Date: 4月 12th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その7)

ステレオサウンド 51号の五味先生の文章を読んで、すぐに「正しい音」と結びついたわけではなかった。
それなりの時間と、いくつかのことが私には必要だった。

川崎先生の文章がなかったら、
五味先生の51号での文章が「正しい音」と結びつくことはなかったかもしれない。

「正しい音とはなにか?」を思考はしていたであろうが、
川崎先生と出逢ってなければ、手前の段階で留まっていたような気がしてならない。

「正しい音」は、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしたところには存在しない。
絶対に存在しない、といえる。

「正しいデザイン」も、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしては存在しない。

「正しい音とはなにか?」を思考することで、
私は川崎先生のデザインに惹かれてきたのか、その理由がはっきりした。
それは「正しいデザイン」を、そのデザインを手にする者に問いかけているからである。
私は、そう解釈している。

だからこそ惹かれてきたといえるし、川崎先生のデザインによって引かれて(牽かれて)きたのかもしれない。

Date: 4月 11th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その6)

「正しい音」、「正しいデザイン」。
つねに私の頭に浮んでくるのは、五味先生の、ステレオサウンド 51号の文章である。
これは別項「戻っていく感覚」でも引用している。

16歳のときに読んでいる。
「戻っていく感覚」の終りにも書いた──、
《読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。》
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
マーラーの「二流の音楽家は、芸術性と倫理性をあいまいにしたがる」、
この言葉を、五味先生は「イタリア歌劇から」(「人間の死にざま」所収)の冒頭でもかりられている。

ただしすこし違っている。
「イタリア歌劇から」では、
「性格の弱い男は、芸術的と道徳的の区別を曖昧にしたがる。」となっている。

Date: 4月 10th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その5)

読みはじめのころは、「美しいデザイン」「優れたデザイン」のことを考えていたけれど、
いつのころからか、「正しいデザイン」はあるのか、
あるとすればそれはどういうモノなのか、ということを考えはじめるようになってきた。

この項のカテゴリーは「正しいもの」であり、
正しいもの」というタイトルで書いているところでもある。

この「正しい音とはなにか?」も、
そこで書いていこうと最初は考えていたけれど、
そうなると「正しい音」について書いていくのはずいぶん先のことになりそうなので、
新たにタイトルをつけて書いている。

「正しいもの」の(その1)の書き出しも、
正しいデザイン、である。
(その1)では、フルトヴェングラーの言葉を引用した。

引用したフルトヴェングラーの言葉の真意を完全に理解しているとはいわない。
理解しているのであれば、「正しいもの」はとっくに書き終っているはずである。
まだ書いている途中であるということは、まだまだということでもある。

それでも、「正しいデザイン」について考えることによって、
私にとって「正しい音」は次の段階にうつったといえる。

そして「正しいデザイン」、「正しい音」、
このふたつについて考えることで、
なぜ川崎先生の文章を、五味先生の文章を読むのと同じように熱心に読んだのかの理由もはっきりしてきた。

Date: 4月 10th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その4)

まだ10代だったころ、
自分のシステムのどこかを変え、音を聴く。
音の違いはわかる。

変える前と変えた後、どちらがいい音なのか、すぐに判断つくこともあれば、
どちらがいい音なのか、と迷うこともあった。

迷った時に考えた。
どういう判断をすればいいのだろうか、と。

そのとき考え出したのは、どちらがより違いを出すか、ということだった。
たとえば同じレコード(時代的にLPのことになる)でも、国内盤と輸入盤とがある場合、
その違いを、より自然に、はっきりと出してくれる音が、
少なくともそれまでよりも正しい音を出すようになったと判断していいのではないか、と考えた。

LPの製造国だけではない。
さまざまな違いを鳴らし分ける(響き分ける)ことができる音を、
どちらがいい音なのか迷った場合に選択していこうと決めたし、そうしてきた。

ステレオサウンドで働くようになり、様々な試聴の体験によって、
この考えは少し発展していった。

一枚のレコードにおいても、音楽はつねに変化している。
音色も変化していく。
そういう一枚のレコードの中での変化をきっちりと鳴らし分け(響きわけ)できる音は、
そうでない音よりも、正しい音といえるし、
聴感上のS/N比をよくしていった音も、聴感上のS/N比の悪い音よりも正しい、といえる。

この判断ポイントは、他にもいくつもあり、
そうやって音を判断してきた。

それでも、この「正しい音」は、初期の段階ともいえるし、基礎的な段階ともいえる。

1990年代、私は川崎先生の文章を熱心に読むようになっていた。
当時は、なぜ、そこまで熱心になれたのか、その理由について考えることはなかった。
読み続けるうちに考えるようになったのは、「正しいデザイン」ということである。

Date: 4月 9th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その3)

しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは五味先生の「五味オーディオ教室」から始まった。
このことがもつ影響は、どれだけ言葉を尽くしても理解されないくらいに、私にとっては大きい。

そして「五味オーディオ教室」をくり返し何度も何度も読んだあとに、
「西方の音」、「天の聲」、「オーディオ巡礼」、「いい音いい音楽」、「人間の死にざま」を読んできた。

これから先、どんなことが待ち受けているのかはわからない。
それでも五味先生の書かれたものからの影響を私の中からなくすこと、なくなっていくことはないであろう。

つまりは、私は、そういうオーディオマニアである。
だから、私の中では、「正しい音」「より正しい音」は、倫理ということになる。

このことは納得してもらおうとはまったく思っていない。
理解されようとも思っていない。
これは、私というオーディオマニアにとっての大事な宝であり、
そんな個人的な宝の価値は、どこまでいっても私だけのものであるのだから。

音の倫理性、オーディオにおける倫理観念、
こういったものを持たずとも、オーディオという趣味は楽しめるだろうし、
音楽も聴ける、といっていい。

むしろ、倫理なんてものを考えないほうが、オーディオを難しく捉えずに楽しめるのかもしれない。
「正しい音」「より正しい音」なぞ考えずに、好きな音と求めていくのが、オーディオの楽しみ方かもしれない。

けれど「五味オーディオ教室」から私のオーディオは始まっているから、
私のオーディオの終りも「五味オーディオ教室」ということになる。
いわば閉じたサーキット(回路)、
それも複雑なコースを永い時間をかけて、一周しているだけなのかもしれない。

それでも向っている先(視ている先)は、同じような気もする。

Date: 4月 9th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その1)

その1)で、スタインウェイのピアノでの演奏ならば、
そのレコード(録音物)の再生において鳴ってくるピアノの音色は、
スタインウェイの音色であってほしいし、ベーゼンドルファーやヤマハになってもらっては困る、と書いた。

それはわかるけれど、レコード(録音物)はどうなのか、と考えられる。
考えられる、というよりも、疑える、と書いた方がいいかもしれない。
ほんとうにそのレコード(録音物)は、スタインウェイの音色を捉えているのであろうか。

疑いが出せばきりがない。
マイクロフォンはスタインウェイの音色を捉えているのか。
マイクロフォンの性能は充分であっても、マイクロフォンのセッティングがどうなのか。
仮にマイクロフォンがきちんととらえていたとしても、
テープレコーダーにたどりつくまでにいくつもの器材を信号は通過する。
それは器材はいったいどうなのか。

そして肝心の録音機は……、ということになるし、
録音がうまくいきマスターテープにスタインウェイの音色がおさめられていたとしても、
アナログディスクならばカッティングを、さらにはプレスの工程も疑える。

疑いたければすべてを疑える。
そういう過程をへてレコードはつくられ、聴き手の元に届く。

そういうレコード(録音物)を信じなければ、
再生というオーディオは成立しない世界である。

少なくともそのレコード(録音物)におさめられている音楽を聴いて感動したのであれば、
良いと感じたのであれば、そのレコードを疑うことをしてはいけない。

疑いたくなる気持はわかる。
でも疑いはじめたら、それはオーディオといえるのだろうか。

井上先生はよくいわれていた。
「レコード(録音物)は神様だから、神様を疑ってはいけない」と。

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その2)

1979年のステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」タンノイ号で、
井上先生が、オートグラフの組合せをつくられている。

この記事の見出しにはこうある、
「オートグラフには、あえてモニターサウンドの可能性を追求してみたい」と。

どういう組合せかといえば、
パワーアンプにはマッキントッシュのMC2300、
コントロールアンプにはマークレビンソンのLNP2。
アナログプレーヤーは、ビクターのTT101ターンテーブルに、
オルトフォンSPU-AとRMA309とフィデリティ・リサーチのFR7とFR64のダブルアーム。

この組合せの音をこう表現されている。
     *
おそらく実際にこの音をお聴きにならないと従来のオートグラフのイメージからは想像もつかない、パワフルで引締まった見事な音がしました。
 オートグラフの音が、モニタースピーカー的に変わり、エネルギー感、とくに、低域の素晴らしくソリッドでダンピングの効いた表現は、JBLのプロフェッショナルモニター4343に勝るとも劣らないものがあります。(中略)
 引締まり、そして腰の強い低域は、硬さと柔かさ、重さと軽さを確実に聴かせ、東芝EMIの「マスターレコーダーの世界」第3面冒頭の爆発的なエレキベースの切れ味や、山崎ハコの「綱渡り」の途中で出てくるくっきりしたベースの音や、オーディオラボの菅野氏が録音した「サイド・バイ・サイド」のアコースティックなベース独特の魅力をソフトにしすぎることなくクリアーに聴かせるだけのパフォーマンスをもっています。
     *
いったいどんな音だったのだろうか、と思いながら、タンノイ号の、この記事を読んでいた。
だからステレオサウンドで働くようになってから、井上先生に、この組合せについてきいたことがある。

ほんとうに、記事に書かれているとおりの音が鳴ってきた、と話してくださった。
オートグラフは複合ホーンのエンクロージュアである。
低域はバックロードホーンになっている。

この構造上、どうしてもベースのピチカートは、ある帯域で尾をひくことがある。
「ベースのピチカートが、ウッ、ゥーンとなるところはあるけれど、聴いて気持ちよければいいんだよ」、
楽しそうにそういわれたことを思い出す。

「正しい音とはなにか?」を思考する者にとって、このオートグラフのベースのピチカートの音は、
絶対に受け入れられない音かというと、そんなことはないし、
井上先生のいわれることは納得がいく。

では、このオートグラフの音は「正しい音(低音)」なのか、
それとも「正しくない音(低音)」、もしくは「間違っている音(低音)」なのか。

私は正しくない、間違っている、とは思わないし、ある面、正しい、と考え、
「正しい」には、絶対的に正しい音というよりも、より正しい音がある、と考えている。

そして「より正しい音」ということが、私の場合、
自身のオーディオの出発点と深く関係しているのではないか──、
最近そう考えるようになってきている。

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その1)

別項「私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)」で、
グラフィックイコライザーのことを「正しい音とはなにか? を思考していくツール」だと書いた。

では「正しい音」とは、いったいどういうことなのか。

オーディオを趣味するならば、
「正しい音」を目指すのも目指さないのも、やる人の自由ともいえるし、
オーディオには好きな音はあっても、正しい音は存在しない、と考えることだってできるし、
その立場でオーディオを楽しまれている人の方が、
「正しい音とはなにか?」を思考する人よりも、多いのかもしれない。

ずっと以前、オーディオは家電なのか、ということについて書かれた文章を読んだ。
家電ならば、
炊飯器であればきちんと炊飯ができなければ、とうてい炊飯器とは呼べない。
米と水の文量は炊飯器を使う人にまかせられているけれど、
それさえ守られていれば、きちんとご飯が炊き上がる。
焦げ付くことも、芯が残ったり、反対にぐちゃぐちゃになったりすることはない。

洗濯機も掃除機も、その他の家電機器はみなそうである。
名のとおったメーカーの家電機器ならば、多少の性能の差はあっても、
本来の役目を果せない家電機器などない。

ところがオーディオは、そのあたりが微妙である。
コンポーネントということも、そのことをさらに微妙にしてさえする。

オーディオが家電ならば、レコードにスタインウェイのピアノの演奏が録音されていれば、
少なくともスピーカーから鳴ってくる音で、聴き手に、
そこで演奏されているピアノはスタインウェイであることを伝える(わからせる)ことが求められる。

ベーゼンドルファーで演奏されているのに、スタインウェイになっては困るし、
スタインウェイがヤマハになっても困る。
ヤマハはヤマハのピアノと聴き手に意識させるだけの音でなってこそ、
オーディオは家電のレベルに達するわけだが、
実際にはスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、
それぞれのピアノの音色を確かに響き分けられるとはかぎらない。

もちろん、ここには聴き手の使いこなしの問題も関係してくるのだが、
オーディオが家電と呼べるレベルに達しているならば、
使い手の技倆に関係なく、ピアノの音色をきちんと再現できてしかるべき──、
そういう考え方も成り立つ。

そして一方で、すべてのピアノの音色を、スタインウェイの音色で聴きたい──、
さらには理想のピアノは現実には存在しないから、私にとっての理想のピアノの音色を、
オーディオから鳴らしたい──、
そういう聴き手の要求にも応えていけるのもまたオーディオというコンポーネントである。

Date: 4月 7th, 2015
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その9)

手塚治虫のマンガで音楽に関係している作品で思い出すのに「0次元の丘」がある。
短篇だ。

シベリウスの「トゥオネラの白鳥」をめぐるストーリーで、
エドアルド・フォン・ ベルヌという指揮者が登場する。
主人公が、エドアルド・フォン・ ベルヌ指揮の「トゥオネラの白鳥」にだけ、ある反応を見せる。

ずいぶん昔に読んだ作品で、
そのころはシベリウスのという名前こそ知ってはいたけれど、
その作品は意識して聴いたことはなかった。
「トゥオネラの白鳥」がどういう曲なのかわからずに読んでいた。

だから気づかなかったことがある。
エドアルド・フォン・ ベルヌのことである。
クラシックを聴く人ならば、エドアルド・フォン・ ベルヌは、
エドゥアルト・ファン・ベイヌムのことだと気づく。

ベイヌムは「トゥオネラの白鳥」を指揮している。
間違いなく手塚治虫はベイヌム指揮の「トゥオネラの白鳥」を聴いていたはずだ。

となると「0次元の丘」における「トゥオネラの白鳥」、
それも特別な意味をもつ「トゥオネラの白鳥」はベイヌム指揮のもののはずでもある。

つい最近「0次元の丘」を読みなおして気づいた。
「0次元の丘」を読んだ人ならば、ベイヌムの「トゥオネラの白鳥」を聴きたいと思うようになるだろう。

手塚治虫はベイヌムの「トゥオネラの白鳥」を、「0次元の丘」で描いているように聴いたのか。

Date: 4月 7th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)

グラフィックイコライザーの使いこなしは、はっきりいって難しい。
そう簡単にうまく調整できるようになるとは思わない方がいい。

グラフィックイコライザーの有用性について書いている私にしても、
菅野先生のレベルにたどり着けるのだろうか……、と思ってしまう。

適当な使い方で、ひとり悦にいっているレベルで満足できるのであれば、
グラフィックイコライザーの使いこなしはそう難しくない、とはいえる。
けれどグラフィックイコライザーの本当の有用性は、そんなレベルのずっと先にある。

だから、グラフィックイコライザーを導入しても、最終的に外すことになっても、
それでいいではないか、とも思う。
ただ導入を決めたのなら、最低でも一年間はグラフィックイコライザーをシステムから外すことなく、
こまめに調整(いじって)みていただきたい。
最初から、うまくいくはずはない。

だから一年間は諦めずにとにかくグラフィックイコライザーと正面からつきあうしかない。
うまくいく日もあればそうでない日もある。そうでない日の方が多いだろう。

ひとついえるのは最初からいい音に調整しようと思わないことである。
まずは音の変化に耳を傾ける。
どんなふうに音が変化するのかを、身体感覚として得られるようになりたい。

そして、コントロールアンプにモードセレクターがあったほうが調整には役立つ。

もうひとついえるのは、好きな音に仕上げていくためのツールではない、ということだ。
正しい音とはなにか? を思考していくツールであり、
「正しい音」ということをつねに意識しておくことが重要だと、私は考えている。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その7)

グラフィックイコライザーの使用に否定的な人の中には、
専用のリスニングルームを建てるだけの経済的余裕のない者が頼る機器、
それがグラフィックイコライザーである──、そんなことをいう人もいる。

またこんなことをいう人もいる。
グラフィックイコライザーに頼る人は、指先だけで処理しようとする──、
確かにそういう人がいないわけではない。

いまでは各社から整音パネル、調音パネルなどと呼ばれるモノがいくつも出ている。
専用リスニングルームを建てられなくとも、
これらのモノを駆使することでグラフィックイコライザーは不要である──、
ほんとうにそうなのだろうか。

音響的に条件を整えていった上で、グラフィックイコライザーを使えば、
各周波数における補正量は抑えられるはずである。
ならばどちらかだけでなく、積極的にそれぞれの良さを認めて採り入れてみることを考えはどうだろうか。

私がグラフィックイコライザーの使いこなしの見事な例として挙げるのは、菅野先生の音である。
菅野先生の音を聴けば、グラフィックイコライザーは必要になる、と思える。

その菅野先生のリスニングルームだが、音響的には特別なことはされていないように見える。
左右のスピーカーの中央にある扉のガラスの一部にソネックスが貼られているくらいにしか見えないが、
ステレオサウンド、スイングジャーナルのかなり古いバックナンバーには、
昔の菅野先生のリスニングルームの写真が載っている。
それらを見較べてほしい。

壁の表面、それから天井と壁が交わるところなどを特に見較べれば、
菅野先生がグラフィックイコライザーだけに頼られているわけではないことがはっきりする。

整音パネル、調音パネルと呼ばれているモノの中には、なかなか効果的なモノはある。
けれどそれらをリスニングルームに林立させることに、音が良くなるのだから、といって、
ためらうことのない人もいれば、
できるだけ視覚的にそういったモノが目につかないようにしたい、
専用リスニングルームという感じをできるだけ抑えたい、という人だっている。

そういう人にとって、菅野先生のリスニングルームのいくつかの変化とグラフィックイコライザーの併用は、
良き参考例となるはずだ。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その13)

SFの世界では、人型ロボットだけでなく、クローン人間も登場する。
完璧なコピーといえるクローン人間が造り出せたとしても、
そのクローン人間の脳には、何が入っているのだろうか。

そのクローン人間の脳に、オリジナルの人間の脳の記憶の全てをコピーすることができたら……、
これはSFの世界での、自我とはなにか、というテーマとつながっていく。

体も完璧なコピー、記憶もそうである。そういうクローン人間がいたら、
オリジナルの人間と同じ自我が、そこに芽生えるのだろうか。

現在の録音・再生のシステムでは、いわゆる原音再生は無理である。
けれど将来、まったく違う理論と方法によって、
録音と再生の場が異っていても、原音再生が可能になったとしよう。
それも完璧なコピーといえる原音再生である。

完璧なコピーといえるクローン人間のような原音再生である。
そんなクローン人間ならぬクローン音が実現したとして、
クローン音には、自我があるのか、と思い、
次の瞬間には、元となる、いわゆる原音(生音)には自我があるのだろうか……、と考え込んでしまった。

音に自我などあるものか、といいきれない自分に気がつく。
いいきれないということは、音に自我、自我のようなものを感じとっているのだろうか、とまた考える。

自我があるとすれば、それは原音(生音)ではなく、再生音なのではないか。

Date: 4月 5th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その4)

あばたもえくぼ、という。
惚れてしまうと、欠点まで好ましく見えてしまう、という意味である。
痘痕(あばた)が靨(えくぼ)に見えてしまうのだから、そうである。

だが時として、えくぼもあばたとなってしまうことだってあるだろう。
嫌いになってしまうことで、いままで好ましく思えていたことが欠点に思えてしまう。
同じようなことが音に対しての反応としてあるような気がする。

つまり好きな音に対して敏感であるのか、嫌いな音に対して敏感であるのか。
好きな音に対して敏感であれば、多少欠点があったとしても、さほど気にならなくなる。
けれど反対に嫌いな音に対して敏感でありすぎると、
その部分にのみ耳の意識が集中してしまい、良さもあったとしても、そこに意識がいかない、
その音全体も否定しまうことになるのではないか。

どちらがよくてどちらが悪いというわけではないが、
嫌いな音に対して過剰なくらい敏感であるために、
音のバランスを失ってしまった例を、よく知っている。

彼には嫌いな音がある。
それは嫌いな音ともいえるし、苦手な音でもある。
それがどんな音であるのかは書かないが、その種の音に対して彼の耳は過剰なまでに敏感だった。
その種の音が出ていると、音を聴くのも苦痛であったようだ。

彼が、嫌いな音・苦手な音を出さないために、
グラフィックイコライザーの力を借りて大胆に調整を行ってしまうのは、だから理解できないわけではない。

だが、それでも……、というおもいがある。

Date: 4月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その8)

執拗さで思い出すのは、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」である。

そして「トリスタンとイゾルデ」といえば、ステレオサウンド 2号での、
小林秀雄「音楽談義」での五味先生の発言を思い出す。
このテーマだからこそ、思い出す。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである(いうまでもないとは思うけれど)。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

ワーグナーは慎重で綿密で、意識的大職人である、とも。
そうだと思う。
思うけれど、何も男が勃起するのは相手の挑発的行動に対してだけではない。

だから五味先生が「勃然と、立ってきた」のは、フルトヴェングラーの全曲盤だったからではないのか。
ドイツ・グラモフォンから、
フルトヴェングラーの全曲盤から約30年後に登場してきたクライバーでは、どうだったのかと思う。

クライバーのドイツ・グラモフォン盤が出た時、五味先生はすでに亡くなられていた。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も聴かれていない。

ただクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に関しては、
1975年、バイロイト祝祭劇場でのクライバーの演奏は聴かれている。
高く評価されていた。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その10)

モノの蒐集にはふたつの楽しみがある、といえる。
ひとつはモノそのものの蒐集であり、もうひとつはそのモノに関する情報の蒐集である。

オーディオも自転車も魅力的なモノであり、
どちらも昔よりも現在の方が、情報蒐集はしやすくなっているし、情報の量も多くなってきている。

欲しいモノ、気になっているモノの情報を集めてくるのは、実に楽しい。
これだけでひとつの趣味といえるほど楽しく感じている人も少なくないだろう。
私も、そのひとりである。

より正確な情報を、しかもあまり知られていない情報を求めようとしているし、
そんな情報が入ってくれば、同好の士に教えたくもなる。
そうすれば、同好の士から情報を得ることもある。

そうやってさまざまな情報をあつめる。
そして試聴(自転車では試乗)する。
これも、ひとつの情報蒐集といえなくもない。

けれど、そうやって得た情報をもとに、
実際に購入するモノ選びにどれだけ役立つか、直結しているのか、といえば、
私の場合は、間接的には役立っているとはいえても、直結しているとはいえないところがある。

デ・ローザのオレンジ色のフレームがそうであったように、
結局のところ、「これだ!」と瞬間的に感じられるかどうかが決め手であり、
他のことは、買うための口実として機能するだけである。

そんな選び方は絶対にしない、という人もいる。
それはそれでいい。
ただ私はそうやって自転車を選んだし、オーディオも選んできている。