Date: 10月 15th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一
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バーンスタインのベートーヴェン全集(その13)

不思議なもので、人は映像のズームに関しては不自然さを感じない。
映画、テレビにおけるズームを不自然と感じる人は、現代においていない、と思っていいだろう。

なのに音の世界となると、人は音のズームを不自然と感じてしまう。
菅野先生が山中先生との対談で例としてあげられている
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーの交響曲第四番。

スコア・フィデリティをコンサート・フィデリティよりも重視した結果、
オーケストラが手前に張り出してきたり、奥にひっこんだりするのを、
左右のふたつのスピーカーを前にした聴き手は、不自然と感じる。

なぜなのだろうか。

考えるに、映像は平面の世界である。
映画のスクリーンにしてもテレビの画面にしても、そこに奥行きはない。
スクリーンという平面上の上での表現だから、人は映像のズームには不自然さを感じないのかもしれない。

ところが音、
それもモノーラル再生(ここでのモノーラル再生はスピーカー1本での再生)ではなくステレオ再生となると、
音像定位が前後に移動することになる。

奥行き再現に関しては、スピーカーシステムによっても、
スピーカーのセッティング、アンプやその他の要因によっても変化してくるため、
ひどく平面的な、左右の拡がりだけのステレオ再生もあれば、
奥行きのあるステレオ再生もあるわけだが、奥行き感を聴き手は感じているわけだから、
ある音がズームされることによって、その音を発している音源(音像)の定位が移動することになる。

こう考えていったときに、(その9)に書いたカラヤンの録音に存在する枠とは、
映画におけるスクリーンという枠と同じ存在ではないか、という結論に行き着く。

こういう「枠」はバーンスタインのベートーヴェンには、ない。

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