「言葉」にとらわれて(その16)
JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
タンノイのオートグラフといったスピーカーシステムが登場していた時代には、
まだエドガー・M・ヴィルチュアによるアクースティックサスペンション方式のスピーカーは生れてなかった。
低音再生のために必要なユニットは大口径のウーファーが必然という時代だった。
いまのように小口径ウーファーで、モノーラル時代では考えられなかったストロークを実現し、
振動板の小ささをそのストロークで補う(大出力パワーをそれだけ必要とする)ということはできなかった。
もしかするとそんなことを考えていた人はいたのかもしれない。
けれど、それだけのパワーをもつアンプが一般用としては存在していなかった。
低音再生は、難しい。
そのアプローチにしても、大口径ウーファーを使うのか、小口径のウーファーにするのか。
大口径派の言い分、小口径派の言い分、どちらにも一理あって、
どちらが完全に正しくて、他方が完全に間違っているわけではない。
どちらにも良さと悪さがあり、どちらも長所を認め、どちらの欠点をうまく使いこなしで補えるかによっても、
大口径なのか小口径なのか、その選択は変ってくる。
私は、というと、基本的には大口径派である。
それでも良質な低音再生ということでいえば、
20cm口径くらいまでの良質なウーファーが出す低音は魅力的であり、
こういう質感は大口径ウーファーでは正直難しいところがいまでもあるようには感じている。
大口径ウーファーには、大口径ウーファー特有の質感が、どこかの帯域に残っているようにも感じる。
f0を低くとったウーファーとf0は高めのウーファーとでは、
同じ38cm口径のウーファーであっても、特有の質感を感じさせる帯域に違いが出てくる。
この特有の質感は、いわゆるオーディオ的低音の質感、スピーカー的低音の質感ともいっていいだろう。
大口径否定派の人はおそらくひどく嫌うのであろう。
わからなくはない。けれど、この特有の質感を完全に消し去ることはできないまでも、
うまく鳴らすことで、そのスピーカーならではの演出にも変えていくことはできる。
私は思うのだ。
モノーラル時代の大型スピーカーシステムが、いわゆる折曲げホーンを好んで採用した理由のひとつには、
大口径ウーファーの、この特有の質感をそのまま出すことを避けたかったためではないだろうか、と。