Date: 10月 16th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その1)

音楽を聴くには十分だ、とか、
これ以上の性能はオーバースペックだ、とか、
こういった類の表現が、昔からなされることがある。

オーディオは家庭で音楽を聴く行為である。
音ではなく、音楽を聴く──、
この「音楽を」を強調する意味も含めて、音楽を聴くには十分だ、という表現だということはわかっている。

わかっていはいる。
けれど、こういう表現をみかけると、黙ってはいられなくなる。

ほんとうに、音楽を聴くには十分なのだろうか、
音楽を聴くにはオーバースペックな性能なのだろうか……。

この手の表現からは、
私は音を聴いているのではない、音楽を聴いているのだ、という主張が顔をのぞかせていることがある。

にも関わらず、この手の表現には主語がないことがある。
私、ぼく、といった主語がなく、この手の表現が使われることには、
私は強い違和感をおぼえる。

私には十分だ、となっていれば、
こんなことを書くこともない。

けれど、不思議なことに、主語がないことのほうが多いようにも思うから、
こんなことをつい書いてしまっている。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その13)

不思議なもので、人は映像のズームに関しては不自然さを感じない。
映画、テレビにおけるズームを不自然と感じる人は、現代においていない、と思っていいだろう。

なのに音の世界となると、人は音のズームを不自然と感じてしまう。
菅野先生が山中先生との対談で例としてあげられている
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーの交響曲第四番。

スコア・フィデリティをコンサート・フィデリティよりも重視した結果、
オーケストラが手前に張り出してきたり、奥にひっこんだりするのを、
左右のふたつのスピーカーを前にした聴き手は、不自然と感じる。

なぜなのだろうか。

考えるに、映像は平面の世界である。
映画のスクリーンにしてもテレビの画面にしても、そこに奥行きはない。
スクリーンという平面上の上での表現だから、人は映像のズームには不自然さを感じないのかもしれない。

ところが音、
それもモノーラル再生(ここでのモノーラル再生はスピーカー1本での再生)ではなくステレオ再生となると、
音像定位が前後に移動することになる。

奥行き再現に関しては、スピーカーシステムによっても、
スピーカーのセッティング、アンプやその他の要因によっても変化してくるため、
ひどく平面的な、左右の拡がりだけのステレオ再生もあれば、
奥行きのあるステレオ再生もあるわけだが、奥行き感を聴き手は感じているわけだから、
ある音がズームされることによって、その音を発している音源(音像)の定位が移動することになる。

こう考えていったときに、(その9)に書いたカラヤンの録音に存在する枠とは、
映画におけるスクリーンという枠と同じ存在ではないか、という結論に行き着く。

こういう「枠」はバーンスタインのベートーヴェンには、ない。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その16)

電源部の、それほど多くないヒートシンクなのに、
振動対策を施すかどうか、施すにしてもどうやるかによって音は変る、と書くと、
電源こそ重要なんだから変って当然、と指摘してくれる人がいる。

電源が重要なのはわかっている。
CDプレーヤーにしてもアンプにしても、交流電源を整流・平滑し、
それを入力信号に応じて変調して出力信号として負荷に供給しているわけだから、
電源が重要なのは、ずっと以前からわかりきっていることである。

だが、少なくともCDプレーヤーの電源部のヒートシンクから、音(というより音楽)は鳴ってこない。

どんなパワーアンプでもいい(といっても管球式ではなくてヒートシンクをもつソリッドステート型だが)、
出力にダミーロード(8Ωの抵抗)を接続して入力信号(音楽信号)を加えた状態で、
ヒートシンクの近くに耳をもっていくと、ヒートシンクから音楽が聞こえてくるのがわかる。

音楽信号に応じて出力段のトランジスターが振動し、
その振動によって音叉的ヒートシンクが共鳴しての現象である。

ヒートシンクの形状、材質、取付け方法などによって、この鳴り方は変ってくるから、
パワーアンプの数だけヒートシンクから聞こえてくる音楽の鳴り方も、また違ってくる。
音量もとうぜん違ってくる。

井上先生が、出力段トランジスター振動源、ヒートシンクを音叉的に捉えられている、
その理由を実感できる。
ヒートシンクは筐体の一部であるとともに、響体ともいいたくなる。

そういう存在のヒートシンクだから、
この部分をどう考えるかは、井上先生の言葉をもういちど引用しておく。

「アンプの筐体構造はスピーカーのエンクロージュアと同等の楽器的要素をもつことを認識すべきだ」

つまりヒートシンクの鳴きを徹底的に抑えていくのも手法のひとつであるし、
どんなに、あらゆる手段を講じたところで、トランジスターの振動の発生をゼロにはできないし、
ヒートシンクの音叉的性格を完全になくすこともできない。

スピーカー・エンクロージュアをどんなに無共振化しようとしても、
無共振思想はあっても、無共振エンクロージュアはひとつとして世の中には存在しないのと同じでもある。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々続・チャートウェルのLS3/5A)

これから先はどうなるのかは自分でもわからないけれど、
すくなくともいまのところ、BBCモニタースピーカーのオーディオ的音色の世界から完全には抜け出きれていない。

片足の小指くらいではなくて、片足の膝下くらいまではまだまだ浸かっていることを意識させられる。

ロジャースのLS3/5AとPM510、スペンドールのBCII、BCIII、ハーベスのMonitor HL、
そしてKEFのLS5/1Aと、いまだ聴いたことはないけれどModel 5/1ACも気になってしょうがない。

ロジャース、スペンドール、ハーベス、KEF、
これらのメーカーはBBCとも深い関係をもつイギリスのスピーカーメーカーなのだが、
だからといって、これらのメーカーのすべてのスピーカーシステムに対して、
そのオーディオ的音色に惹かれているわけではない。

たとえばロジャースのPM510。
チャートウェルのPM450という原型をもつこのスピーカーシステムに、
20(ハタチ)になったばかりの私は、惚れ込んだ。

瀬川先生の影響だけではなくて、このPM510の音色にはほんとうにまいってしまった。
でも、このスピーカーシステムの世間的な評価はそれほど高くはない。

ステレオサウンドで働きはじめたばかりのころ、
先輩編集者のSさんに、「このぶかぶかの低音じゃ、ジャズのベースはまったく聴けない」といわれた。

いわれるように、ジャズのベースは、得意としていないスピーカーだった。
けれどアクースティックな楽器のもつ、心地よさに通じるブーミングに関しては、
うまいこと表現してくれる(つまりは騙してくれる)ところのあるスピーカーだ、と思っていたから、
Sさんの聴き方とは違う、熱心でないジャズの聴き手であった私にとっては、
PM510のベースの音も、そう悪くはない、と実は思っていた。

でも、やはり不満な人は世の中には実に多かったようで、
PM510は私が購入したあとにPM510SIIへとモデルチェンジした。

Date: 10月 14th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(1990年10月14日)

1990年夏の終りに左膝を骨折して10月10日に退院して、それからリハビリ通いしていた。
バーンスタインが亡くなったのを知ったのも、
病院の待合室に置かれているテレビから流れてくるニュースによってだった。
ニューヨークで亡くなっているから時差を考えると、15日のニュースだったのだろう。

リハビリに通う以外は何もしていなかったころである。
新聞もとってなかったし、テレビはもうずっと所有していなかったから、
病院に通っていなかったら、バーンスタインの死をしばらく知らなかったことかもしれない。
リハビリは想像していた以上に痛かったけれど、
リハビリに通っていたおかげで知ることができた、ともいる。

テレビを見ていたわけではない。
どこか違うところを眺めていたら、バーンスタインという単語だけが耳にはいってきた。
へぇー、珍しいこともあるんだな、とテレビの方を向くと、亡くなったことを知らせていた。

1980年代の後半、現役の指揮者で夢中になって聴いていた指揮者のひとりがバーンスタインだった。
コロムビア時代の録音にはそれほど関心はなかったのに、
ウィーン・フィルハーモニーとのブラームスあたりからバーンスタインに夢中になっていた。

ドイツ・グラモフォンからは次々と新譜がでていた。
フィリップスからもトリスタンとイゾルデが出た。

バーンスタインは1918年生れだから、このころは70になる、ほんの少し前。
こんなにも精力的に録音をこなしていくバーンスタインの演奏は、
若い頃のコロムビア時代の録音と比較して、執拗さが際立っていた。

マーラーはコロムビアとドイツ・グラモフォンの両方に録音を残している。
ずいぶん違う。
どちらが好きなのかは人によって違うもの。

歳のせいか、ドイツ・グラモフォンの再録は聴いていてしんどくなる……、
そんなことも耳にする。
たしかに、ワーグナーのトリスタンとイゾルデもそうだったけれど、
マーラーもしんどくなるほどの執拗さと情念が、渦巻いていると表現したくなるほど、だが、
このころのバーンスタインよりも歳が上の聴き手がそういうことをいうのは、
そうかもしれないと納得できるけれど、
すくなくともこのころのバーンスタインよりも、
まだ若い聴き手が、そんなことを口にして敬遠しているのは、
音楽の聴き方は聴き手の自由とはいうものの、少し情けなくはないだろうか。

執拗ではある、けれど決して鈍重ではないバーンスタインのワーグナーやマーラーを聴いていた、
そのころは私は、バーンスタインに録音してほしい曲がいくつもあった。

いまのバーンスタインだったら……、そんなことを思いながら、
バーンスタイン関係の録音のニュースをいつも期待して待っていた。

それが、この日のニュースによって、すべてすーっと心の中から消えていってしまった。

マタイ受難曲をもういちど録音してほしかった……。

Date: 10月 14th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(黄金比)

フィリップスはCDを開発しているときに、
共同開発のソニーが収録時間を延ばすために12cmを提案したとき、
当初のサイズであった11.5cmからの変更をなかなか譲らなかった──、
これはけっこう知られている話で、
傅信幸氏の著書「光を聴く旅」にも、このへんの事情については、もちろん書いてある。

なぜフィリップスは11.5cmに、それほどこだわったのだろうか。
フィリップスがオリジネーターであるコンパクトカセットテープの対角線が11.5cmだから、なのだろうか。

この項の(その72)から(その74)にかけて、
スピーカーユニットの口径比(おもにウーファーとミッドバスについて)について書いている。
それでふと気がついた。

11.5cmは、黄金比なのかもしれない。
だとしたら何に対してだろうか、と考えてすぐに思いつくのはアナログディスクの30cmである。

30cmの黄金比として11.46cmがある。11.5cmには少し足りない。
けれどアナログディスク(LP)の外径は正確には30.1cmである。
30.1cmで計算してみると、ぴったり11.5cmとなる。

そうなのかぁ、とひとりごちる。

Date: 10月 13th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続々・チャートウェルのLS3/5A)

黒田先生の音楽の聴き方を少しでもみならっていこう、とある時期から思いはじめ、
オーディオ的音色の魅力から抜け出したうえでの音楽の聴き方をしていこう、と。

オーディオマニアならば、誰しも、ころっとまいってしまうオーディオ的音色がある、と思う。
そのオーディオ的音色の存在を意識しているか意識していないかの違いはあっても、
オーディオ的音色の魅力にまったく惹かれることのないオーディオマニアはいない、と思う。
そういう人は、いわせてもらえれば、どれほどオーディオにお金をかけていても、
いい音で鳴らしていようとも、オーディオマニアではないのではなかろうか。

強い聴き手でありたい──、
だから、できるかぎりオーディオ的音色の魅力から抜け出てきた、
そのつもりではあった。

でもチャートウェルのLS3/5Aの復刻記事を目にすると、
まだ抜け出方に不徹底なところがあるのを意識させられる。

そういえば、と思い出す記事がある。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 3、
トゥイーターを55機種集めて試聴を行った、この別冊の巻頭記事にJBL4343のトゥイーターを、
他社製品に置き換えた試聴を行っている。
そこで瀬川先生が述べられている。
     *
どちらにしても井上さんもぼくも、YL的世界にべったり浸っていた時期があって、抜け出てきた。この抜け出方は井上さんの方が徹底していて、ぼくなんか、どうも片足の小指くらいまだ抜けていない気がするんですね。
     *
この瀬川先生の発言の前に、井上先生は述べられている。
     *
そういう耽美的な音の世界というのも当然ありますね。これはこれで素晴らしい世界だとは思うんだけれど、ぼくはとらない。
     *
井上先生にも、黒田先生と同じところでの、強い聴き手の部分があったことを、
この発言、この記事からも感じとれるし、
ステレオサウンドで働くようになってからも、そう感じていた。

ただ、井上先生は強い聴き手であろう、と意識的にそうされていたとは思っていない。
しなやかな聴き手であった、とおもう。

Date: 10月 13th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続・チャートウェルのLS3/5A)

LS3/5AもPM510も、ある時期使っていた。
どちらも好きなスピーカーでることは、いまでも変りはしない。

このふたつのイギリスのスピーカーシステムが、いまも優秀なスピーカーシステムであるかどうかは、
いまいちど自分で鳴らしてみて判断したいところだし、
このふたつのスピーカーシステムは、あくまでも、好きなスピーカー、
もっといえば私の好きな音色を出してくれたスピーカーシステムであった。

オーディオ機器には固有の音色が、どの製品にも、いつの時代の製品にもある。
技術が進めば、いわゆる癖と呼ばれる、分類される固有の音色は稀薄になってくるものの、
そう簡単にオーディオ機器から固有の音色が消えてなくなることはない。

この固有の音色は、オーディオ機器の欠点でもあるけれど、
欠点であるがゆえの魅力にもなっていて、
10代、20代の前半ぐらいまでは、この固有の音色の魅力に強く惹かれる傾向が、私にはあった。

オーディオ機器固有の音色は、オーディオ的音色にも連なっている。
楽器固有の特質となっている音色とはまた少し違った意味と魅力をもつ、
このオーディオ的音色の魅力から抜け出すのは、
もしくは捕らわれないようにするのは、難しいところがある、と感じている。

だから、黒田先生の音楽の聴き方を傍でみていると、
黒田先生は、そういう意味でも強い聴き手だな、と感じていた。

黒田先生は、そういうオーディオ的音色の魅力に、ころっと参ってしまう、ということがなかった。
だからこそ、1980年ごろ、ソニーのスピーカーシステムAPM8をシカゴ交響楽団とたとえられ、
高く評価されていたのは、そうだからだと思っている。

黒田先生も、そのへんはあとになって変化があったように私はおもっているけれど、
そのことについては、ここで書いていくと、話がそれてしまうので、いずれ別項にて書く予定だ。

Date: 10月 12th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その15)

CDプレーヤーの小さなヒートシンクの鳴き止めとしてついているゴムは接着してあったわけではなく、
外そうと思えば簡単に外せたしすぐに元にも戻せた。

だから当然外した音も聴いてみる。
ゴムが付いている音と外した音を聴いたら、次はゴムの取付け位置を変えてみる。
ヒートシンクの上部、下部、中央、最低でもこの3つの位置の音は聴いてみる。

いいかげんなセッティングによる、いいかげんな試聴では、
こういう細かな違いによる音の変化は、ほとんど聴き取り難くなるけれど、
逆にいえば、こういう細かな違いを鳴らし分けることができるようにセッティングを心掛ける、ともいえる。

とにかく鳴き止めをした音とそうでない音をいちど聴いてしまうと、
他のCDプレーヤーで、鳴き止めをなにも施していないモノだと、
やはりあれこれ試してみたくなる。
ヒートシンクのフィンのピッチがほぼ同じであれば、上記CDプレーヤーのゴムを流用できたし、
試聴室内での比較的短い時間内での実験でもあるからアセテートテープを使うこともあった。

また、ちょうどこのころはヤマハからYT9SPというアクセサリーが出ていた。
スピーカーのチューニング用として、フェルト、無酸素銅、コルク、皮のコイン状のスペーサーをそろえたもので、
この中の無酸素銅のスペーサーをヒートシンクの上に置く。
別項で書いているソニーのパワーアンプTA-NR10のヒートシンクは銅製だが、
CDプレーヤーのヒートシンクは一般的なアルミ製。
だから銅とアルミは異種金属ゆえに、この無酸素銅のスペーサーを置くだけで、
ヒートシンクの鳴きは尾を引かなくなる。

ヒートシンクの鳴きを抑えるという結果は同じでも、
ゴム(弾性体によるダンプ)と無酸素銅(異種金属によるダンプ)とでは、
結果としてのスピーカーから鳴ってくる音には違いが生じる。

断っておくが、ヒートシンクの鳴きを抑えたからといって、
必ずしも、トータルとしての音がよい方法に向くとは限らない。

ここでいいたいのは、CDプレーヤーのリアパネルにある、
小さなヒートシンク、それも電源部用のヒートシンクでもあって、
何かをすれば音は確実に変化する、という事実がある、ということだ。

Date: 10月 12th, 2012
Cate: PM510, Rogers, オリジナル

オリジナルとは(チャートウェルのLS3/5A)

昨年6月に、ロジャースのLS3/5Aが、創立65周年記念モデルとして復刻されたことは、
BBCモニター考(LS3/5Aのこと)のところでふれている。

輸入元のロジャースラボラトリージャパンで見ることのできる写真、
昨年、無線と実験7月号に掲載された写真を見るかぎり、
ひじょうに出来のよい復刻と判断できた。

この復刻LS3/5Aが中国製なのは、昨年も書いているし、
そのことが気にくわない、という人がいても不思議ではない。

まだ実物をみる機会はないけれど、この写真のままの出来で量産されているのならば、
見事な復刻だといいたくなる。

とにかく写真から伝わってくる雰囲気は、LS3/5Aそのものであるからだ。

にもかかわらず発売から1年以上経つのに、まだ聴いていないのは、ただ私の無精ゆえなのだが、
今月発売の無線と実験をみていたら、今度は、チャートウェル・ブランドのLS3/5Aが復刻され、
その紹介・試聴記事が掲載されていた。
輸入元はカインラボラトリージャパンとなっている。
今日現在、カインラボラトリーのサイトをみても、このチャートウェルについての情報はなにもない。

これもまたロジャースの65周年記念モデル同様、
あくまでもカラー写真で判断するかぎりなのだが、見事である。
これもまた、LS3/5Aの雰囲気をまとっている。
ここで紹介されているのが量産モデルなのか、どうかははっきりしないものの、
おそらくそうなのだろう、と思うし、思いたい。

この雰囲気のままのチャートウェル・ブランドのLS3/5Aは、
オリジナルのチャートウェルのLS3/5Aを聴く機会はなかっただけに、よけいに聴いてみたい。
そして、これがほんとうに写真から期待できるクォリティを有しているのであれば、
高く評価されてほしい、と思ったりする。

そう思う、というか、願うのは、
このチャートウェル・ブランドのLS3/5Aがそこそこにヒットすれば、
それに気を良くした会社は、LS3/5A以外のスピーカーシステムも復刻してくれるかもしれない、
というかすかな期待を、もうすでに私は抱いている。

PM450を、このLS3/5Aと同じレベル、もしくはそれ以上のレベルで復刻してほしい、と。

チャートウェルは経営難に陥りロジャース(スイストーン)に吸収され、
PM450はロジャース・ブランドのPM510に、
QUAD405を組み込んだマルチアンプ仕様のPM450EはLS5/8として、世に出た。

PM450はPM510の原型である。

Date: 10月 11th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その1)

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いていておもう。

いまも私は、五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生の文章を読み返す。
オーディオ、音楽について書いている文章は、世の中にあふれかえっている。
書店にいけば、世の中にはどれだけの雑誌が出ているのか、
書籍にしても頻繁に書店に足を運ばなければ存在すら知らずに書店から消えてしまう本も、
きっと少なくないぐらい……。

インターネットにおいては、もっともっとあふれている。

にも関わらず、相変らずくり返し読むのは、なぜか? と自問していた。
いくつかの理由は頭に浮びはするものの、自問していく。

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いて、やっとわかった。

五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生が残してくれたものは、
オーディオへの愛、音楽への愛だ、ということに。
そのことに、「愛だけを残せ」を聴いて、いま気がついた。

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
 愛、愛、愛……それこそが天才の魂である」
モーツァルトの、この言葉を思い出しながら、やっと気がついた。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。

廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。

内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。

コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。

そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。

そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。

いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。

DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。

廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。

けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。

マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。

だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。

なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。

リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。

CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。

そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その12)

グレン・グールドの、シベリウスのソナチネの録音における試みは、
グールドが自身がのちに語っているように、けっして成功とはいえないものである。

アナログディスクで聴いても、1986年にCD化されたものをで聴いても、
グールド贔屓の聴き手が聴いても、やはり成功とは思えないものではあった。

それでもグールドがシベリウスの録音でやろう、としていたことは興味深いものであるし、
1976年からそうとうに変化・進歩している録音技術・テクニックを用いれば、
また違う成果が得られるような気もする。

グールドが狙っていたのは、音のズームである。
そのためにグールドは、4組のマイクロフォンを用意して、
4つのポジションにそれぞれのマイクロフォンを設置している。
ひとつはピアノにもっとも近い、いわばオンマイクといえる位置、
それよりもやや離れた位置、さらに離れた位置、そしてかなり離れた位置、というふうにである。

これら4組のマイクロフォンが拾う音と響きをそれぞれ録音し、
マスタリングの段階で曲の旋律によって、オンマイクに近い位置の録音を使ったり、
やや離れた位置の録音であったり、さらにもっとも離れた位置の録音にしたりしている。

ピアノの音量自体はマスタリング時に調整されているため、
マイクロフォンの位置による音量の違いは生じないけれど、
ピアノにもっとも近いマイクロフォンが拾う直接音と響き、
離れていくマイクロフォンが拾う直接音と響きは違ってくるし、その比率も違ってくる。

だからピアノにもっとも近い位置のマイクロフォンが捉えた音でスピーカーから鳴ってくるピアノの印象と、
もっとも遠くの位置のマイクロフォンが捉えた音で鳴るピアノの印象は異ってくる。

同じ音大きさで鳴るように調整してあっても、
響きの比率が多くなる、ピアノのマイクロフォンの距離が開くほどに、
ピアノは遠くで鳴っている、という印象につながっていく──、
これをグールドは、音のズームと言っていた。

Date: 10月 9th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その11)

菅野先生が例としてあげられているカラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーのレコードは、
実をいうと聴いたことがない。
CDを買ってきて聴いてみようか、とも考えたが、
いま購入できるCDで、チャイコフスキーの第四番がおさめられているのは、
五番、六番との2枚組であり、1997年に発売されたものである。

もしかすると、リマスターによって、菅野先生が指摘されているところは
多少補整されている可能性もないわけではない。
なので、結局CDは購入しなかった(チャイコフスキーをあまり熱心に聴かないのも理由のひとつ)。

このカラヤン/ベルリンフィルハーモニーにチャイコフスキーの四番の録音が、
どう問題なのか、は、71号の菅野先生の発言を引用しておく。
     *
カラヤンとベルリン・フィルによる、チャイコフスキーの『交響曲四番』を、たまたま聴いていたら突如としてオーケストラが、ステージごとせり出して来ちゃって、びっくりしたわけね。
おそらくあれはね、オフ・セッティングでオーケストラのバランスのとれる一組のマイクロフォン、もっとオンでマルチにした一組のマイクロフォンがあり、それぞれにサブ・マスターがありまして、それがマスターへ入ってくる。
そして、その音楽のパッセージによって、そのオフ・セッティングを生かしあるいはオンも生かすというようなかっこうでいっているんだろうと、思うんです。
僕の記憶によると、ピアニッシモで、わりあいに歌うパッセージではオフが生きるんですな。そして、フォルテになってきますとオンのほうが生きてくる。
たしかに、それは明瞭度の問題からいっても、わからなくはない。
しかし、オーケストラのフォルテッシモは、大きく広がった豊かなフォルテッシモになってほしいのが、オンになってきますと、むしろその豊かさじゃなくて、強さ、刺戟ということで迫ってくる。
セッティングがそういうオン・マイクロフォンですから、それにすーっとクロスしていくと、オーケストラがぐわーっと出てくるんですね。
たぶん録音している人は十分わかっていると思うんですよ。ところが、カラヤンさんは恐らくそれを要求している。
そのとき、カラヤンさんに、
「いや、これはレコードにしちゃまずいですよ、オーケストラが向こうへいったり、こっちにきたりしますよ」
ということをたとえば言ったとしても、カラヤンさんは、
「いや、ここではこの音色が欲しいんだ。近い、遠い、そんなことはどうでもいい」
と言ったかどうかはわからないけれども、そして、
「ちょっと聴かせてくれ」
と、ミキサーに言う。ミキサーは
(じゃ、オフマイクの音のことを言っているのかな)
と勘を働かせて聴かせますね。
「これだ! これはこれでいい。じゃ、この部分はこの音で録ってくれ、ここの部分はこの音で録ってくれ……」
それでミキサーはそれに忠実に従って録ったと思う。
カラヤンさんはそれを聴いて、おそらく音楽的にきわめて満足をしたでしょう。
ところがわれわれが聴くと、これはほんとうに……近くなったり、遠くなったり、定位が悪くなったり……。
     *
これはあくまでも菅野先生の推測による発言ではあるものの、
かなり確度の高い発言だと思える。

このカラヤンのチャイコフスキーは1976年12月にベルリンで録音されている。
単なる偶然なのだろうか、1976年12月のトロントでも、同じようなコンセプトによる録音が行われている。
グレン・グールドによるシベリウスのソナチネである。

Date: 10月 9th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その14)

ラインレベルの出力をもつ入力ソース側の機器としては、
チューナーやカセットデッキがあり、1982年秋からこれにCDプレーヤーが加わった。

チューナーやカセットデッキ、CDプレーヤーの違い、
アナログ機器とデジタル機器といった違いではなく、
リアパネルを比較したときの違いとして目につくのが、ヒートシンクの有無である。

私が見た範囲ではチューナー、カセットデッキのリアパネルがヒートシンクがついているモノはなかった。
けれどCDプレーヤー登場の、
わりと初期(1980年代なかごろまで)の製品のリアパネルにはヒートシンクがついているのが、いくつもあった。

このヒートシンクは、電源のレギュレーター用である。
ヒートシンクといっても、パワーアンプの発熱量とくらべればそれほど多いわけでもなく、
ヒートシンクも櫛の歯状のフィンのものが多かった。
だから指でフィンをはじくと、けっこう盛大に音を出すモノもあった。
そして、中には成型したゴムをフィンに取り付けて鳴きを、ほとんど抑えているものも出てきたし、
すこし後にはフィン状ではなくチムニー型ヒートシンクも登場してきた。

リアパネルに飛び出した、それほど多くないヒートシンク、
指ではじけば鳴くといっても、パワーアンプのそれとは比較にならないほど小さな鳴き、
しかもパワーアンプは出力段のパワートランジスターが取り付けてある、
増幅段に直接関係してくる個所にあるのに対して、
CDプレーヤーのヒートシンクは電源用のものであり、直接には信号回路には関係しない個所のものでる。

にも関わらず、リアパネルのヒートシンクの鳴きを、どう処理するかによって、
そのCDプレーヤーの音は変っていった。