Date: 11月 8th, 2012
Cate: audio wednesday, 瀬川冬樹

第22回audio sharing例会のお知らせ(11月7日のこと)

もうこんな時間(1時40分)なので、すでに昨夜のことになってしまったが、
毎月第一水曜日に四谷三丁目にある喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会、
今回は11月7日、瀬川先生の命日ということだったので、前回お知らせしたように、
「瀬川冬樹を語る」がテーマだった。

途中からではあったが、サンスイに当時に勤務されていて、
瀬川先生とも親しくされていた西川さんが来てくださった。

始まりは7時、終ったのは11時をすこしまわっていた。

いろんな話が出た。
そして、ひとつ確認できたことがあった。
やっぱりそうだったんだ、と。

別項「岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと」の(その7)で、
瀬川先生と岩崎先生はライバル同士であり、お互いに意識されていたはず、だと、
瀬川先生の文章を読んでも、岩崎先生の文章を読んでも、そう感じるようになっていた、ということを書いているが、
西川さんの話で、瀬川先生は岩崎先生のことを、岩崎先生は瀬川先生のことを、
もっとも手強いライバルであり、オーディオの仲間同士として意識されていたことを確認できた。

間違いのないことだとは思っていたことが、確認できた。
私にとって、そういう11月7日だった。

来年の11月7日は、33回忌になる。

Date: 11月 7th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その2)

バックハウスの「最後の演奏会」におさめられているのは、
1969年6月25日、28日のオーストリア・オシアッハにある修道院教会の再建記念コンサートの演奏である。

デッカがステレオ録音で残していてくれている。
最新のスタジオ録音のピアノの音を聴きなれている耳には、
これといって特色のない録音に聴こえるだろう。

バックハウスの、このCDをもち歩くことは少ない。
そういうディスクではないからだ。
誰かのシステムで聴いたことは、だからほんの数えるほどしかない。

そのわずかな体験だけでいえば、ときとして、つまらないディスクにしか思えない音で鳴ることがある。
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音だとか、
6月28日のコンサートでのベートーヴェンのピアノソナタ第18番の演奏途中において心臓発作を起し、
いちどステージ裏にひきさがったあと、プログラムを変更してステージに戻っている。

この日の録音には、そのことをつげる男性のアナウンスもはいっている。

バックハウスが最後に弾いているのはシューベルトである。
即興曲D935第2曲。

岡先生が書かれているように、
ここでの演奏でもバックハウスは「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」とはしていない。
だからなのか、「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」としている音で鳴らされたとき、
バックハウスの演奏は、ひどく変質してしまうような気がしてならない。

バックハウスの演奏を聴くことにって感じているのは、
バックハウスの演奏を聴くということは、聴き手にも厳しさが求められている、ということである。

バックハウスの演奏がつまらなく聴こえるのであれば、
その装置の音には、そういう厳しさが稀薄なのか、まったく存在していないのかもしれない。

オーディオという世界は、あらゆるところに、聴き手がよりかかれる要素がある。
聴き手は知らず知らずのうちに、どこかによりかかっていることがある。

それは人によって違うところでもあるし、自分では気がつくにくい。
誰かに聴いてもらったとしても、指摘してもらえるとはかぎらない。

それでもひとつたしかにいえるのは、
バックハウスの演奏がつまらなくきこえたり、どうでもいいとしかきこえなかったら、
どこかによりかかったところで音楽が鳴っている、と思っていい。

Date: 11月 6th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その1)

CDではブレンデルとグルダが揃っているし、LPではアシュケナージ、バレンボイムと、現役のトップクラスの全集はそれぞれいいのだが、バックハウスの描きだしたベートーヴェンの世界は、これら四人とはまったくちがうもので、演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。バックハウスは鍵盤の獅子王という異名を与えられてずいぶん損をした人ではないかと思う。豪毅なピアニズムはそういう一面をもっているが、彼はあくまでも音楽そのものに語らせる。したがって、きき手はそこから何を読みとるかということで彼の解釈・表現の評価がわかれるのではあるまいか。後期の作品においてはとくにその感をふかくする。
     *
岡先生がステレオサウンドで連載されていたクラシック・ベストレコードで、
バックハウスのベートーヴェン・ピアノソナタ全集がCD化されたときに書かれたものである。
1986年6月に発行されたステレオサウンド 79号で読める。

ちょうど、このころ、岡先生のクラシック・ベストレコードは私が担当していた。
いまみたいにメールで原稿が送られている時代ではない、
手書きの原稿を鵠沼の岡先生の自宅に取りにうかがったことも何度もある。

岡先生の原稿は読みにくかった。
最初のうちは朱を入れる(文字を読みやすく書き直す)だけでもかなりの時間を要した。
馴れてきてからも、苦労する文字が必ずあった。

岡先生は、アシュケナージとショルティを高く評価されることが多かった。
私は、というと、1986年といえば23だった、若造だった。

ショルティもアシュケナージも、岡先生がいわれるほどいいとは思えなかった。
そんなところが私にはあったけれど、岡先生の原稿は楽しみだった。

このバックハウスのベートーヴェンについて書かれた原稿を読んだ時も、
ふかく頷いてしまった。

とはいっても、岡先生のようにバックハウスを聴きえていたわけではない。
それでも、岡先生の音楽の聴き方を、さすがだ、と思い、
バックハウスの音楽を、いかに聴き得ていなかったことに気づいての頷きであった。

「彼はあくまでも音楽そのものに語らせる」
いまは、ほんとうにそう思えて、頷いている。

12月にバックハウスのCDがユニバーサルミュージックから発売になる。
その中に「最後の演奏会」が含まれている。

この「最後の演奏会」のCDはいつも限定盤で発売される。
数年に一回の割合で、廉価盤としての値段がついての発売である。
市場からなくなって数年たつと、また思い出したように限定盤で出してくれる。

海外盤は手に入らないから、こういう発売のやり方でも、待てば買えるわけで有難いことではある。

バックハウスの「最後の演奏会」は文字通りの内容である。
そこでのバックハウスの演奏を、感傷的に聴くことだってできる。

けれど、そういう聴き方をしてしまったら、
バックハウスの演奏から「何を読みとるか」ということが、あやふやになってしまわないだろうか。

Date: 11月 6th, 2012
Cate: Bösendorfer/Brodmann Acoustics, VC7

Bösendorfer VC7というスピーカー(その28)

VC7のウーファーはエンクロージュアの両側面にとりつけられている。
フロントバッフルにはとりつけられているのはトゥイーターのみ。

VC7と同じユニット配置のスピーカーシステムは他にもいくつか存在しているが、
そういったスピーカーシステムとVC7がはっきりと違う点は、
エンクロージュアの両側面に響板と呼べるものがとりつけてあることだ。

エンクロージュア両側面にとりつけられているウーファーに近接するかたちで、この響板がある。
ウーファーと響板との距離は狭い。

VC7におけるウーファーと響板の位置的関係をみていると、
別項「言葉にとらわれて」の(その7)で書いてる
エレクトロボイスの大口径ウーファー30Wの使い方と共通するところがあるのに気づく。

ここにVC7のもつ音響的バイアスの秘密があるのではなかろうか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その23)

私は、グールド的リスナーとして、
ゴールドベルグ変奏曲を聴く、ということは、どういうことなのかを考えたい。

それは13万円をこえる金額を出して石英CDを買い、後生大事に聴くこととは、
遠く離れた行為のようにも思えてくる。

たった1枚のディスクのために、お金を出す。
それもふつうの人には理解できない金額のお金を出す。
オーディオマニアは、これをやってきている。

愛聴盤の数は、所有しているディスクの枚数とは必ずしも比例しない。
1万枚をこえるディスクを所有していても、愛聴盤は10枚しかない、という人もいるだろうし、
100枚しかディスクは所有していないけれど、100枚すべて愛聴盤という人もきっといる。

その愛聴盤のためにオーディオは存在している。
10枚の愛聴盤のために、100枚の愛聴盤のために、1000枚の愛聴盤のために……。

そして、オーディオは、1枚の愛聴盤のために、が、その始まりである。

グールドのゴールドベルグ変奏曲は私にとって愛聴盤である。
大切な愛聴盤である。

その愛聴盤を、グールド的リスナーとして聴く、ということを考えて、
私は、いまの私の答として、必要なのは石英CDではなくダイヤトーンの2S305という古いスピーカーシステムを、
ソニーのTA-NR10というパワーアンプで鳴らすシステムであり、
このシステムから何を聴き取りたいか、というと、
グールドがヤマハのCFを選んだことと、
ゴールドベルグ変奏曲で、デビュー盤のゴールドベルグ変奏曲の旧録ではすべて省略した反復指定を、
1981年の録音では反復指定の前半は行っていて、しかもテンポもゆっくりであることの関係性を、であって、
そのことに狙いを定めたシステムで聴いて、徹底的に探りたい。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その22)

地理的ギャップというものもある。東へ行くほど、レコードは録音によるコンサート効果をねらっていることがわかる。もちろんさらに遠く日本にでも行けば、西欧化されたコンサート・ホールの伝統による禁忌などはとりたててないから、レコーディングはレコーディング独特の音楽経験として理解されている。
     *
グレン・グールドが語ったことである。

私は、その日本にいて、オーディオマニアである。
20年前に、「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」という文も書いたことがある。

だから、このグールドの語ったことをおもいだす。

13万円以上する石英CDで、グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くのが、
はたしてグールド的リスナーなのだろうか。

少しでもいい音で聴けるのであれば、大金を惜しまない、
そういう態度はマニアとして、ほんとうに正しいのだろうか。
そう考えていた時期は私にもある。20代のころ、30代のころは特にそうだった。
少しでも音が良くなるのであれば、金も手間も惜しまない。
それこそがマニアの姿である、みたいな、そんな底の浅いものだった。

いまでも私はオーディオマニアであり、死ぬまで、おそらくそうであろう。
だから、いい音のためには手間は惜しまない、金だって余裕がなくなりつつあっても、惜しもうとは思っていない。
そういう意味では変っていないけれど、
昔は、手間も金も惜しまない、そんな自分に酔っていたところがなかった、とはいえない。

どこかに、そういう気持があった。
手間も金も惜しまない、ということは、自分に酔いしれるためではない、
あくまでも音楽のため、いい音のためであってこそ、オーディオマニアといえる。

1枚13万円をこえる石英CDは、枚数限定である。
マニアの心のなかのどこかにひそむ自分に酔いしれたい、という気持や虚栄心を、
これらのフレーズが煽らない、と言い切れるマニアがどれだけいようか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その37)

ボリュウムのツマミや入力セレクターのツマミを廻したときの感触なんて、どうでもいい。
大事なのは音であって、音がよければ感触がざらざらしていようと、ガタついていようと関係ない。

こんなことをいう人もいる。
音さえ良ければ、それでいい、という考えであれば、そうなるのかもしれない。
けれど、私のこれまでの経験からいえば、ボリュウムのツマミを廻したときの感触に、
いやなものを感じたとき、そういうものは必ず音となって現れてくる。

もっといえば、コントロールアンプ、プリメインアンプのボリュウムの感触はひじょうに重要な要素であって、
おおまかにはボリュウムの感触と音の感触は、ほぼ一致する。
井上先生も、このことは指摘されていた。

滑らかな感触がツマミを通して感じられるアンプの音は、滑らかである。
ざらついた感触があるアンプの音は、どこかにそういうところが感じられる。
滑らかな感触のものでもツマミによって、その感触、質感は変化していくように、
ツマミの存在も、この感触には大きな要素となっている。

試しにツマミを外して音を聴いてみると、いい。

こんなことを書いていくと、ここでも、そんなことで音は変らない、
そんなことで音が変ると感じるのはプラシーボだとか、オカルトだとか、いいだす人がいる。

そういう人たちに、私はききたい。
水を飲むとき、同じ蛇口から汲んできた水であるならば、
紙カップで飲もうと、プラスチックのコップで飲もうと、
陶器のグラスで飲もうと、ガラスの素敵なコップで飲もうと、
どれも同じ味だと感じるのか、ということだ。

それぞれのコップ、グラスにはいっている水は同じ水、水温もまったく同じ。
異るのは容器だけである。

私は容器によって、水の味は変って感じられる、そういう人間である。

どんな容器で飲もうと、中にはいっている水が同じならば、水の味は同じである。
そういう人には、音の微妙な違いは、一生わからない。
わからない人にとって、わかる人が聴き取っている世界は理解できないものだ。

自分に理解できない世界のことを、プラシーボとかオカルトとか、と否定していてなんになろう。
なぜ、より精進して、自分の聴く能力を鍛えようとしないのか、と思う。

結局、どうでもいい理屈をひっぱり出して、そんなことでは音は変らない、というのは、
精進することを拒否している、あきらめている自分を認めたくないからではないだろうか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十七・チャートウェルのLS3/5A)

私がマッキントッシュのC22、MC275のことを知ったのは、
「五味オーディオ教室」によってであり、
私にとってC22とMC275の愛用者の代表的存在が五味先生である。

その五味先生が、こんなことを書かれている。
ステレオサウンド 52号「続・オーディオ巡礼」で岩竹義人氏を訪問されている。
     *
拙宅のマッキントッシュMC275の調子がおかしくなったとき、岩竹さんがアンプ内の配線もすべて銀線に替えられたアンプを所持されると聞き、試みに拝借した。それをつなぎ替えて鳴らしていたら娘が自分の部屋からやって来て、「どうしたの?……どうしてこんなに音がいいの?」オーディオに無関心な娘にもわかったのである。それほど、既製品のままの私のMC275より格段、高低域とも音が伸び、冴え冴えと美しかった。私は岩竹さんをふしぎな人だと思った。これほどうまくアンプを改良できる人がどうしてあんな悪い音を平気で聴いていられるのか、と。その後、こんどはプリのC22も、経年にともなうコンデンサーの劣化を考慮し新しいのに取替えたという岩竹氏のをかりて聴いてみたら、拙宅のよりいい。私ならこんなアンプは大恩人に頼まれても手離さないだろうに、いよいよ不思議な人だとおもい、もう一ぺん、岩竹家の音を聴きなおしてみる気になった。
     *
C22のコンデンサーを○○に交換したら音がよくなった、とか、
配線材を○○にしたら、音の抜けが良くなった、とか、
そんなことを誰かがいったところで、私はまったく信用していない。

でも五味先生が、こう書かれていると、素直に信じる。
五味先生の文章からはC22のコンデンサーを、新品のBlack Beautyに交換されたのか、
それともほかの銘柄のコンデンサーに交換されたのかまではわからない。

でも、五味先生はこういう人である。
     *
もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差異を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
以来、そのとき替えた茄子はそのままで鳴っているが、真空管の寿命がおよそどれぐらいか、正確には知らないし、現在使用中のテープデッキやカートリッジが変わればまた、納屋でホコリをかぶっている真空管が必要になるかもしれない。これはわからない。だが、いずれにせよ真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わぬだろう。
     *
こういう五味先生が、岩竹氏の手によって改良されたC22とMC275を、
「大恩人に頼まれても手離さないだろうに」と褒められている。
そのことを考えてしまう。

Date: 11月 4th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十六・チャートウェルのLS3/5A)

マランツのModel 7もマッキントッシュのC22も、
信号系のコンデンサーにはスプラーグのBlack Beauty、
固定抵抗はアーレン・ブラッドレーのもの、
真空管は12AX7、と使用部品に共通するところは多い。

けれどModel 7とC22は、回路が違い、コンストラクション、配線が違い、筐体構造も違う。
それに設計した人が違う。

これらの違いにより、Model 7とC22の音の世界はまったく異るわけだ。

そう考えると、コンデンサーの銘柄を変更したところで、
Model 7が別のアンプになるわけでもないし、C22がModel 7になるわけでもない。
Model 7の世界にしても、C22の世界にしても、使用部品だけがつくりあげているわけではない。

だからといって、もともと使われていた部品よりも劣悪な部品に取り換えてしまうのだけは、なしである。
同等の部品、それ以上の部品であるということが、部品交換の条件となる。

こんなふうに言葉に書いてしまうと、そう難しいことではないようなことであっても、
人によって、同等の部品、それ以上の部品の判断が異ることがあるから、
難しくもあり、誤解を生むのだと思う。

Model 7に関しては、くり返し述べているように私ならASC(旧TRW)のコンデンサーに交換する。
C22で、そうするのか、と問われれば、考えてしまう。

Model 7のBlack BeautyをASCのコンデンサーに換えるのであれば、
C22のBlack BeautyもASCでいいではないか、となるのだけれど、
ここでModel 7とC22の違いが、コンデンサーの選択に関係してくる。

C22の毒を薬にのようにして、聴きやすく鳴らしてくれるところがもしかすると、
薄れてしまうかもしれないと思ってしまうからである。

Date: 11月 4th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その14)

ステレオサウンド 51号に載っている「続・五味オーディオ巡礼」に登場されているのは、
東京のH氏である。
他の号の「続・オーディオ巡礼」に登場している人の名前は出ていたし、顔写真も載っていた。
でも、51号のH氏だけは匿名で顔写真もない。

このH氏は、原田勲氏である。
ヴァイタヴォックスのCN191に、マランツのModel 7とModel 9のペア、
プレーヤーはEMTの927DstにカートリッジはフィデリティリサーチのFR7というシステム。

五味先生は
〝諸君、脱帽だ〟
 ショパンを聴いてシューマンが叫んだという言葉を思いだした、
と書かれ、
さらに47号の登場された奈良の南口氏の装置で、
「サン・サーンスの交響曲第三番の重低音を聴いて以来の興奮をおぼえたことを告白する」とまで書かれている。

原田編集長はその後、スピーカーをCN191からアクースタットのコンデンサー型に、
アクースタットからタンノイのRHR Limitedにされていて、
ヤマハのAST1の試聴時はRHR Limitedだったはず。

AST1を試聴した1988年の秋、
私はそのことに気がついていなかった。

クリプシュホーンのCN191を鳴らしてきた男が、ヤマハのAST1の低音に驚き、喜んでいる、ということに。

そして、もうひとつ気がついてなかったことがある。
クリプシュホーン、バックロードホーンは「音軸」をもつスピーカーである、ということを。

Date: 11月 4th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その13)

AST1の音は、トータルでいえば、それほど優れているわけではない。
けれど、低音の素晴らしさは、見事だった。
その見事さは、ウーファーの口径が16cmなのに、
エンクロージュアのサイズがW18.8×H29.7×D23.3cmという小型にも関わらず、
といったエクスキューズなしのものだった。

スピーカーシステム2本と専用アンプで135000円ということは、
それぞれが40000円ちょっと価格と考えられなくもない。

1本40000円から50000円のスピーカーシステムと、同価格帯のプリメインアンプの組合せのほうが、
トータルで得られる音は、もうすこし品のあるものが得られるだろうけど、
AST1で味わった興奮は、得られない。

私も少なからず興奮していた。
でも私以上に、私の何倍も興奮していたのは長島先生と原田編集長だった。
このふたりが興奮していたのも、もちろん低音に関して、である。

長島先生、原田編集長の興奮には、喜びがあったように、私は感じていた。
私の興奮には、ふたりが感じていた喜びはなかった。

ふたりの喜びとは、それまでの長いオーディオ遍歴において求めつづけてきていた「低音」が、
AST1で実現できた、聴くことができた、そんな感じをうける喜び方だった。

「こういう低音が欲しかったんだ」という言葉も、そのとき聞いた。

AST1の低音は見事ではあった。
それでもクォリティ的にはまだまだ上があるのは感じさせるレベルであったし、
そんなことは長島先生、原田編集長は私よりもずっとわかったうえで、
低音の出方そのものに対しての「こういう低音が欲しかったんだ」だと思う。

Date: 11月 3rd, 2012
Cate: audio wednesday

第22回audio sharing例会のお知らせ

今月のaudio sharing例会は、11月7日(水曜日)です。

11月7日は、瀬川先生の命日ですので、
今回のテーマは「瀬川冬樹を語る」です。
昨年の11月も同じテーマで行っていますので、
また同じことを話すのか、と思われるかもしれませんが、
1年間、ブログを書いていると、気づくことがいくつかあって、
それにたった1回だけでは語り尽くせないテーマでもありますから、
またか、と思われても、1年前と同じテーマでやります。

来年の11月も、同じテーマでやります。
語り尽くせた、と私が実感できるまで、11月は同じテーマでやる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 3rd, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その12)

1988年秋に、ヤマハからAST1が登場した。
AST1は、16cm口径のコーン型ウーファー、3cm口径のドーム型トゥイーターの2ウェイの小型スピーカーと、
専用アンプを組み合わせたシステム全体の総称である。

ASTは、他のオーディオメーカーが商標登録していたため、すぐにYSTという名称に変更されている。
AST1は、このYST方式を最初に採用したモデルだ。

AST1は、この年のステレオサウンドのCOMPONENTS OF THE YEAR賞の特別賞に選ばれている。
正確にはAST1が選ばれたのではなく、AST方式に対しての特別賞なのだ。

なぜAST1そのものに賞が与えられなかったかというと、
トゥイーターのクォリティがそれほど高くないこと、
専用アンプのクォリティもそれほど高くないこと、
つまりAST方式の可能性を高く評価してのものであって、
AST1という、135000円のシステムについては、注文も多かった。

それでも、AST1の低音再生能力の高さは、驚くべきものであったし、
だからこそ特別賞に選ばれているのだ。

いまはステレオサウンド・グランプリと名称は変っているけれど、
この賞の選考は毎年11月1日に行われる。
なので10月は、各社、各輸入商社が推すオーディオ機器の、賞に向けての試聴が行われる。
選考委員の方々の自宅で行われることもあるし、
メーカー、輸入商社の試聴室ということもあるし、ときにはステレオサウンドの試聴室で、ということもある。

AST1の、そういう試聴がステレオサウンドの試聴室であった。
長島先生と、当時の編集長で選考委員でもあった原田勲氏が聴かれた。

この日のことは、よく憶えている。

Date: 11月 3rd, 2012
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その29)

筒とピストンの例をだして話を進めてきているけれど、
この場合でも筒の内部が完全吸音体でなければ、
ピストン(振動板)の動きそのままの空気の動き(つまりピストニックモーション)にはならないはず。

どんなに低い周波数から高い周波数の音まで100%吸音してくれるような夢の素材があれば、
筒の中でのピストニックモーションは成立するのかもしれない。

でも現実にはそんな環境はどこにもない。
これから先も登場しないだろうし、もしそんな環境が実現できるようになったとしても、
そんな環境下で音楽を聴きたいとは思わない。

音楽を聴きたいのは、いま住んでいる部屋において、である。
その部屋はスピーカーの振動板の面積からずっと大きい。
狭い狭い、といわれる6畳間であっても、スピーカー(おもにウーファー)の振動板の面積からすれば、
そのスピーカーユニットが1振幅で動かせる空気の容量からすれば、ずっとずっと広い空間である。
そして壁、床、天井に音は当って、その反射音を含めての音をわれわれは聴いている。

そんなことを考えていると、振動板のピストニックモーションだけでいいんだろうか、という疑問が出てくる。

コンデンサー型やリボン型のように、振動板のほぼ全面に駆動力が加わるタイプ以外では、
ピストニックモーションによるスピーカーであれば、振動板に要求されるのは高い剛性が、まずある。

それに振動板には剛性以外にも適度な内部損失という、剛性と矛盾するような性質も要求される。
そして内部音速の速さ、である。

理想のピストニックモーションのスピーカーユニットための振動板に要求されるのは、
主に、この3つの項目である。

その実現のために、これまでさまざまな材質が採用されてきたし、
これからもそうであろう。
ピストニックモーションを追求する限り、剛性の高さ、内部音速の速さは重要なのだから。

このふたつの要素は、つまりは剛、である。
この剛の要素が振動板に求められるピストニックモーションも、また剛の動作原理ではないだろうか。

剛があれば柔がある。
剛か柔か──、
それはピストニックモーションか非ピストニックモーションか、ということにもなろう。

Date: 11月 2nd, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その11)

クリプッシュホーンの、こういう構造はデメリットとして考えていた。
クリプシュホーンを採用するかぎり、ウーファーはどんなユニットをもってこようと、
それほど高い周波数までの再生は無理である。

ウーファーに再生能力があっても、折り曲げられたホーン内を通ってくるあいだに、
高い周波数は減衰してしまう。
だからエレクトロボイスのパトリシアンではウーファーとミッドバスのクロスオーバー周波数は200Hzと、
あの時代のスピーカーシステムとしては、異例といえるほど低い。

ヴァイタヴォックスのCN191は2ウェイということもあって、
クロスオーバー周波数は500Hzと少し高い値になっている。
そのため、CN191は340Hz付近で10dB程度のディップを生じている。

これはクリプシュホーンを採用している以上避けられないこと。
誰が考えても明白なことで、
クリプシュホーン採用のスピーカーシステムをつくっていたメーカーの人間は、
当然、このデメリットはわかった上でなお採用しているのはなぜだろう? と考えたことがあった。

もうずっと前のことだ。
オーディオに興味を持ちはじめたころ、
クリプシュホーンがどういうものかを知ったときのことで、
まだ10代半ばだった私は、低音までのオールホーンシステムをつくるために、
ある意味、止むを得ずの選択だったのだろう、と結論づけてしまった。

それを、いまは訂正しなければならないかも、と思っている。
そう思わせたのは、この項の(その9)に書いたBALMUDAの扇風機である。