Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」
Tags:

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]