オーディオと「ネットワーク」(編集について・その13)
私の同じ世代、私より上の世代は、しっかりとした橋が架けられていた。
だから、その橋がかけられているところまで行き、その橋を渡ろうとおもった。
そして渡ってきた。
そのころの橋からすれば、いまの橋は……、とどうしても感じてしまう。
私や私より上の世代が知っていた、しっかりした橋を知らない世代にとっては、
いまどきの橋でも渡ろう、という気になるのだろうか。
そして、そのころは本というものがあいだにはいらなければ、
書き手と読み手のあいだに橋を架けることは、まず無理だった。
いまは違う。インターネットという環境がここまで整っているから、
書き手から読み手への直接の橋を架けようとおもえば、その手段はいくつも用意されていて、
書き手さえその気になれば、そのときから橋を架け始められる。
こんなことを書くと、
われわれはプロの書き手だから、無料で読めるところ(原稿料が発生しないところ)には書かない、
こんなふうな意見が返ってきそうである。
書くことで糧を得ているのだから、いちおうは理解できる。
それでも、あえて言いたい。
あなたには書きたいことがないのか、と。
書きたいことが、書き手にはきっとあるはず。
そうでなければ、ただ雑誌に文章を書いて原稿料をもらっていたとしても、それは「書き手」といえるのだろうか。
書きたいことを、つねに書かせてもらえるわけではない。
世の中はそういうものである。
だけど、いまは書く場所を自分でつくれば、書きたいことを書いていける。
書きたいことをもたない人にとっては、
わざわざそういう場をつくってまで書く必要性は感じないだろう。
オーディオ評論家と呼ばれている人たちの何人かは、
Twitter、facebookのアカウントをもち、書いている人がいるのは知っている。
でも、それは書きたいことを求めての行動とは感じられない。
書かない人は書かない。
書きたいことをもっていない人なんだろうから。
それよりも哀しいのは、書きたいことをもたないもそうだけれど、
書くべきことをもたないということである。
その人でなければ書けない、書くべきことをもっている人であれば、
きっと書く場をなんとかしてでも書いていくはず。
書くべきことをもたない書けない人は、橋を架けない人──。