Date: 11月 18th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その2)

瀬川先生は、JBL4345とジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットのあいだに、
どんなスピーカーシステムを鳴らされていたであろうか、を考えるにあたって、いくつかの要素がある。

その中でまず浮んでくるのは、スイングジャーナルの別冊でつくられた組合せのことだ。
このブログの最初のころに書いているように、そこで瀬川先生はJBLのスピーカーではなく、
アルテックの604の最新型604-8Hをおさめた620Bを指定され、
アンプにはアキュフェーズのC240とマイケルソン&オースチンのTVA1。

この組合せは、
瀬川先生の耳の底に焼きついている音を鳴らした、
604Eをおさめた621AとマッキントッシュのC22、MC275と組合せを思い出させる。

TVA1はKT88のプッシュプル、MC275もKT88のプッシュプルで、
出力はTVA1が70W+70W、MC275が75W+75Wということもあって、
もちろんそれだけでなく音の面でも、MC275の現代版としてとらえられるところがあった。
そういうパワーアンプである。

マイケルソン&オースチンからコントロールアンプもややおくれて登場したけれど、
それほど話題にはならなかった。
TVA1の出来に比較すると、コントロールアンプの出来はそういう程度であったからだ。

まだTVA1しか登場していなかったころ、瀬川先生はアキュフェーズのC240と組み合わせされている。
そのことはステレオサウンド 52号に書かれている。
     *
 TVA1は、プリアンプに最初なにげなく、アキュフェーズのC240を組合わせた。しかしあとからいろいろと試みるかぎり、結局わたくしは知らず知らずのうちに、ほとんど最良の組合せを作っていたらしい。あとでレビンソンその他のプリとの組合せをいくつか試みたにもかかわらず、右に書いたTVA1の良さは、C240が最もよく生かした。というよりもその音の半分はC240の良さでもあったのだろう。例えばLNPではもう少し潤いが減って硬質の音に鳴ることからもそれはいえる。が、そういう違いをかなりはっきりと聴かせるということから、TVA1が、十分にコクのある音を聴かせながらもプリアンプの音色のちがいを素直に反映させるアンプであることもわかる
     *
TVA1の音の個性は、どちらかといえば濃い、といえる。MC275もそういうところをもつ。
それでいて両者とも、意外にもフレキシビリティの高さももっている。

Date: 11月 18th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その5)

2009年1月から続いていてる「五味康祐氏のオーディオで聴く名盤レコードコンサート」。

今年も3回催され、来年もまた開催される。
毎回抽選になるほど申込まれる方が、いまも多い、ときいている。

私は初回に応募したけれど無理で、2回目に行くことができた。
ほぼまる4年開催されているから、私が聴いたときの音といま鳴っている音は変っているところもあるはず。
いいコンディションで鳴っている、ともきいている。

また機会があれば行きたいと思うけれど、いまだ行っていない方も少なくないようだから、
一度行った者がふたたび行くのはもう少し先でもいい、と思っている。

練馬区役所の担当の方が丁寧に、五味先生のオーディオ機器を取り扱われている、とのこと。
そういう人がいてくれるから、単なる催し物、試聴会の域にとどまることなく、
音もよくなってきているのだろう。いいことだと思う。

でも、一部の方は誤解されているようだが、
練馬区役所の一室で鳴っているのは、五味先生が使われてきたオーディオ機器が鳴っているのであり、
その音が良くなってきていても、それは五味先生の音が、そこで再現されているわけではない。

ただ単にタンノイのオートグラフ、マッキントッシュのC22、MC275、EMT930stをバラバラに集めてきて、
それらを結線して音を出すことに比べれば、ずっと五味先生の音に近い、とは言えても、
あくまでも片鱗を感じさせる、であり、4年間鳴らされてきたことによって音が良くなってきているとすれば、
それは担当された方の人となりが音となってあらわれてきたから、と受けとめた方がいい。

それこそが、音は人なり、ではないだろうか。

話がそれてしまったが、
私が行った2回目のとき、最初にかけられたレコードが、このバックハウスの「最後の演奏会」だった。

Date: 11月 17th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(なぜ迷うのか・その1)

なぜ迷うのか。

いくつか理由は考えられるなかで、もっとも大きいのは聴き手に感情があり、
その感情が知覚(オーディオにおいては聴覚)に影響を与えるから、ではないだろうか。

この感情が聴覚を曖昧なものにするから、
オーディオ雑誌の試聴テストは信用できない、
試聴テストはすべてブラインドテストにすべき、と主張する人がいるわけだが、
私にいわせれば感情がいっさい影響しない試聴テストは、たとえブラインドテストであっても無理なことであり、
それよりも、なぜ、知覚は感情の影響を受けるのであろうか、ということを考えると、
結局、それは迷うため、である。

つまり迷うことが求められているからなのではないだろうか。

オーディオマニアであるわれわれが対峙するものは、ひじょうに大きい。
どれだけ大きいのかも、ときにはわからなくなることすらある。

感情によって知覚(聴覚)が影響を受けるということは、
対峙している、この大きなものをひとつのところからではなく、
いくつものところからみて(聴いて)、その全体像を把握する、ということなのかもしれない。

だから冷静に迷うことが、じつはオーディオには大切なこととして必要なのだと、そうおもえるようになってきた。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その1)

11月7日のaudio sharing例会「瀬川冬樹を語る」でも出た話題であり、
私がステレオサウンド働いていたときも辞めたあとも、なんどか出た話題が、
瀬川先生が生きておられたスピーカーは何を鳴らされているか、ということだ。

いまならば、間違いなくジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを使われている。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーシステムにされているか、
菅野先生と同じようにDDD型ユニットを中心としたシステムを自分で組まれるか、
たぶん後者ではなかろうか、とは思うけれど、
どちらにしろジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを核としたシステムである。
これは断言しておく。

菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。
このとき聴き終った後、
「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。

菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。

私だけが思っていたのではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
すこしそのことを菅野先生と話していた。

菅野先生はいまはTrobadour40からTrobadour80にされている。
ウーファーはJBLの2205、その下にサブウーファーとしてヤマハのYST-SW1000が加わり、
スーパートゥイーターとしてエラックのリボン型4PI。

瀬川先生がどういうウーファーと組み合わされるのか、
やはりスーパートゥイーターとしてエラック4PIを使われるのか、
そういう細かいことをはっきりとはいえないし、
もしかするとThe Unicornを中心としたシステムを組まれていたことだって考えられる。

それでも、ジャーマン・フィジックスのDDD型に惚れ込まれていたことだけは、確信している。

だから「瀬川先生が生きておられたら……」で考えるのは、
最後に鳴らされていたJBLの4345とジャーマン・フィジックスのあいだをうめるスピーカーについて、
ということになる。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(寒くなる季節をむかえて)

なかなか涼しくならないと秋だなと思っていたら、
11月にはいり、いきなり晩秋になった感じさえ受ける。

Twitterを眺めていると、寒くなってきたから、夏の間しまっていた真空管アンプをひっぱり出してきた、
という書込みがいくつかあった。

真空管アンプは暖房のかわりにもなることがある。
出力管がなんなのか、出力段の構成はどうなのかによって、
暖房の補助的にとどまるアンプ、積極的に暖房と呼びたくなるようなアンプなどがある。

出力管のヒーター(フィラメント)が仄かに灯るのは、寒くなる季節にむいている。
実際に暖かい(熱い)し、見た目もそうである。

でも大型送信管の211や845のトリウムタングステンフィラメントは、
個人的にどうも苦手である。
仄かに灯る、ではなく、煌々とまぶしい。

仄かに灯るのが暖炉の火を思わせるのだとしたら、
トリウムタングステンフィラメントは、夏のまぶしい太陽という感じさえするからだ。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 価値か意味か, 快感か幸福か

快感か幸福か(価値か意味か)

オーディオという趣味には、価値と意味がある。
価値に傾く風潮が最近では強いように感じることがある。

価値といっても、オーディオにおける価値をどう定義するかは、
またどこかで書いていきたいと思えることだけれど、ここではあえて「価値」とだけしておく。

オーディオにおける価値は、大事なことである。
若いころは、その価値だけをただひたすら目指そうとしていた。

いまはというと、意味に重きをおきたい。
意味といっても、価値と同じようにオーディオにおける意味をどう定義するかは、
これについてもまたどこかで書いていきたいことであるけれど、ここではあえて「意味」とだけしておく。

快感か幸福か、が、価値か意味か、にそのままいいかえられるわけでないことはわかっていても、
快感か幸福か(価値か意味か)、にしておくことにした。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(迷うからこそ)

私が改めていうまでもなく、オーディオは奥が深い。そして広い。
このことを別の表現では、オーディオは泥沼だ、と昔はよくいわれていた。
     *
私はタンノイ・オートグラフに四六時中満足しているわけではけっしてない。いいレコードを──つまり曲も演奏もいい、録音も悪くない一枚を聴いているとき私たちは装置のよし悪しなどは考えないものだ。すんなり音楽的感動・その美しさ・味わいにひたっていられる。家庭でレコード音楽を鑑賞するこれはもっとも正常な、かつ大切な状態であって、本来はつねにそうあるべきなのである。
 ──が、理屈ではわかっていても、そうスンナリゆかぬところにオーディオ・マニアのかなしさや宿命があり、やっぱり、気にくわぬ音が出てくる。私も例外ではない。言うなら、永遠に迷えるおろかな羊だ。これは知っておいてほしいと思うのだ。
     *
これは五味先生のことばだ。五味オーディオ教室で、私は13歳のとき読んだ。
永遠に迷える羊──、それこそがオーディオマニアだということを、
そんな苦労はまったくしていない13のときに、とにかく文字の力によって刻まれた。

オーディオには迷うことが無数にある。
迷うことがいっさいなく、パッパッとすべてを判断していけたら、
オーディオは泥沼ではない、きれいな湖になるのかもしれない。

迷ったり苦労なんてしたくない、ただ好きな音楽をいい音で聴きたい、という人がいる。
それで、チューニングを生業としている人に依頼して、自分の装置の調整をまかせてしまう。
それもひとつのありかたであり、そういうやり方を否定はしたくない。

でも、こういう人たちは、どんなに高額な機器を所有していようと、オーディオマニアではない。
オーディオマニアでなくても、好きな音楽をいい音で聴きたい人はいて、
そういう人たちが、誰かに調整を依頼するのは当然のことだろう。

でもオーディオマニアと自覚している人であれば、どんなに迷うことだらけでも、
人に調整を任せてしまってはいけない。
世の中には迷うことが無数にあるのと同じように、迷うことで発見できることが、無数にある。

実際の道でもそうだろう。
目的地への最短のルートを、あらかじめ地図で調べて、それ以外の道はいっさい通らない。
寄り道は無駄なことである、と考え、それを実行している人もいるだろう。

道は無数にある。
それぞれの道は同じではない。
違う道を歩くことで見つけられるものが世の中にはある。
道に迷うことで見つけられるものがある。

チューニングを生業としている人の中には、
「最短距離でいい音にたどりつけます」などという人がきっといると思う。
そんな人に自分の装置をまかせてしまったら、最後、自分の目、耳で発見することができなくなってしまう。

その発見を放棄してしまうことを、自ら選択してはいけない。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十二・チャートウェルのLS3/5A)

マッキントッシュの音やデザインの魅力については、いまさら私が、ましてこの特集号で改めて書くことはあるまい。要するにそれほど感心したマッキントッシュを、しかし私は一度も自家用にしようと思ったことがない。私は、欲しいと思ったら待つことのできない人間だ。そして、かつてはマランツやJBLのアンプを、今ではマーク・レヴィンソンとSAEを、借金しながら買ってしまった。それなのにマッキントッシュだけは、自分で買わない。それでいて、実物を眺めるたびに、なんて美しい製品だろうと感心し、その音の豊潤で深い味わいに感心させられる。でも買わない。なぜなのだろう。おそらく、マッキントッシュの製品のどこかに、自分と体質の合わない何か、を感じているからだ。どうも私自身の中に、豊かさとかゴージャスな感じを、素直に受け入れにくい体質があるかららしい。この贅を尽した、物量を惜しまず最上のものを作るアメリカの製品の中に、私はどこか成金趣味的な要素を臭ぎとってしまうのだ。そしてもうひとつ、新しもの好きの私は、マッキントッシュの音の中に、ひとつの完成された世界、もうこれ以上発展の余地のない保守の世界を聴きとってしまうのだ。これから十年、二十年を経ても、この音はおそらく、ある時期に完結したもの凄い世界ということで立派に評価されるにちがいない。時の経過に負けることのない完結した世界が、マッキントッシュの音だと思う。
     *
「自分の体質と合わない何か」を、瀬川先生はマッキントッシュのアンプの音のうちに感じられている。
この文章は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュの号に書かれたもの。
1976年のことである。
このころのマッキントッシュのアンプは、コントロールアンプはC26、C28、
パワーアンプはMC2105、MC2300の時代である。

このころのマッキントッシュのアンプについては、ステレオサウンド 52号で書かれている。
     *
かつてC22とMC275の組合せの時代にしびれるほどの思いを体験したにもかかわらず、マッキントッシュの音は、ついにわたくしの装置の中に入ってこなかった。その理由はいまも書いたように、永いあいだ、音の豊かさという面にわたくしが重点を置かなかったからだ。そしてマッキントッシュはトランジスター化され、C26、C28やMC2105の時代に入ってみると、マッキントッシュの音質に本質的に共感を持てないわたくしにさえ、マッキントッシュの音は管球時代のほうがいっそ徹底していてよかったように思われて、すますま自家用として考える機会を持たないまま、やがてレビンソンやSAEの出現以後は、トランジスター式のマッキントッシュの音がよけいに古めかしく思われて、ありていにいえば積極的に敬遠する音、のほうに入ってしまった。
MC2205が発売されるころのマッキントッシュは、外観のデザインにさえ、かつてのあの豊潤そのもののようなリッチな線からむしろ、メーターまわりやツマミのエッジを強いフチで囲んだ、アクの強い形になって、やがてC32が発売されるに及んで、その音もまたひどくアクの強いこってりした味わいに思えて、とうていわたくしと縁のない音だと決めつけてしまった。
     *
このころのマッキントッシュのアンプの音ほどではないにせよ、
マッキントッシュのアンプの音は、瀬川先生の体質とは合わない「何か」を特徴としていた。

そういうマッキントッシュのアンプで、
これまた瀬川先生の耳を聴くに耐えないほど圧迫したアルテックの612Aを鳴らして、
とても好きなエリカ・ケートの歌声の美しさが、瀬川先生の耳の底に焼きついている、ということは、
どういうことなのか。

もしマランツのModel 7とModel 8BもしくはModel 9で612Aを鳴らされていたら……、
そう考えてみることで、浮びあがってくることがある。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十一・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生がマッキントッシュのC22とMC275のペアをはじめて聴かれたのは、
ステレオサウンド 3号の特集記事でアンプの試聴テストにおいてであり、
このときステレオサウンドはまだ試聴室を持っておらず、
試聴は瀬川先生のリスニングルームで行われている。

だから試聴テストが終ったあと、瀬川先生は自身のリスニングルームで、
アルテックの604Eをおさめた612Aでエリカ・ケートを聴き、
「この一曲のためにこのアンプを欲しい」と思われたわけだ。

ここで見逃してはならないのは、
アルテックの612Aで聴かれて、「滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声」が、
瀬川先生の耳の底に焼きついた、ということ。

612Aについては、ステレオサウンド 46号のモニタースピーカーの試聴テストで、こんなことを語られている。
     *
私は研究のつもりで、アルテックの612Aのオリジナル・エンクロージュアを自宅に買いこんで鳴らしていた。その音は、身銭を切って購入したにもかかわらず好きになれなかった。ただ、録音スタジオでのひとつの標準的なプレイバックスピーカーの音を、参考までに身辺に置いておく必要があるといった、義務感というか意気込みとでもいったかなり不自然な動機にすぎなかった。モニタールームでさえアルテックの中域のおそすしく張り出した音は耳にきつく感じられたが、デッドな八畳和室では、この音は音量を上げると聴くに耐えないほど耳を圧迫した。私の耳が、とくにこの中域の張り出しに弱いせいもあるが、なにしろこの音はたまらなかった。
     *
瀬川先生にとって、エリカ・ケートの歌曲集がどういう存在であったのかは、次の文章を読んでほしい。
     *
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさがなんとも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく,もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。(人生音盤模様より)
     *
瀬川先生は、すり減ってしまうのがこわくて、テープにコピーされていたくらいである。
そのエリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung を、
テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴かれている。
マッキントッシュのC22、MC275、アルテックの604Eで。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生がModel 7の音に衝撃をうけられたことが伝わってくる。

瀬川先生はマッキントッシュのC22は購入されていない。
その理由はなんとなくではあるけれど想像できないわけではない。

ここにModel 7とC22の違いがあり、
その違いをもっとも強く感じるのは、C22とMC275について書かれた次の文章である。
     *
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これもまた前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
ここには一枚のレコードが登場している。エリカ・ケートのモーツァルト歌曲集である。

けれど私が読んだかぎりにおいて、Model 7の音について書かれるとき、
そこになにかのレコードが登場することはない。

私にとって、この一点こそが、
マランツの音とマッキントッシュの音の違いをもっとも的確に語ってくれている。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十九・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生はマランツのModel 7に、びっくりした、ということを何度か書かれている。

ステレオサウンド 52号でも、1981年のセパレートアンプの別冊においても書かれている。
そのマランツModel 7を瀬川先生は、音を聴かずに買われている。

あるオーディオ雑誌で、新忠篤氏がこんなことを発言されているが、新氏の勘違いである。
     *
そのころ瀬川氏は、何か他のものを買おうと思い、貯金をされていたらしいのです。しかし、あるときこのアンプと出会って、あまりの音の良さに驚いて買ってしまったというんです。その記事が、いまも目に焼きついているんですね。(管球王国 vol.36より)
     *
ステレオサウンド 52号に、瀬川先生は書かれている。
     *
昭和36年以降、本格的に独立してインダストリアルデザインの道を進みはじめると、そろそろ、アンプの設計や製作のための時間を作ることが困難なほど多忙になりはじめた。一日の仕事を終って家に帰ると、もうアンプの回路のことを考えたり、ハンダごてを握るよりも、好きな一枚のレコードで、何も考えずにただ疲れを癒したい、という気分になってくる。そんな次第から、もうこの辺で自作から足を洗って、何かひとつ、完成度の高いアンプを購入したい、というように考えが変ってきた。
 もうその頃になると、国内の専業メーカーからも、数少ないとはいえ各種のアンプが市販されるようになってはいたが、なにしろ十数年間、自分で設計し改造しながら、コンストラクションやデザインといった外観仕上げにまで、へたなメーカー製品など何ものともしない程度のアンプは作ってきた目で眺めると、なみたいていの製品では、これを買って成仏しようという気を起こさせない。迷いながらも選択はどんどんエスカレートして、結局、マランツのモデル7を買うことに決心してしまった。
 などと書くといとも容易に買ってしまったみたいだが、そんなことはない。当時の価格で十六万円弱、といえば、なにしろ大卒の初任給が三万円に達したかどうかという時代だから、まあ相当に思い切った買物だ。それで貯金の大半をはたいてしまうと、パワーアンプはマランツには手が出なくなって、QUADのII型(KT66PP)を買った。このことからもわたくしがプリアンプのほうに重きを置く人間であることがいえる。
 ともかく、マランツ7+QUAD/II(×2)という、わたくしとしては初めて買うメーカー製のアンプが我が家で鳴りはじめた。
 いや、こういうありきたりの書きかたは、スイッチを入れて初めて鳴った音のおどろきをとても説明できていない。
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。
     *
わかるのは、Model 7を買ってから音を聴かれ、びっくりされた、ということである。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十八・チャートウェルのLS3/5A)

マッキントッシュのC22、MC275も、適切に手を加えることで、
マッキントッシュの世界(よさ)を崩すことなく、音をよくしていけることを、
五味先生の文章によって、私は確信している。

これはあくまでも私にとっての、私だけの確信であって、
C22、MC275をお使いの方でも、五味先生の書かれたものに対して否定的な方にとっては、
そんなものは確信とはいわない、となって当然である。

五味先生はマランツのModel 7とModel 8Bも所有されていた。
けれどタンノイのオートグラフを鳴らしていたマッキントッシュのC22とMC275のペアであり、
晩年にはマークレビンソンのJC2とカンノアンプの300Bシングルのペアもある。

オートグラフというスピーカーに惚れ込んだ五味先生にとって、C22とMC275は、
あくまでもオートグラフをもっともよく鳴らしてくれるアンプとしての存在であったのだと思う。
オートグラフへの惚れ込み方と、C22、MC275への愛着は違うような気もする。

五味先生にとって、岩竹氏による銀線への交換がなされたMC275は、
あくまでもオートグラフを五味先生のリスニングルームにおいて鳴らしての、
元のMC275よりも、高域も低域も伸び、冴え冴えと美しかったわけである。

別のひとのところへ、別のスピーカーで鳴らしてみれば、
元のMC275と音は違うけれど、必ずしも良くはなっていない、という結果になることだって考えられる。

でも、私にはそれは、どうでもいい、といってはいいすぎになってしまうが、
それでも五味先生が、五味先生のリスニングルームで五味先生のオートグラフを鳴らして音が良くなっていれば、
それは私にとっても試してみる価値のあることである。

そう考える私は、マッキントッシュのC22のコンデンサーをもし交換するようなことになったら、
Black Beautyに多少の未練を残しながら、ASCのコンデンサーにすると思う。

Black Beautyの信頼性を、私は信用していないからである。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: ケーブル

期待したいこと

東京新聞のウェブサイトで公開されている記事のなかに、
「ニット技術で絹製血管 細さ1ミリ 血栓防ぐ」というタイトルがあった。

記事によれば、福井の繊維メーカー、福井経網興業が、東京農工大の朝倉哲郎教授と共同で、
絹製人工血管を研究していて、直径1mmの絹製の人工血管の量産に成功した、とある。

特殊な絹を筒状に加工し、その周囲を別の絹でコーティングし血液が漏れない構造で、
それまでのポリエステルなどの人工化合物による人工血管とくらべて伸縮性があり、
血栓ができにくいため極細にでき、さらに蛋白質成分が体内の組織と同化し成長する、とある。

この記事を読んでいて、オーディオマニアの私は、
この絹製の人工血管はそのままオーディオケーブルの被膜に使える、と思っていた。

ケーブルの音は、いうまでもなく芯線の材質、太さ、撚り方などによって変化していくわけだが、
被覆が音に与える影響もまた大きい。

だからいろいな材質が使われてきている。
絶縁特性が優れているから、といって、音がいいとはかぎらない。
絹が使われている例もある。
でも主流は、人工血管と同じく人工化合物である。

被覆も自然素材が音がいい、とは昔からいわれてはいた。
でも使われることはそう多くはない。

けれど、福井経編興業の絹製人工血管が予定どおりの2年後に実用化されれば、
ケーブルの被覆として、すぐにでも採用してほしい、と思う。

実物を目にしたわけでは、もちろんない。
東京新聞の記事を読んだだけである。

それでも、この絹製人工血管がケーブルの被覆として、そうとうに理想的なモノであると確信している。
実用化まであと2年、オーディオのケーブルに採用されるのにはさらにもう少し先のことになることだろう。

オーディオにとって待ち遠しい技術が登場してくれた。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: 世代

世代とオーディオ(その1)

あれは私が10代のころだったのか、それとももうすこしあとのことだったのか、
ジェネレーションギャップという言葉が、よく使われていた(耳にすることの多かった)時代があった。

あのころにくらべると、いまはジェネレーションギャップを使う人は、
すくなくとも私のまわりにはほとんどいなくなった。
だからといって、ジェネレーションギャップ(世代の違い)がなくなってしまったわけでもなかろう。

オーディオのことだけにおいても、こんなに価値観が違うのかと思うことがある。
Twitterやfacebookをみていると、私より一世代以上若い人たちが、
アナログプレーヤーについて書いているのを読んでいると、よくそう思うことが多い。

もう少し具体的に書くと、あるアナログプレーヤーがネットオークションに出品されている。
これらのアナログプレーヤーの大半は、私がステレオサウンドで働いていたときの現役の製品であって、
ほぼすべてといっていいくらいステレオサウンドの試聴室で実際にふれ、音を聴いている。

私の中には、それらがベースになって、そういったアナログプレーヤーに対する評価軸ができあがっている。

私より一世代若い人たちにとって、それらのアナログプレーヤーは、彼らがそれらの製品、
正確に書けば、それらの製品と同じような価格のオーディオ機器を購入できるようになったとき、
そういったアナログプレーヤーは現役の製品ではなくなっていた。
実物を見る機会も聴く機会も、ずっと少なかったはず。

彼らには彼らの評価軸がある。
その彼らの評価軸と私の評価軸は重なるところもあれば、そうでないところも当然ある。

私だったら、このアナログプレーヤーには、この値段は適正だなと思っていても、
彼らは、とても安い、いいモノを見つけた、という感覚なのだということを、
Twitter、facebookを通じて知る。

そんなときに、これが世代の違いなのかも、と思う。

Date: 11月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)

こんなことがあったな、と思い出すことがある。

ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。

あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。

シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。

この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。

私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。

これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。

それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。

やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。

だから、そのまま掲載した、と。

編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。

そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。