

映画「仮面の中のアリア」の冒頭の拍手のシーンで気づかされるのは、
観客席に大勢の聴衆がいるから、
これだけの拍手が、このコンサートを最後に引退するバリトン歌手に対して送られるのであって、
これがもし会場にまばらにしか聴衆がいなかったとしたら、
そこでバリトン歌手による歌がどれほど素晴らしかろうと、拍手の数は少なく、
そこでの拍手は、引退するバリトン歌手をみじめな気持にさせてしまうことだって考えられる。

これはコンサートというものは、ある一定数以上の聴衆が集まるからこそ成立するところがある。
100人以上の奏者がステージの上にいるオーケストラのコンサートでも、
ピアニストひとりによるコンサートであっても、
観客席には、その席を埋めつくすだけの人(聴衆)が必要だというところに、
コンサートでの音楽を成立させるものがある。

つまり原則としてコンサート会場では、
演奏者の人数よりも聴衆の人数が常に多い、ということになる。
この多数は、小ホールでは数百人、大ホールでは千人をこえる

どんなに聴衆が集まらず、がらがらだとしても、
ステージ上の演奏者の人数のほうが聴衆よりも多い、ということは、まずない。

演奏者の人数と聴衆の人数、
これが逆転するのが、グレン・グールドが選択した(求めた)音楽の聴かれ方(聴き方)ということになる。