Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その7)

練馬区役所での、五味先生が生前愛用されていたシステムでバックハウスの「最後の演奏会」を聴いてから、
当然自分のシステムでも聴いてみるわけである。

五味先生の愛用システムではLPで、自分のシステムではCDである。
出てきた音に、ある程度想像できていたこととはいえ、がっくりした。
バックハウスが、あのように鳴ってくれない。

音が悪い、ということではない。
バックハウスがバックハウスとして鳴っていない、ということころでがっくりしていた。
なにかが根本的に違う、なにか違うのだろうか……。
そのことをしばらく考え続けていた。

五味先生のシステムと私のシステムとでは、スピーカーシステムの大きさも形式も大きく異る。
アンプもトランジスター型だし、部屋の大きさも条件も異っている。
そういうことが影響しての音の違いではない。

そこをはっきりさせなければ、バックハウスの「最後の演奏会」が、
バックハウスの「最後の演奏会」にならない。それでは困る。

それは、結局言葉で表せば、骨格のしっかりした音かそうでないかの違いだと思う。

骨格のしっかりした音とは、バランスのとれた音とは違う。
ピラミッド状の音のバランスがとれているからといって、それが骨格のしっかりした音ではない。
また肉づきのよい音とも違う。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音としか、ほかにいいようがない。
うまく説明できないことにもどかしさを感じているけれど、
これはもう想像していただくしかない。

とはいえ、私自身も、骨格のしっかりした音、という表現そのものをずいぶん忘れていたことを、
バックハウスの「最後の演奏会」を練馬区役所で聴き、自分のところで聴き、
その違いをはっきりと自覚することで思い出したぐらいである。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音を聴くまで、
なかなか意識の上にのぼってこない性格のものかもしれない。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その14)

ステレオサウンドへの批判で比較的多く目にするのは、
測定をやっていないから、そこでの評価は信用できない、というものがある。

こういうものを目にするたび、いつの時代も、こういう人がいるのか……、と気持になってしまう。
勝手に想像するに、こういう人は、ステレオサウンドに答を要求しているのではないだろうか。

スピーカーシステムにアンプにしろ、CDプレーヤーにしろ、
何がイチバンいいのか、それを示せ、と。
ここまで極端でなくても、この価格帯でイチバンいいのはどれか、という答を、
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に要求している、としか思えない。

ステレオサウンドは一時期測定をよくやっていた。
やっていたから、答を誌面で提示していたわけではないし、
そのための測定ではなかった。

ステレオサウンドは、そんな答を提示するオーディオ雑誌ではない。
これはステレオサウンドを否定しているのではなく、だからこそステレオサウンドを昔私は熱心に読んでいた。

そのことは、おそらく当時ステレオサウンドに執筆されていた方たちの暗黙の了解でもあったのではないだろうか。

オーディオ評論家は、読者に答を提示する存在ではない。
私は、オーディオ評論家は、読者に問いかけをする存在だとする。
読者に、音楽をオーディオを介して聴くということについて、
もっと深く考えてほしい、感じてほしい、という気持からの問いかけであるからこそ、
評論なのだと思う。「論」がそこにはついていくる。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その6)

私が聴くことのできた2回目のとき、レコードをかけ装置を操作された方は、練馬区役所の担当者の方ではなく、
ステレオサウンドの編集部の人だった。

バックハウスの「最後の演奏会」のレコードについて、すこし語られた。
ベートーヴェンのピアノソナタ18番の演奏途中でバックハウスが心臓発作を起して、ということについてだった。
だからこの18番は途中までの演奏です、といわれ、レコードをかけC22のボリュウムを操作された。

当然鳴ってくるのはピアノソナタ18番だと思っていたら、
「最後の演奏会」は二日間の演奏会を収録したもので、LPもCDも2枚組。
1枚目が1969年6月26日の演奏であり、そのときの1曲目のベートーヴェンのピアノソナタ21番が鳴りだした。

あれっと思っていたけれど、かけ直されなかったから、
おそらくクラシックはあまり聴かれない編集者の方なんだな、と思いながら聴いていた。

この日はアンプの調子が万全ではなかった。
片チャンネルのゲインが安定せず、音量が変動することもあった。モノーラルになることもあった。

そんなことはあったけれど、鳴ってきたバックハウスの演奏は堂々としていた。
これみよがしなところはない。
それは岡先生が語られているように、この項の(その1)で引用したように、
演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようとすることから受ける堂々さではもちろんなく、
そういう姿勢のまったく見られない堂々としたベートーヴェンだった。

聴いていて思っていた、私はまだこんなふうにバックハウスを鳴らせていない、と。

練馬区役所でのオートグラフの設置は、私が聴いた時はコーナーに置かれていなかった。
いまはどうなのかわからない。そのままなのかもしれないし、
コーナーに設置されているかもしれない。

そのことひとつとっても、アンプの状態にしても、
レコードをかけられた人は(おそらく)クラシックには興味のない人──、
これだけの決していいとはいえない状況が重なっていても、
五味先生がバックハウスのベートーヴェンを、どう聴かれていたのか、
それを想像するだけの「音」で鳴っていたことは確かである。

この日、来られた人みながそう感じおもわれたのかどうかは私にはわからない。
それでも私にとっては、実感できるものがあった。
行ってよかった、とおもう、聴くことができてよかった、とおもっている。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: audio wednesday

第23回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、12月5日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その13)

私の同じ世代、私より上の世代は、しっかりとした橋が架けられていた。
だから、その橋がかけられているところまで行き、その橋を渡ろうとおもった。
そして渡ってきた。

そのころの橋からすれば、いまの橋は……、とどうしても感じてしまう。
私や私より上の世代が知っていた、しっかりした橋を知らない世代にとっては、
いまどきの橋でも渡ろう、という気になるのだろうか。

そして、そのころは本というものがあいだにはいらなければ、
書き手と読み手のあいだに橋を架けることは、まず無理だった。

いまは違う。インターネットという環境がここまで整っているから、
書き手から読み手への直接の橋を架けようとおもえば、その手段はいくつも用意されていて、
書き手さえその気になれば、そのときから橋を架け始められる。

こんなことを書くと、
われわれはプロの書き手だから、無料で読めるところ(原稿料が発生しないところ)には書かない、
こんなふうな意見が返ってきそうである。

書くことで糧を得ているのだから、いちおうは理解できる。
それでも、あえて言いたい。

あなたには書きたいことがないのか、と。
書きたいことが、書き手にはきっとあるはず。
そうでなければ、ただ雑誌に文章を書いて原稿料をもらっていたとしても、それは「書き手」といえるのだろうか。

書きたいことを、つねに書かせてもらえるわけではない。
世の中はそういうものである。

だけど、いまは書く場所を自分でつくれば、書きたいことを書いていける。
書きたいことをもたない人にとっては、
わざわざそういう場をつくってまで書く必要性は感じないだろう。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちの何人かは、
Twitter、facebookのアカウントをもち、書いている人がいるのは知っている。
でも、それは書きたいことを求めての行動とは感じられない。

書かない人は書かない。
書きたいことをもっていない人なんだろうから。

それよりも哀しいのは、書きたいことをもたないもそうだけれど、
書くべきことをもたないということである。

その人でなければ書けない、書くべきことをもっている人であれば、
きっと書く場をなんとかしてでも書いていくはず。

書くべきことをもたない書けない人は、橋を架けない人──。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その12)

自分の言葉を、自分が渡る橋だと思いなさい。しっかりとした橋でなければ、あなたは渡らないでしょうから。

ユダヤの格言、ということで、今朝、Twitterを眺めていたら、フォローしている方がリツイートされているのが、
目に留った。

この項の(その7)、別項の「オーディオにおけるジャーナリズム」の(その2)で、
編集という仕事を、橋を架けることだ、と書いた。

やっぱり、「橋」なんだ、と実感した。
編集という仕事に限らない。

不特定多数の人が読むメディア(本、インターネットを含めて)に、なにかを書いていくということは、
橋を架けていくことであり、
ユダヤの格言にあるとおり、しっかりした橋でなければ、自分自身が渡らないし、
書いた本人が渡らない橋を読んだ人が渡ってくれようはずがない。

Date: 11月 20th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その1)

音がなによりも最優先──,という時期があった。
音が良ければ、それもそうとうに良ければ、少しばかりデザインに不満を感じても、
音を優先していた。

たどかばボンジョルノのつくるアンプのパネルデザインは、
おそらくボンジョルノ自身の手によるものだろう。
GAS時代のアンプにしても、SUMoになってからのThe Power、The Goldにしても、
ユニークなデザインだと思うけれど、優れたデザインかと問われれば、答に困るところもある。
でも、ボンジョルノのつくるアンプの音に惚れているということもあるけれど、
なんとも愛矯のあるデザインといえるし、愛着が湧いてくるデザインでもある。

また古い例でもうしわけないが、DBシステムズのコントロールアンプ。
リアパネルはプリント基板にRCAジャックを直接とりつけたてそのまま使うなど、
音質とともにローコストであることも実現しようとしている、このアンプはフロントパネルは、
ひじょうに素っ気ないものである。高級感というものはどこにもない。

でもDBシステムズのDB1 + DB2は、嫌いではない。
どちらかといえば好きなアンプの範疇にはいってくる。
このアンプが19インチの横幅のコントロールアンプだったら、また違ってくるのだが、
なにしろDB1はのサイズは小さい。ここまで割り切ってつくられたアンプだと、これもまた愛着が湧く。

コントロールアンプは、アナログプレーヤーとともに、もっとも直接手でふれることの多いオーディオ機器。
パワーアンプのように目の付かないところに設置することは、まずできない。
アナログプレーヤーとともに目のつくところに置く。

それだけにほんとうに気に入ったものを使いたい。
そう思っていても、意外に許容範囲があって、
これだったら、まぁ許せるかな、というコントロールアンプもいくつか(というよりいくつも)ある。

これは許せない、というコントロールアンプもあることにはあるのだが、
それはアナログプレーヤーにおける「これは許せない」よりも、ずっとゆるいものでもある。

Date: 11月 20th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その4)

優秀なパワーアンプとは、
スピーカーシステムを鳴らしきれるだけのパワー(単に出力という意味だけでなくパフォーマンスも含めて)をもつ、
ということになるのだろう。

どんなスピーカーをであれ、鳴らしきれるパワーアンプもあることだろう、
一方で、その範囲は狭まるものの、ある種のスピーカーを鳴らしきることのできるパワーアンプもある、といえる。
この場合、前者のパワーアンプの方がより優秀ということに一般的になるけれど、
オーディオを仕事としていなければ、つまりいくつものスピーカーを鳴らすということを目的としていなければ、
自分がそのとき気に入っているスピーカーを鳴らしきってくれれば、充分でありそれ以上を求めるかどうかは、
その人次第でもある。

鳴らしきれるスピーカーの範囲が広かろうと、ある程度限られていようと、
鳴らしきることのできるパワーアンプからすると、決して優秀とは呼びにくいパワーアンプがあることも事実である。
けれど、そういうパワーアンプのすべてが、いい音がしないわけでは、決してない。

たとえばウェスターン・エレクトリックの300Bのシングルアンプ。
このアンプを優秀なアンプとは呼びにくい。

もちろん300Bのシングルアンプといってもピンからキリまであるのだから、
あくまでもここでいう300Bのシングルアンプとは、私にとっては伊藤先生の300Bシングルアンプであり、
すくなくとも同等のクォリティをもった300Bのシングルアンプということに限らせてもらう。

出力が小さいからそれに見合うだけの高能率のスピーカーと組み合わせれば……、というとこになるだろうが、
それでも感覚的には、スピーカーを鳴らしきる、というイメージにもったことはない。
鳴らしきっている、というより、うまく鳴らしている、といった感じなのである。

300Bのシングルアンプは、一方の極にある。
もう一方の極には、いかなるスピーカーであろうと鳴らしきるだけの優秀なパワーアンプ。

パワーアンプという括りではいっしょにできないほど、このふたつの極のアンプの性格は違う。

マッキントッシュのMC275は登場したときは、優秀なパワーアンプの極に属していた、ともいえる。
けれどMC275の登場から50年以上が経ち、
いまでは300Bのシングルアンプの極にぐっと近い位置にいるといえる。

Date: 11月 19th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その3)

マイケルソン&オースチンのTVA1が現代のMC275と、当時いわれたのは、
なにもKT88のプッシュプルで出力がほぼ同じということだけでなく、
シャーシーがどちらもクロームメッキ処理されているということもあった。

KT88とクロームメッキ、ということでいえば、1983年に登場したフランスのジャディスのJA80もまた、
KT88にクロームメッキ・シャーシーの組合せだった。
JA80は、けれどAクラス動作(MC275、TVA1はABクラス)で80Wの出力を得るために、
KT88を4本使用したパラレルプッシュプル。

いま、これら3機種を集めて聴き較べをしてみたら、どういう結果になるんだろうか、と関心がある。
どれも、個性の強い(というより濃い)音を特色としている。
そういう音をベースにしていても、意外にも一色に塗ってしまう音とは違う。

しなやかさをきちんと持っている。
コントロールアンプを替えれば、カートリッジやCDプレーヤーを替えたりすれば、
その音色の違いを、それぞれのアンプ固有の音色の中に反映させる、という意味でのフレキシビリティの高さがある。

意外に思われるかもしれないけれど、MC275もフレキシビリティの高いアンプである。
これは以前書いていることだが、ステレオサウンドの試聴室で、MC275を鳴らしたことがある。

鳴らしたスピーカーシステムはBOSEの901に、アポジーのCaliper Signature、
コントロールアンプはあえて使わずにCDプレーヤーを直接接続。
音量調整はMC275の入力レベルコントロールで行った。

901とCaliper Signatureは、ずいぶんと異る面をいくつも持つスピーカーシステムで、
およそ共通するところはないように見える、このふたつのスピーカーをMC275を実にうまく鳴らしてくれた。

Caliper Signatureはインピーダンスが低いため、
トランジスターアンプでは大型の電源トランスと大容量のコンデンサーによるしっかりと余裕のある電源、
それに低インピーダンス負荷においても十分な電流供給能力をもつ出力段、
そういったことが要求されるわけで、必然的に大型パワーアンプと組み合わされることが多かった。

そういったアンプからみれば、MC275の出力は少ないし、規模も小さい。
リボン型の低インピーダンスのスピーカーシステムを鳴らしきるアンプとは思いにくい。

その印象はそう間違ってはいない。
Caliper Signatureに合うパワーアンプが鳴らしきる、という印象の音なのに対し、
MC275での音には、鳴らしきっている、という印象はない。
けれど、うまく鳴らしてくれる。
鳴らしきるパワーアンプでは聴けない表情をCaliper Signatureから抽き出してくれた。

Date: 11月 19th, 2012
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その1)

クラシックのコンサートホール、ジャズのライヴハウスに足をはこんで聴くものと、
自分の部屋、オーディオ仲間の部屋などでスピーカーから鳴ってくるものは、
どちらも音である、にもかかわらず、このふたつの音は音として同じととらえていいものだろうか、
そして音楽を構成する音として考えたときに、生の音と再生音の違いがあるのかないのか、
私はあると考えているし、そうだとしたら、どんな違いが、このふたつの音にはあるのたろうか。

このブログを書き始めたころ、「再生音は……」というタイトルで、3行だけの短い文を書いた。

「生の音は(原音)は存在、再生音は現象」
そう書いている。

じつはこのときは、ほとんど直感だけで、これを書いていた。
書いてしまったあとに、これまでにあれこれと書き連ねていくうちに、
「生の音(原音)存在、再生音は現象」を思い返すことが幾度となくあり、
次第に重みが増してきて、考えるようになってきている。

だから、ここから、タイトルを少しだけ変えて、「続・再生音は……」とした。

こうやってタイトルを改めて書き始めることにしたのは、もうひとつわけがある。

先日、「使いこなしのこと(まぜ迷うのか)」を書いた。
これに対して、facebookでコメントをいただいた。
「よい音は一つでない。だから迷うのです。」と。

経験を多く摘んだ人ほど、このコメントに首肯かれることだろう。
志向(嗜好)する音とは違えども、いい音だな、とおもえる音はたしかに世の中にはある。

「よい音は一つでない」に反論したり、否定しようという気はまったくない。

けれど、それでもあえていえば(そして、先に結論を書いてしまうことになるが)、
現象としては、いい音はひとつではない、ことになっても、
思想的にはいい音はひとつである。

いまそうおもうようになった、おそらくそうおもいつづけることだろう。

Date: 11月 18th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その2)

瀬川先生は、JBL4345とジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットのあいだに、
どんなスピーカーシステムを鳴らされていたであろうか、を考えるにあたって、いくつかの要素がある。

その中でまず浮んでくるのは、スイングジャーナルの別冊でつくられた組合せのことだ。
このブログの最初のころに書いているように、そこで瀬川先生はJBLのスピーカーではなく、
アルテックの604の最新型604-8Hをおさめた620Bを指定され、
アンプにはアキュフェーズのC240とマイケルソン&オースチンのTVA1。

この組合せは、
瀬川先生の耳の底に焼きついている音を鳴らした、
604Eをおさめた621AとマッキントッシュのC22、MC275と組合せを思い出させる。

TVA1はKT88のプッシュプル、MC275もKT88のプッシュプルで、
出力はTVA1が70W+70W、MC275が75W+75Wということもあって、
もちろんそれだけでなく音の面でも、MC275の現代版としてとらえられるところがあった。
そういうパワーアンプである。

マイケルソン&オースチンからコントロールアンプもややおくれて登場したけれど、
それほど話題にはならなかった。
TVA1の出来に比較すると、コントロールアンプの出来はそういう程度であったからだ。

まだTVA1しか登場していなかったころ、瀬川先生はアキュフェーズのC240と組み合わせされている。
そのことはステレオサウンド 52号に書かれている。
     *
 TVA1は、プリアンプに最初なにげなく、アキュフェーズのC240を組合わせた。しかしあとからいろいろと試みるかぎり、結局わたくしは知らず知らずのうちに、ほとんど最良の組合せを作っていたらしい。あとでレビンソンその他のプリとの組合せをいくつか試みたにもかかわらず、右に書いたTVA1の良さは、C240が最もよく生かした。というよりもその音の半分はC240の良さでもあったのだろう。例えばLNPではもう少し潤いが減って硬質の音に鳴ることからもそれはいえる。が、そういう違いをかなりはっきりと聴かせるということから、TVA1が、十分にコクのある音を聴かせながらもプリアンプの音色のちがいを素直に反映させるアンプであることもわかる
     *
TVA1の音の個性は、どちらかといえば濃い、といえる。MC275もそういうところをもつ。
それでいて両者とも、意外にもフレキシビリティの高さももっている。

Date: 11月 18th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その5)

2009年1月から続いていてる「五味康祐氏のオーディオで聴く名盤レコードコンサート」。

今年も3回催され、来年もまた開催される。
毎回抽選になるほど申込まれる方が、いまも多い、ときいている。

私は初回に応募したけれど無理で、2回目に行くことができた。
ほぼまる4年開催されているから、私が聴いたときの音といま鳴っている音は変っているところもあるはず。
いいコンディションで鳴っている、ともきいている。

また機会があれば行きたいと思うけれど、いまだ行っていない方も少なくないようだから、
一度行った者がふたたび行くのはもう少し先でもいい、と思っている。

練馬区役所の担当の方が丁寧に、五味先生のオーディオ機器を取り扱われている、とのこと。
そういう人がいてくれるから、単なる催し物、試聴会の域にとどまることなく、
音もよくなってきているのだろう。いいことだと思う。

でも、一部の方は誤解されているようだが、
練馬区役所の一室で鳴っているのは、五味先生が使われてきたオーディオ機器が鳴っているのであり、
その音が良くなってきていても、それは五味先生の音が、そこで再現されているわけではない。

ただ単にタンノイのオートグラフ、マッキントッシュのC22、MC275、EMT930stをバラバラに集めてきて、
それらを結線して音を出すことに比べれば、ずっと五味先生の音に近い、とは言えても、
あくまでも片鱗を感じさせる、であり、4年間鳴らされてきたことによって音が良くなってきているとすれば、
それは担当された方の人となりが音となってあらわれてきたから、と受けとめた方がいい。

それこそが、音は人なり、ではないだろうか。

話がそれてしまったが、
私が行った2回目のとき、最初にかけられたレコードが、このバックハウスの「最後の演奏会」だった。

Date: 11月 17th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(なぜ迷うのか・その1)

なぜ迷うのか。

いくつか理由は考えられるなかで、もっとも大きいのは聴き手に感情があり、
その感情が知覚(オーディオにおいては聴覚)に影響を与えるから、ではないだろうか。

この感情が聴覚を曖昧なものにするから、
オーディオ雑誌の試聴テストは信用できない、
試聴テストはすべてブラインドテストにすべき、と主張する人がいるわけだが、
私にいわせれば感情がいっさい影響しない試聴テストは、たとえブラインドテストであっても無理なことであり、
それよりも、なぜ、知覚は感情の影響を受けるのであろうか、ということを考えると、
結局、それは迷うため、である。

つまり迷うことが求められているからなのではないだろうか。

オーディオマニアであるわれわれが対峙するものは、ひじょうに大きい。
どれだけ大きいのかも、ときにはわからなくなることすらある。

感情によって知覚(聴覚)が影響を受けるということは、
対峙している、この大きなものをひとつのところからではなく、
いくつものところからみて(聴いて)、その全体像を把握する、ということなのかもしれない。

だから冷静に迷うことが、じつはオーディオには大切なこととして必要なのだと、そうおもえるようになってきた。