十分だ、ということはあり得るのか(その1)
音楽を聴くには十分だ、とか、
これ以上の性能はオーバースペックだ、とか、
こういった類の表現が、昔からなされることがある。
オーディオは家庭で音楽を聴く行為である。
音ではなく、音楽を聴く──、
この「音楽を」を強調する意味も含めて、音楽を聴くには十分だ、という表現だということはわかっている。
わかっていはいる。
けれど、こういう表現をみかけると、黙ってはいられなくなる。
ほんとうに、音楽を聴くには十分なのだろうか、
音楽を聴くにはオーバースペックな性能なのだろうか……。
この手の表現からは、
私は音を聴いているのではない、音楽を聴いているのだ、という主張が顔をのぞかせていることがある。
にも関わらず、この手の表現には主語がないことがある。
私、ぼく、といった主語がなく、この手の表現が使われることには、
私は強い違和感をおぼえる。
私には十分だ、となっていれば、
こんなことを書くこともない。
けれど、不思議なことに、主語がないことのほうが多いようにも思うから、
こんなことをつい書いてしまっている。