Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」
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オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

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