Date: 11月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)

こんなことがあったな、と思い出すことがある。

ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。

あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。

シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。

この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。

私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。

これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。

それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。

やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。

だから、そのまま掲載した、と。

編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。

そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。

Date: 11月 13th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その4)

骨格のしっかりした音、
いまでは、こういう表現は、見かけなくなっているように感じている。

正直、最近のオーディオ雑誌を丹念に読んでいないから、感じている、としか書けないのだが、
以前は、といっても20年以上前は、骨格のしっかりした音という表現は、そう珍しくはなかった。

音を表現する言葉の使われ方も、また時代によって変化していく。
だから次第に使われなくなっていく表現もあれば、徐々に使われはじめてきて、
いまや一般的に使われている表現だってある。

音を表現する言葉はそうやって増えていっているはずなのに、
使われている言葉の数は、いまも昔もそう変らないのかもしれない。
新しくつかわれる表現・言葉がある一方で、使われなくなっていく表現・言葉があるのだから。

骨格のしっかりした音も、そうやって使われなくなっていく(いった)表現なのかもしれない。

でも、なぜそうなっていたのだろうか。

私の、それもなんとなくの印象でしかないのだが、
クラシックの世界でヴィルトゥオーゾと呼ばれる演奏家が逝去していくのにつれて、
骨格のしっかりした音も、また活字になることが減っていっているような気もする。

このことはスピーカーが提示する音の世界ともリンクしているのではないだろうか。
骨格のしっかりした音のスピーカーが、こちらもまた減ってきているような気がする。

ハイエンド志向(このハイエンドというのが、都合のいい言葉のように思える)のマニアの間で、
高い評価を受けているスピーカーシステムが、
何かを得たかわりに稀薄になっているひとつが、骨格のしっかりした音のようにも思う。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その14)

アメリカでは、JBLやタンノイのスピーカーはほとんど売れていない、
JBLやタンノイが売れているのは日本ぐらいなものであり、だから日本のオーディオは……、
こんなことは私がステレオサウンドにいた1980年代からいわれている。

いまも、そういうことをいう人はいる。
インターネットという匿名で好き勝手なことを発言できる場が形成されてきたためか、
そういうことをいう人の数は増えてきているようにも感じる。

ほんとうのところ増えていくのかどうかははっきりとしない。
同じ人が、何度も同じことを発言していることだって考えられるから。

でも、実際にJBLやタンノイが日本だけでしか売れていないのかというと、
そんなことはない。

アメリカは日本よりもずっと広い。
国土が広いだけではなく、いくつかの意味で広い。

たしかにアメリカにはアブソリュートサウンドというオーディオ雑誌が以前からあり、
その流れとしてハイエンドオーディオと称されるものがあり、
それがアメリカで高い支持を得ているのは事実であろう。
日本でも、アブソリュートサウンド的ハイエンド志向の人はいる。

だからといって、日本もアメリカも、そういうアブソリュートサウンド的ハイエンドの人たちばかりではない。

日本のオーディオマニアもたったひとつでなく、
人によってオーディオの取組み方は違う。

スピーカーの選択ひとつとっても、その人の考えによってさまざまなスピーカーがそこでは選ばれている。
ウェスターン・エレクトリック時代のスピーカーを探しだしてきて使う人もいる、
JBL、アルテックのホーン型スピーカーによるウェストコーストサウンド、
ボザーク、マッキントッシュ、ハートレーのように
ダイレクトラジェーターを並列使用するイーストコーストサウンド、
1970年代に登場したインフィニティ、マグネパンなどの流れを汲むスピーカー、
などなどアメリカのオーディオマニアのあいだでも日本のオーディオマニアのあいだでも、
じつにさまざまなスピーカーが鳴らされている。

人間だから、新しいスピーカーが登場し、その音が自分にとって好ましいものであれば、
そのスピーカーに惹かれがちになるものだ。
惹かれるのは悪いことではない。

でも、だからといって、それまであったものが色褪せてしまい古くなってしまうわけではない。
新しいスピーカーに魅かれてしまった人には、そうなってしまうこともあるだろうが、
それはあくまでも、その人に限ってことであって、
自分以外の人たちが使っている・鳴らしているスピーカーが色褪せたり古くなるわけでは、絶対にない。

なぜ、この大事なことを混同してしまうのだろうか。
その混同が、その人の中にとどまっていればなんの問題もないことなのだが、
不思議とそういう人にかぎって、「JBLやタンノイは……」という……。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(おもい、について)

「おもい」とキーボードで入力すると、変換候補として、思い、想い、懷のほかに、重いも表示される。

思い、想い、懷、これら三つには、心があり、
重いには心はないから、「おもい」のなかで重いだけは、まったく別の言葉でもあるように思える。

けれど心は身体に宿っているもの、と捉えれば(心身という言葉もあるのだから)、
心+身(み)を「おもみ」とすれば、重みにつながっているようにも思えてくる。

思い、想い、懷は、けっして重いと無関係ではない。
「おもい」のない言葉には重みがない。

Date: 11月 11th, 2012
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その11)

正相接続・逆相接続による音の違いはどこから生れてくるのだろうか。

いくつかの要素が考えつく。
まずフレームの鳴き。
何度かほかの項で書いているように、
ボイスコイルにパワーアンプからの信号が加わりボイスコイルが前に動こうとする際に、
その反動をフレームが受けとめ、とくにウーファーにおいては振動板の質量が大きいこと、
それに振動板(紙)の内部音速が比較的遅いこともあって、
コーン紙が動いて音を出すよりも前にフレームから音が放射される。

逆相接続にすればフレームが受ける反動も大きく変わってくる、
そうすればフレームからの放射音にも違いが生じるはず。

反動によるフレームの振動はエンクロージュアにも伝わる。
エンクロージュアの振動モードも変化しているであろう。

こういうことも正相接続・逆相接続の音の違いに少なからず関係しているはず。

これを書いていてひとつ思い出したことがある。
アクースタットのコンデンサー型スピーカーが登場したとき、
どうしても背の高い、この手のスピーカーはしっかりと固定できない。
ならば天井から支え棒をするのはどうなんだろう、と思い、井上先生にきいてみたことがある。

「天井と床がつねに同位相で振動している、と思うな」
そう井上先生はいわれた。

同位相で振動していれば支え棒は、
つねに一定の力でアクースタットの天板(そう呼ぶには狭い)を押えてくれる。
しかし実際には同位相の瞬間もあれば逆位相の瞬間もあり、90度だけ位相がずれている瞬間、
かなり複雑な位相関係の瞬間もあるだろうから、
支え棒が押える力は常に変動することになる。

この力の変動はわずかかもしれない。
でも、こういった変動要素は確実に音に影響をおよぼす。
それに支え棒そのものも振動しているのだから、

支え棒の位相がスピーカー本体や天井に対してどうなのか。

井上先生は、さまざまな視点からものごとをとらえることの重要さを教えてくれた。

Date: 11月 11th, 2012
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その10)

この項を書き始めたとき、
JBLが逆相なのは、ボイスコイルを捲く人が間違って逆にしてしまったから、
それがそのまま採用されたんだよ、と、いかにもその時代を見てきたかのようなことを言ってくれた人がいる。

本人は親切心からであろうが、
いかにも自信たっぷりでおそらくこの人はどこから、誰かから聞いた話をそのまましてくれたのであろうが、
すくなくとも自分の頭で、なぜ逆相にしたのか、ということを考えたことのない人なのだろう。

私はJBLの最初のユニットD101は正相だと考えている。
逆相になったのはD130から、であると。
これが正しいとすれば、最初にボイスコイルを逆に捲いてしまったということはあり得ない説になる。

ほんとうにそうであるならば、D101も逆相ユニットでなければならない。
私は、こんなくだらない話をしてくれた人は、
D130の前にD101が存在していたことを知らなかったのかもしれない。

また、こんなことをいってくれた人もいた。
振動板が最初前に出ようが(正相)、後に引っ込もうが(逆相)、
音を1波で考えれば出て引っ込むか、引っ込んで前に出るかの違いだけで、なんら変りはないよ、と。

これもまたおかしな話である。
振動板の動きだけをみればそんなことも通用するかもしれないけれど、
スピーカーを音を出すメカニズムであり、振動板が動くことで空気が動いている、ということを、
これを話してくれた人の頭の中には、なかったのだろう。
そして、すくなくともこの人は、ユニットを正相接続・逆相接続したときの音の違いを聴いていないか、
聴いていたとしても、その音の違いを判別できなかったのかもしれない。

スピーカーを正相で鳴らすか逆相で鳴らすか、
音の違いが発生しなければ、この項を書くこともない。
けれど正相で鳴らすか逆相で鳴らすかによって、同じスピーカーの音の提示の仕方ははっきりと変化する。

一般的にいって、正相接続のほうが音場感情報がよく再現され、
逆相接続にすることで音場感情報の再現はやや後退するけれど、
かわりに音像がぐっと前に出てくる印象へとあきらかに変化する。

これは誰の耳にもあきらかなことであるはず。
正相接続と逆相接続で音は変化する。
変化する以上は、そこにはなんらかの理由が存在しているはずであり、
そのことを自分の頭で考えもせず、
誰かから聞いたことを検証もせずに鵜呑みにしてしまっては、そこで止ってしまう。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その16)

JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
タンノイのオートグラフといったスピーカーシステムが登場していた時代には、
まだエドガー・M・ヴィルチュアによるアクースティックサスペンション方式のスピーカーは生れてなかった。

低音再生のために必要なユニットは大口径のウーファーが必然という時代だった。
いまのように小口径ウーファーで、モノーラル時代では考えられなかったストロークを実現し、
振動板の小ささをそのストロークで補う(大出力パワーをそれだけ必要とする)ということはできなかった。

もしかするとそんなことを考えていた人はいたのかもしれない。
けれど、それだけのパワーをもつアンプが一般用としては存在していなかった。

低音再生は、難しい。
そのアプローチにしても、大口径ウーファーを使うのか、小口径のウーファーにするのか。
大口径派の言い分、小口径派の言い分、どちらにも一理あって、
どちらが完全に正しくて、他方が完全に間違っているわけではない。

どちらにも良さと悪さがあり、どちらも長所を認め、どちらの欠点をうまく使いこなしで補えるかによっても、
大口径なのか小口径なのか、その選択は変ってくる。

私は、というと、基本的には大口径派である。
それでも良質な低音再生ということでいえば、
20cm口径くらいまでの良質なウーファーが出す低音は魅力的であり、
こういう質感は大口径ウーファーでは正直難しいところがいまでもあるようには感じている。

大口径ウーファーには、大口径ウーファー特有の質感が、どこかの帯域に残っているようにも感じる。
f0を低くとったウーファーとf0は高めのウーファーとでは、
同じ38cm口径のウーファーであっても、特有の質感を感じさせる帯域に違いが出てくる。

この特有の質感は、いわゆるオーディオ的低音の質感、スピーカー的低音の質感ともいっていいだろう。
大口径否定派の人はおそらくひどく嫌うのであろう。
わからなくはない。けれど、この特有の質感を完全に消し去ることはできないまでも、
うまく鳴らすことで、そのスピーカーならではの演出にも変えていくことはできる。

私は思うのだ。
モノーラル時代の大型スピーカーシステムが、いわゆる折曲げホーンを好んで採用した理由のひとつには、
大口径ウーファーの、この特有の質感をそのまま出すことを避けたかったためではないだろうか、と。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その15)

ホーン型と呼ばれていても低音ホーンに関しては、いくつかの種類がある。
フロントロードホーン、バックロードホーン、クリプシュホーンなど、といったように。

これらのホーンも大きくふたつに分けられる。
ひとつはフロントロードホーンであり、
もうひとつはバックロードホーン、クリップシュホーンなどの折曲げ型、とにである。

このふたつのウーファーから放射された音がフロントロードホーンではそのまま聴き手を目指して直進してくる。
折曲げホーンの場合には、ホーン内部での折返しが生じる。

このふたつのホーンの違いは、
エレクトロボイスの30Wを、正面を向けて鳴らすのと、
壁に向けて(後向きにして)鳴らすのと、共通する違いかある。

フロントロードホーンではウーファーがピストニックモーションによってつくり出した疎密波は、
いわばそのまま出てくる。ピストニックモーションのままである。

一方クリプシュホーン、バックロードホーンでは、そうはいかない。
ホーンの構造からして、ウーファーがどれだけ正確にピストニックモーションをしていようと、
ホーンの開口部から放射される音はピストニックモーションとは呼べない状態になっているはずだ。

低音ホーンの採用は、低音の能率をすこしでも向上させるためである、というふうにいわれてきた。
たしかにモノーラル時代の、これらの大型スピーカーシステムが生れてきたときのアンプの出力は少なかった。
それでも十分な低音での音響出力を得るにはホーンの力を借りる必要があった。

それは理解できた。でもその理解だけに、そのときはとどまってしまった。
それ以上の理由を考えることはしなかった。

でもいま改めて考えてみると、あえて非ピストニックモーションの低音を得るためではなかったのか、
そんな気がしてならない。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その3)

バックハウスの演奏の再生に必要なこととはなんだろうか、と具体的に考えてみると、
骨格のしっかりした音、という結論になってしまう。

骨格のしっかりした音、とは、どういう音なのか、というと、
これが説明しにくい。

骨格のしっかりした音、ということで、音をイメージできる人もいれば、
まったくできない人もいる、と思っている。

イメージできる人でも、私がイメージしている骨格のしっかりした音とは、
違う骨格のしっかりした音である可能性もあるわけだが、
それでもイメージできる人は、音の骨格ということに対して、なんらかの意識が働いていることになる。

でもまったくイメージできない人は、
スピーカーからの音を聴いているとき、音の骨格ということを意識していない、ということだと思う。

音の聴き方はさまざまである。
なにを重要視するのかは人によって異ってくるし、
ひとりの人間がすべての音を、すべての音の要素を聴き取っているわけではない。

ある人にとって重要な音の要素が、別のひとによってはそれほどでもなかったりするし、
それは聴く音楽によって変ってくることでもあるし、
同じ音楽を聴いていても、人によって違う。

人の耳には、その人なりのクセ、と呼びたくなる性質がある。
ある音には敏感である人が、別の音には鈍感であったりする。
これは歳を重ねるごとに、自分の音の聴き方のクセに気がつき、ある程度は克服できることでもある。

これは人に指摘されて気がついて、どうにかなるものではない。
自分で気がついて、どうにかしていくものである。
そこに気がつくかどうか。

自分の耳が完全な球体のような鋭敏さを持っている、と信じ込める人は、ある意味、シアワセだろう。
でも、オーディオを介して音楽を聴くという行為は、それでいいとは思っていない。
やはり、厳しさが自ずともとめられるし、
その厳しさのないところにはバックハウスはやってこない、といっていい。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その14)

バックボーンはひとりひとり違う。
同じ時代を同じ長さだけ生きてきたふたりがいたとしても、その人なりのバックボーンがあって、
同時に共通するバックボーンもそこには生れているはず、と思う。

1ヵ月ほど前だったか、Twitterで、
オーディオ評論家は60すぎても若手と呼ばれる特殊な世界、
といった書込みがあった。
そういうところはたしかにある。

けれど、ふりかえってみれば、これはやはりおかしなことであって、
瀬川先生は46で、岩崎先生は48で、
オーディオ評論家ではないけれど五味先生は58で亡くなられている。

瀬川先生も岩崎先生も、私がステレオサウンドを読みはじめた1970年代後半、
若手のオーディオ評論家ではなかった。

オーディオの世界には、岩崎先生、瀬川先生よりも上の世代の方々はおられた。
オーディオ評論家と呼んでいいのかは措いとくとして、
伊藤先生、池田圭氏、淺野勇氏、青木周三氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった、
オーディオの専門家の方々の存在があったし、この人たちからみれば、
岩崎先生も瀬川先生も若手ということになる。

けれど、もう一度書いておくが、岩崎先生も瀬川先生も、
このふたりだけに限らず菅野先生、山中先生たちも若手とは呼ばれていなかった。
読み手であった私も、そういう意識はまったくなく読んでいた。

なのに、なぜいまのオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
すでに岩崎先生、瀬川先生の年齢をこえ、さらには五味先生の年齢をこえている方も多いのに、
若手という認識から離れられないのだろうか、と考えたとき、
バックボーンの違いから、そういうことになっているのだと思っている。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: ショウ雑感

2012年ショウ雑感

2002年からわずかな時間ではあって、インターナショナルオーディオショウには行くようにしていたけれど、
今年は風邪気味(というよりも風邪気味っぽい、と軽い症状)だったので、
行こうかどうしようかと迷って、結局行かずに終ってしまった。

これまでは特に聴きたいモノがあって、それを聴くために行く、というよりも、
とにかく行って時間の許すかぎり、いくつものブースをまわって、
目を引く(耳を引く)モノと出合えたらいいな、という感じで行っていた。

今年はぜひ聴いておきたいモノがあった。
エレクトリが輸入しているファーストワットのSIT1である。

風邪気味っぽいくらいだったので出かけるのが苦になるというわけではなかった。
でも、すこし冷静に考えてみたら、ファーストワットのSIT1の音が聴ける可能性は低いように思えた。

SIT1の出力は、わずか10W。
エレクトリのブースは広い方で、スピーカーはおそらくマジコ。
マジコの、どのスピーカーが使われるのかはわからないけれど、
仮にQ3だとして出力音圧レベルは90dB、カタログには推奨パワー30Wとある。

SIT1のパワーで、人が大勢集まっているエレクトリのブースという環境では、
十分な音量が確保できない可能性が非常に高い。
だから、展示のみで鳴らさないのではないか、と考えたら、急に億劫になってしまった。

ショウに行った数人の方に話をきいてみたところ、やはりSIT1は鳴っていなかったようである。

行かなかったから、数人の人の話を興味深くきいた。
ひとりの人はAというスピーカーの音を褒め、Bというスピーカーの音にはまったく関心を示さなかった。
でも、別の人は反対でBのスピーカーを高く評価し、Aのスピーカーの評価はまったく低かった。

スピーカーにかぎらず、ブースの音に関しても、同じだった。
こうも違うんだな、と改めて思う。

音だけではない、ショウのお目当てがなにかということも違う。
それはオーディオ機器が対象の話ではなく、
ある人はオーディオ評論家の講演が目的、という人、
オーディオ評論家の講演よりも海外のメーカーのエンジニアの話がききたいから、という人もいる。

便宜上、オーディオ評論家の講演、と書いているけれど、
菅野先生不在の今、オーディオ評論家という言葉を使うことに抵抗を感じるようになっているし、
講演という言葉を使うのは、さらに抵抗を感じる。

とにかくショウに何を求めていくのかは、人によってさまざまであり、
ショウに実際に行ける人たちよりも行けない人たちのほうが圧倒的に多い。

だからオーディオ雑誌がショウの記事を掲載するのを毎年読んでいると、
ページ数の少なさも大きな制約になっていることはわかっているうえで、
行った人にも行けなかった人にも、読んで面白いという感じさせる記事づくりは充分可能なはず。

でも今年も、代り映えのしない記事を読むことになるのだろう……。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その8)

手塚治虫の「雨のコンダクター」は、苦労することなく読むことができる。
けれど、ほかの作品となると、
図書館に行きFMレコパルのバックナンバーをひとつひとつ見ていくしかないのではなかろうか。
しかもFMレコパルのバックナンバーを揃えている図書館はそう多くないだろう。

バーンスタインの「戦時のミサ」はCDで聴ける。
これがおさめられている12枚組のボックスは、安いところでは2000円ちょっとで購入できる。
CDの値段が、そこにおさめられている音楽の価値とは直接な関係はないとはいえ、
安いことはありがたいことではあるけれど、ここまで安くしなくても……という気持もある。

廃盤になっていた時期があったとはいえ、いまはこうして聴ける。
やはり、これはデジタル化の恩恵でもあろう。
CDが登場して30年。

30年前のCDの価格は1枚4000円こえるものもあった。
しばらくして3800円、3500円と安くなり、さらに3200円へと推移していった。
再発ものの値段は、この10年は、バーンスタインのハイドン集にかぎらず、あってないような感じも受ける。

書籍のデジタル化が電子書籍なのだから、
いつかは10年後とか、もっと先には、いまのCDのような感じになるのかもしれない。

ただ音楽ディスクのフォーマットは、CDひとつに絞られたけれど、
電子書籍に関しては、そうではないから、
10年後、20年後、CDと同じような推移をするのかどうかは読めないところがあるのも確かだ。

それでも電子書籍が普及すれば、
FMレコパル・ライブ・コミックが全作品読めるようになるのではないかと思う。

1作品ずつの販売、筆者ごとの販売、全作品まとめの販売、
どういう販売方法でもかまわないから、
とにかくFMレコパル・ライブ・コミックがもういちど読める日がはやく来てほしい、と思っている。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その7)

小学館が発行していたFMレコパルは1974年の創刊。
共同通信社のFMfan、音楽之友社の週刊FMがすでに創刊されていて、FMレコパルは後発だった。

それゆえに独自色を出すために、小学館は約2年の準備期間を設けていた、という話を、
昨夜、西川さんからきいたばかりである。

先行する共同通社、音楽之友社にはなく小学館にある強みのひとつが少年マンガ誌(少年サンデー)であり、
この当時の少年マンガ誌を読んでこられた方ならば記憶にあるはずだが、
ページの欄外に一口情報的な文章が載っていた。

小学館は少年サンデーの、この一口情報を活用する手を考え、
オーディオ一口メモということをやっていたそうだ。
しかも執筆されていたのは岩崎先生だったそうだ。
(なんと贅沢なんだろう、と思ってしまう。ほかの出版社だったら編集者が書いていたと思う。)

岩崎先生も仕事が忙しくて、
途中から西川さんが代理で書いて、岩崎先生がチェックするというふうに変っていったそうだが、
とにかくこういう地味なことを続けて、読者アンケートの結果から、
FMレコパルでは、他のFM情報誌よりもオーディオに力を入れていくように編集方針が決った、とのこと。

そしてもうひとつのFMレコパルの独自色だったのが、FMレコパル・ライブ・コミックであった。
マンガ家との強いコネクションをもつ小学館だけに、手塚治虫だけでなく、
石森章太郎(石ノ森と書くべきだろうが、私が夢中になって読んでいたころは石森だったのでこう書いてしまう)、
さいとうたかを、望月三起也、松本零士、ジョージ秋山、黒鉄ヒロシほか、大勢の方が描かれていた。

1976年の終りごろからは掲載時に読んでいたけれど、記憶に残っているもの、
ほとんど記憶に残っていないもの、
えっ、この人が描いていたの? というぐらいまったく記憶にないものがある。

FMレコパル・ライブ・コミックにどういう作品が掲載されたのかは、
図書の家というサイトにある芸術・芸能漫画アーカイブに詳しい掲載リストが公開されている。

このリストを見ていると、読みたい! と思う。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その6)

手塚治虫のマンガのなかで、音楽についての作品はいくつかあって、
たぶん有名なのが「雨のコンダクター」であろう。

FMレコパルに1974年に掲載されているので、
内容までは憶えていないけれど、読んだ記憶はある、という方はいらっしゃるだろう。

「雨のコンダクター」にはふたりの実在の指揮者が登場する。
ひとりはオーマンディ、もうひとりはバーンスタインであり、
「雨のコンダクター」ではオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によるチャイコフスキーの1812年、
バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーによるハイドンのミサ曲第九番「戦時のミサ」が描かれている。

オーマンディの演奏はケネディセンターホールで、
バーンスタインの「戦時のミサ」はワシントン大聖堂で行われ、
オーマンディによるコンサートは、ニクソンの大統領就任記念のためのもので、
バーンスタインによる「戦時のミサ」はベトナム反戦コンサートのためのものである。

「雨のコンダクター」は、このふたつの対比的なコンサートの模様を描いている。

クラシックについてほとんど知らない人が読んでしまったら、
オーマンディのレコードを聴きたいと思う人はいなくなるんじゃないか、と思えてしまうほど、
手塚治虫によるバーンスタインは、かっこよかった。
音楽を演る男のかっこよさがあった。

1974年の掲載だから、私が読んだのは何かの単行本に収められたものであった。
それでも10代のうちに読んでいる、と記憶している。

この日のバーンスタインの演奏は録音されていないようだが、
翌日の録音によって「戦時のミサ」は聴くことができる。

しばらく廃盤だったようだが、今年前半に発売になったバーンスタインのハイドン集(12枚組)に収められている。