モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)
“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。
廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。
内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。
コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。
そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。
そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。
いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。
DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。
廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。
けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。
マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。
だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。
なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。
リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。
CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。
そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。