オリジナルとは(続×十七・チャートウェルのLS3/5A)
私がマッキントッシュのC22、MC275のことを知ったのは、
「五味オーディオ教室」によってであり、
私にとってC22とMC275の愛用者の代表的存在が五味先生である。
その五味先生が、こんなことを書かれている。
ステレオサウンド 52号「続・オーディオ巡礼」で岩竹義人氏を訪問されている。
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拙宅のマッキントッシュMC275の調子がおかしくなったとき、岩竹さんがアンプ内の配線もすべて銀線に替えられたアンプを所持されると聞き、試みに拝借した。それをつなぎ替えて鳴らしていたら娘が自分の部屋からやって来て、「どうしたの?……どうしてこんなに音がいいの?」オーディオに無関心な娘にもわかったのである。それほど、既製品のままの私のMC275より格段、高低域とも音が伸び、冴え冴えと美しかった。私は岩竹さんをふしぎな人だと思った。これほどうまくアンプを改良できる人がどうしてあんな悪い音を平気で聴いていられるのか、と。その後、こんどはプリのC22も、経年にともなうコンデンサーの劣化を考慮し新しいのに取替えたという岩竹氏のをかりて聴いてみたら、拙宅のよりいい。私ならこんなアンプは大恩人に頼まれても手離さないだろうに、いよいよ不思議な人だとおもい、もう一ぺん、岩竹家の音を聴きなおしてみる気になった。
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C22のコンデンサーを○○に交換したら音がよくなった、とか、
配線材を○○にしたら、音の抜けが良くなった、とか、
そんなことを誰かがいったところで、私はまったく信用していない。
でも五味先生が、こう書かれていると、素直に信じる。
五味先生の文章からはC22のコンデンサーを、新品のBlack Beautyに交換されたのか、
それともほかの銘柄のコンデンサーに交換されたのかまではわからない。
でも、五味先生はこういう人である。
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もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差異を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
以来、そのとき替えた茄子はそのままで鳴っているが、真空管の寿命がおよそどれぐらいか、正確には知らないし、現在使用中のテープデッキやカートリッジが変わればまた、納屋でホコリをかぶっている真空管が必要になるかもしれない。これはわからない。だが、いずれにせよ真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わぬだろう。
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こういう五味先生が、岩竹氏の手によって改良されたC22とMC275を、
「大恩人に頼まれても手離さないだろうに」と褒められている。
そのことを考えてしまう。