バックハウス「最後の演奏会」(その6)
私が聴くことのできた2回目のとき、レコードをかけ装置を操作された方は、練馬区役所の担当者の方ではなく、
ステレオサウンドの編集部の人だった。
バックハウスの「最後の演奏会」のレコードについて、すこし語られた。
ベートーヴェンのピアノソナタ18番の演奏途中でバックハウスが心臓発作を起して、ということについてだった。
だからこの18番は途中までの演奏です、といわれ、レコードをかけC22のボリュウムを操作された。
当然鳴ってくるのはピアノソナタ18番だと思っていたら、
「最後の演奏会」は二日間の演奏会を収録したもので、LPもCDも2枚組。
1枚目が1969年6月26日の演奏であり、そのときの1曲目のベートーヴェンのピアノソナタ21番が鳴りだした。
あれっと思っていたけれど、かけ直されなかったから、
おそらくクラシックはあまり聴かれない編集者の方なんだな、と思いながら聴いていた。
この日はアンプの調子が万全ではなかった。
片チャンネルのゲインが安定せず、音量が変動することもあった。モノーラルになることもあった。
そんなことはあったけれど、鳴ってきたバックハウスの演奏は堂々としていた。
これみよがしなところはない。
それは岡先生が語られているように、この項の(その1)で引用したように、
演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようとすることから受ける堂々さではもちろんなく、
そういう姿勢のまったく見られない堂々としたベートーヴェンだった。
聴いていて思っていた、私はまだこんなふうにバックハウスを鳴らせていない、と。
練馬区役所でのオートグラフの設置は、私が聴いた時はコーナーに置かれていなかった。
いまはどうなのかわからない。そのままなのかもしれないし、
コーナーに設置されているかもしれない。
そのことひとつとっても、アンプの状態にしても、
レコードをかけられた人は(おそらく)クラシックには興味のない人──、
これだけの決していいとはいえない状況が重なっていても、
五味先生がバックハウスのベートーヴェンを、どう聴かれていたのか、
それを想像するだけの「音」で鳴っていたことは確かである。
この日、来られた人みながそう感じおもわれたのかどうかは私にはわからない。
それでも私にとっては、実感できるものがあった。
行ってよかった、とおもう、聴くことができてよかった、とおもっている。