Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その3)

Edのことは、別項ですでに書いている。
他の人が作ったアンプなら、そのアンプの出来が……、といえても、
伊藤先生が作られたアンプそのものを聴いているわけだから、
Edという真空管のもつ特質が、どういうものであるのかは掴めたといえよう。

その後で聴いた300Bのシングルアンプの音には、心底びっくりした。
こういう体験をしてしまうと、それまで古くさい形に思えていた300Bが、
実にいい形をしている、というふうに思えてくる。

誰がなんといおうと、真空管は見た目通りの音がしてくる。
Edからは300Bの音はしてこないし、300BからEdの音は鳴ってこない。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している。

ということはEdよりも、他のどんな真空管よりも300Bの形は、まさしく「美」、
つまり形のよい大きな羊そのものに見えてくる。

300Bこそ、美という漢字を真空管という造形で表現した唯一のモノ。
いまはそうおもっている。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その2)

真空管アンプを作る、Edのアンプを作る──、
そう決めていた私は、ステレオサウンドで働くようになってから、
無線と実験に発表された記事から回路図とEdの規格表、アンプの部品表、シャーシーの図面をコピーして、
それぞれを切り貼りしてレイアウトし、もう一度コピーをとったものを、
机の天板とガラス板のあいだに挿んでいた。

伊藤先生は、その後サウンドボーイにて、Edのシングルアンプを発表される。
無線と実験の記事はモノクロだった。
サウンドボーイの記事はカラーだった。

Edの美しさに、ますます惚れ込んでいた。

ただ気になることもいわれていた。
伊藤先生の一番弟子で、当時サウンドボーイの編集長だったOさんから、「Edは音がねぇ……」と。

Oさんの言葉を信じていなかったわけではないけれど、Oさんは300Bの人だった。
だから話半分できいていた。

Edのシングルアンプは、伊藤先生の仕事場で聴くことができた。
そこで伊藤先生の口から、Oさんとほぼ同じことを聞いた。
たしかにその通りだった。

そして伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴く。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その1)

「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオは、
真空管への興味も同時に始まった。

最初に憶えた真空管はKT88。
五味先生愛用のマッキントッシュMC275の出力管だからだ。
その次に憶えたのはF2a-11。
ただしこれに関しては型番だけであり、いったいどんな真空管なのか、
1976年当時、私は知ることができなかった。

それからいろいろな真空管の型番と形と特徴を憶えていく。
その過程で、まさに一目惚れした真空管はシーメンスの直熱三極管Edである。

無線と実験に伊藤先生が発表されたトランス結合・固定バイアスのプッシュプルアンプで、
Edの存在を知り、こんなに美しい真空管は他にない、と思ったほどである。

Edの存在を知る前に、アメリカに300Bという真空管があるのは知っていた。
熊本では、当時300Bの実物を見ることはできなかった。
写真ではよく見ていた。

アメリカの直熱三極管300Bとドイツの直熱三極管Ed。
見た目だけで判断すれば、圧倒的にEdの方が、いい音がしそうに思えた。

それにST管と呼ばれる真空管の形状が、
懐古趣味的真空管の形のようにも思えて、Edの形はそういう要素が感じられない、ということも、
私には大きかった。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(続・実感しているのは……)

自分が属している業界の色に染まってしまったのかどうか、ということは、
なかなか本人にはわからない。
誰かに指摘されたとしても、本人は納得がいかないのではなかろうか。

結局のところ、自分で気づくしかない。
ではどうすれば、気づくのか。

各軸なことは、いまのところなにひとついえない。
ただいえることが、ひとつある。

その人は毎年11月には瀬川先生の墓参に行く。
オーディオ業界に長くいる人であり、きいたところによると身内の墓参にはあまり行かない人らしい。
そういう人が、毎年11月に瀬川先生の墓参には行くという。

墓の前に立てば自然と手を合せて目をつむる。
その時の気持は、その人だけのものである。

なぜ、その人は行くのか。
理由は知らない。あえて聞こうとも思っていない。

私が、だから勝手に思うのは、
瀬川先生の墓参に行くという行為は、自分で気づく行為のはずだ、ということである。

Date: 9月 10th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(その13)

菅野先生の「レコード演奏家」論がある。
私は「レコード演奏家」論に賛同しているが、
すべてのオーディオマニアがそうでないことは知っている。

ただ「レコード演奏家」論に異をとなえる人の中には、
誤解以外のなにものではないだろう、といいたくなることもある。

菅野先生の「レコード演奏家」論は、ステレオサウンドから出ている。
audio sharinngでも、2002年版を公開している。

私が公開しているところに以前リンクがはられていた。
そこで「レコード演奏家」論がどう語られているのか、見てみた。

そこには料理人が差し出した料理に、味見もせずに塩コショウをふりかけるのと同じ行為だ、
音楽の聴き手として許せない行為だ、とあった。

どこをどう読めば、そう受けとれるのか、逆に訊ねたくなったくらいである。
そんな読み方で「レコード演奏家」論を誤解している人がいる。

賛同していない人のすべてがこういう人ではない。
人それぞれであって、「レコード演奏家」論を認めていない人もいる。

その一方で「レコード演奏家」論に賛同しながらも、曲解されているのでは? と思える人もいるように感じている。

Date: 9月 9th, 2014
Cate: Technics

シマノとテクニクス

テクニクスのことを集中的に書いていて、
テクニクスとシマノには共通するところがあることに気がつく。

ふたつの会社の体質が似ている(偶然にもどちらも関西の会社)、というよりも、
ふたつの会社に対するオーディオマニア、自転車マニアの態度に共通するところがある。

テクニクスがなければ生れなかった技術がある。ひとつだけではない。
テクニクスがなくても生れてきたであろう技術にしても、
テクニクスがあったからこそ登場する時期が早くなった、といえる。

シマノがなければ生れなかった技術がある。
シマノの存在があるからこそ、カンパニョーロのコンポーネントも良くなっている。

テクニクスにもシマノにも、アンチと呼べる人たちがいる。
アンチまではいかなくとも、どちらかといえは否定的な立場の人が少なくない。
つまりシマノもテクニクスも、なぜか嫌われることがある。

私は自転車に興味をもつようになって、
シマノが日本のメーカーであることを嬉しく思っている。

私がテクニクスというブランド(テクニクスだけに限らない、日本のオーディオ)をふり返れるようになったのは、
シマノのというブランドがあったからだ、ともいえる。

Date: 9月 8th, 2014
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その6)

高校生の時から星新一の小説にはまった。
いわゆるショートショートである。
数年間はまっていた。

書店に行き、星新一の文庫本を見つけたら即買って帰宅しては一気に読んでいた。
ほとんどすべての星新一の作品は読んでいる。
何本のショートショートを読んだのだろうか。

星新一のショートショートの中で「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に関係して思い出す一篇がある。
こんな話だった。

ある男のもとに天使のような者がやってくる。
願いをかなえる、という。
ただしライバルには、その願いの二倍のものを与える、という条件つきで。

男はいう、「○○のところへ行ってくれ」と。
○○とは男がライバルと思っている存在である。

天使のような者は、だから○○のところへ向う。
男は、自分のところへ大きな幸運がやってくるものだと期待して待っていた。
けれど、そんなものはやって来なかった。

男は○○をライバルだと思っていた。
○○は男をライバルだとは思っていなかった。

そんなショートショートだった。
読後、ライバル同士といわれていても、実のところはそういうものかもしれない、と思った。

だが岩崎千明と瀬川冬樹は、そうではなかった。
ふたりは、互いにもっとも手強いライバルだと意識し合っていた。

Date: 9月 8th, 2014
Cate: Technics, 「ネットワーク」
1 msg

オーディオと「ネットワーク」(テクニクスの場合)

9月3日に、テクニクス・ブランドの復活が正式に発表され、新製品も登場した。
その時から、毎日のようにテクニクスの新製品に対する書き込みを目にする。
その大半がfacebookで、なのだが、他のところを検索しては見てみた。

発表された写真を見た時から、
こんな意見が出るだろうな、というのが多い。
私が目にしたものの大半は、否定的なことばかりである。

これは私のfacebookでのつながりゆえなのかもしれないが、
それにしても……、と少々思う。

あれこれいいたくなる気持は私にだってある。
否定的なことを書き始めれば、どれだけでも書ける。
それでも、いまのところは書かないでいる。

まだ実物を目にしていないし、音を聴いていないからだ。
こう書くと、写真をみればおおよその見当はつくよ、と返ってきそうだ。

それでも、音を聴いていないのだから、と私は思っている。

松下電器産業の創業者の松下幸之助氏が、かつて言っていた、らしい。
「会議で七割が賛成する意見はもう古い。七割の人に反対されるくらいの意見がちょうどよい」と。

会議とインターネットでの意見の交換を完全に同一視できないのはわかっていても、
インターネットというネットワークは、ひとつの会議とみなせる。
ならば、それこそちょうどいいのかもしれない。

私が目にしたテクニクスの復活に関しての意見・感想は七割くらいの人が否定的だったからだ。
ちょうどよいからといって成功する保証はどこにもないけれど、
音を聴くまで、もうすこし待ちたい。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その24)

この項の(その1)を書いたのは、
それほど深い意図があってではなく、とにかくタンノイ・コーネッタについて何かを書きたかったから、であり、
コーネッタの最終的な組合せをイメージしてのタイトルとして「程々の音」をつけた。

(その1)を書いたのが2013年12月、半年以上かけて書いているわけだが、
書いている途中で、ワーズワースの有名な詩句 “plain living, high thinking” を何度か思い出していた。

“plain living, high thinking” どう訳すか。
Googleで検索すれば、いくつかの訳が見つかる。
plain livingをシンプルな生活と訳してあるのは、ちょっとひっかかる。

程々の音を直訳的な英語にすれば、moderate soundになるが、
私のなかでは(中途半端な英語だが) “plain living, high thinking” なsound ということに落ち着く。

これではあまりにも中途半端すぎるから、もう少し考えれば、
“plain sounding, high thinking” というところか。
決して “high sounding, high thinking” ではない。

“high sounding, high thinking” があり得ない、といっているのではない。もちろん、ある。
“high sounding, low thinking” があることをいいたいのだ。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その2)

一緒に音を聴いていて、後からであっても、どういう音の聴き方をしているのか聞いてくる人もいれば、
まったくそんなことに関心のない人もいる。

オーディオは趣味だから、好きなように聴いて好きな音を出すものでしょう、という人を知っている。
別にひとりではない。
そういう人が多数なのかどうなのかははっきりとしないけれど、私の感覚では意外に多い、と受けとめている。

オーディオが趣味であっても、そういうものではない、と私は考えているわけだが、
このことは音の聴き方に関係してくることだし、
その結果がインターネットの普及とともに目にすることが増えてきている。

好きなように聴く──、それがその人のオーディオの楽しみ方、やり方、
さらには音楽の聴き方であるのなら、第三者である私がとやかくいうことではないのはわかっている。
それでも、あえてこんなことを書いているのは、
好きなように聴いていては、どこまでいっても、その人にいえることは好きか嫌いかの範疇にとどまる。

このことに気づいている人に対しては、私は何もいわない。
そうであれば、その人の楽しみ方であるのだから。

だが、中には好きなように聴いてきているだけなのに、良し悪しについて語る人が少なくない。
これは別項「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」で、これから書いていくことと関係しているが、
好きなように聴いていて、良し悪しは語れない、ということをはっきりとさせておきたい。

好きな音は、その人にとって良い、嫌いな音が悪い──、
これはあくまでもその人の中にあってのみかろうじて成り立つことであって、
ひとたび言葉にして誰かに語った時点で、
どんなに言葉をつらねても、好き嫌いはどこまでいっても好き嫌いでしかなく、
決して良し悪しにはならない。

にも関わらず、あれは良いとか、悪いとか、といい、
しかもそういう人に限って、誰かのことばを聞こうともしない。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その5)

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代よりも、
岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代が長くなった。
かなり長くなった。

私がオーディオマニアとして生きてきた時代は、ほぼ岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代である。
当り前のことだが、これからも「いない時代」は続いていく。

岩崎先生は1977年に48歳で、瀬川先生は1981年に46歳で亡くなられた。
それまでふたりの書かれたものを熱心に読んできた人たちは、
とっくにふたりの享年よりも長く生きている。

私だってそうである。ふたりを年齢だけは追い越している。
あと数年したら五味先生に対しても、そうなる。

私は、このことを意識している。
そうやってオーディオをやってきているのは、私だけでないことは知っている。
名前は出さないけれど、あの人もあの人も、とそう多くはないけれど数人の人の顔が浮ぶ。

もうそういう人は少数なのかもしれない、とつくづく感じさせるのがSNSだ。
特にfacebookにおいて、強く感じている。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その1)

一緒に音を聴いたことのある人から、ときどき受ける質問が、
「どこに注意して音を聴いているのか」である。
いわゆる音のチェックポイントはどこなのか、についての質問だ。

こういうところに注意して聴いている、と答えられるようでいて、
実はそうでない。

自分の愛聴盤を持ってきての試聴でも、
いわゆる聴きどころを決めているわけではない。
まして、その場で聴かされたディスクでは、聴きどころなど最初からない。

意識せずとも聴感上のS/N比、音のひろがり方はチェックポイントといえばそうだが、
これに関しては、いまはほとんどの人がそうしているはず。

その他には、というと、五年以上前に書いたことを、もう一度書くことになる。
井上卓也氏のこと(その11)」を読んでいただければいいことだが、
リンクをはったところで読んでくれる人はそう多くないことはわかっているので、
もう一度書いておこう。

ここ(チェックポイント)を聴いてやろう、という意気込みをまず捨てることである。
前のめりに構えてしまうことが、音を聴くとき、いちばんやっかいである。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(その7)

(その6)で書いた「スケール」とは、どういうことなのか。

吉田秀和氏がカルロ・マリア・ジュリーニのことを、
大指揮者ではないが名指揮者であった、と書かれたのか語られたのかを読んだ記憶がある。

なるほど、と思った。
カルロ・マリア・ジュリーニは素晴らしい指揮者であり、個人的に好きな指揮者である。
シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲第九番、ベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンの交響曲第九番、
愛聴盤である。
なぜかベートーヴェンの第九はあまり評価は高くないように感じてしまうが、そんなことはない。

他にも挙げたいディスクはいくつもあるが、話を先に進めるために控えておく。

吉田秀和氏のいわれるように、ジュリーニは名指揮者である、
けれど大指揮者とはすんなりいえるかというと、ジュリーニ好きの私でも、少し考えてしまう。

では大指揮者とすんなりいえるのは誰か。
まずフルトヴェングラーがいて、クナッパーツブッシュが、私の場合、すぐに浮ぶ。
他にも何人か挙げられる。

そういう大指揮者と名指揮者を、私のなかで分けてしまうのはなんなのか。

先頃亡くなったフランス・ブリュッヘンも好きな指揮者のひとりであり、
彼もまた大指揮者ではないが名指揮者ということになる。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: audio wednesday

第45回audio sharing例会のお知らせ

10月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

テーマについて、インターナショナルオーディオショウにする予定です。
今年のインターナショナルオーディオショウは9月23、24、25日ですから、
その感想について、あれこれ語ろうと思っています。

いまのところインターナショナルオーディオショウに行く予定ですが、
何かの都合で行けなかった場合には、当然ですが、他のテーマに変更します。
その際はまたお知らせします。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: 素材

素材考(カートリッジのダンパー・余談)

オーディオでは、慎重のうえにも慎重にやっていかなければならないことがある一方で、
慎重になりすぎてしまうと、逆にダメなこともある。

そのひとつがカートリッジのレコード盤面への降し方である。
これについては、「私にとってアナログディスク再生とは(補足)」で、一度書いている。

三年前のことだし、読んでいない人がいたこともつい最近知ったので、
あえてここでもう一度書いておく。

レコードとカートリッジを大事にするあまり、
ゆっくりとカートリッジをレコード盤面に降ろす人がいる。
けれど、これがレコードを傷つけることになる。

カートリッジは針先が、あとすこしで盤面というところまでもってきたら、
ヘッドウェルの指かけから指を離して、あとは自然落下にまかせるものである。

溝に針先がリードインするまで指を離さないということが、
どういうことになるのか一度想像してみてほしい。

指かけから最後まで指を離さずに降ろす人は、ほとんどがリードインの音を聴いていないことが多い。
針先がリードインしてからボリュウムをあげるわけで、これはけっこうなことなのだが、
一度はリードインの音を聴いて、自分の操作がどのレベルにあるのかを確認した方がいい。