Date: 4月 16th, 2020
Cate: 楽しみ方

STUDER A101 + Pass DIY BA-3(その2)

こんなアンプを考えるようになったのは、
audio wednesdayで試したいことができたからである。

いまメリディアンの218を使っている。
アンプはマッキントッシュのプリメインアンプMA7900だが、
218を使うようになってからは、パワーアンプ部のみを使っている。

MA7900のコントロールアンプ部はスルーしている。
MA7900にはリアパネルに、コントロールアンプ出力、パワーアンプ入力端子がある。
通常はジャンパーで、この端子が結ばれていて、プリメインアンプとして動作している。

こういう使い方をするようになってから、
MA7900の置き方・場所を変えてみたい、と考えるようになった。
そうなると、218とMA7900との距離がいまの数倍になる。

この間のラインケーブルが、いまは2m弱だが、6m以上は必要になる。
そうなると、218のアナログ段に使われているOPアンプで十分なのだろうか、と思えてくる。

実際のところ試してみないことにはなんともいかないが、
ラインケーブルが長くなれば、それだけケーブルの静電容量は増え、アンプの負担は大きくなる。

とはいえアンプの入力インピーダンスと信号レベルからすれば、
さほど大きな電流が流れているわけではない。
理屈からすれば、負荷として重たいとはいえない。

それでも理屈は理屈であって、これまでの経験からいえば、
それで十分とはなかなか思えない。

以前GASのThaedraを使っていた。
パワーアンプはSUMOのThe Goldである。
どちらもジェームズ・ボンジョルノの設計である。

The Goldのアンバランス入力のインピーダンスは1MΩである。
これだけハイインピーダンスなのだから、ラインケーブルに流れる電流は微々たるものである。

それでもThaedraにした途端に、The Goldが活き活きと鳴り出した。
水を得た魚のようとは、まさにこんな感じの音の変化をいうのかと思えるほどだった。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: 楽しみ方

STUDER A101 + Pass DIY BA-3(その1)

スチューダーのA101といっても、どんなモデルだっけ? という人のほうが多いだろう。
オープンリールデッキの型番でも、CDプレーヤー、アンプの型番でもない。

アンプモジュールの型番である。
Googleで”studer a101″で検索してみれば、どういうアンプモジュールなのか、
どういう回路なのかすぐにわかる。

初段はFET、出力段はトランジスター、計四石のアンプである。
オープンリールデッキのA80に使われているのが、A101である。

A80ではA101の出力にバッファーアンプをつけている。
A101の回路からいっても、なんらかのバッファーはつけたくなる。

では、どんなバッファーにしようか。
ここで公開しなければ、あれこれ考えてみるのが楽しいが、
あえて公開するのであれば、読まれている方が追試できるほうがいい、とも考える。

ただ一つこだわりがある。
出力は、エミッターから取り出したくない、ということだ。
FETを出力段に使うのであれば、ソースから取り出したくない。

そういう条件で、追試が可能な(容易な)回路となると、
BA3(Burning Amp Number Three)を選ぶ。

FET四石によるバッファーである。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その5)

ピアノで弾かれた平均律クラヴィーア曲集ならば、
私はリヒテル、グールド、グルダがあれば、いい。

他にもいくつかのディスクは聴いている。
といっても、市販されたディスクの半分も聴いていないはずだ。

リヒテル、グールド、グルダの演奏よりも、もっと素晴らしい演奏がすでにあるかもしれないし、
いまはなくとも今後登場してこないとは言い切れない。

それでも、私は、もうこの三組の平均律クラヴィーア曲集で充分である。

クラシック、ジャズ好きの人に多いように感じているが、
グールド一番だ、とか、コルトレーンは金メダル、とか、
そんな表現をしがちな人がいる。

演奏は競技ではないのに、なぜ、一番とか金メダルとか、
そんな表現をするのだろうか。

グールドは素晴らしい、コルトレーンは素晴らしい、でいいではないか。
なぜ、そこに順位をつけるようなことをいうのだろうか。

結局、これは、自分は一番いいものを知っている、
その良さを理解している──、
そんなふうに主張したいだけなのか。

そんな人は、平均律クラヴィーア曲集に関しても、
私なんかよりももっともっも多くの録音を聴いて、
これが一番! というのだろう。
そこには、自分はこれだけの枚数を聴き込んできた、という自慢も含まれているのか。

満たされる、ということはないのか。
満たされる、ということがないまま音楽を聴き続けていくのだろうか。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その4)

それにしても、なぜ、このSACDは限定発売だけだったのか。
私の探し方がヘタだったのか、タイミングが悪かったのか、
ディスクユニオンで、中古盤をみかけたことがない。

だからヤフオク!で入手した。
けっこう強気の値段で出品している人もいる。
2012年当時の価格は、12,000円(税抜き)である。

ぜひ再販してほしい。
SACDが無理ならば配信してほしい。
そうすれば、廃盤ということはなくなる。

SACDだから、DSDでの配信もいいが、
ライナーノートによれば、
オリジナルのマスターテープからは96kHz、24ビットでデジタルに変換され、
マスタリング作業を行う日本に送られている。

ならば96kHz、24ビットのfalcかWAVでの配信でもいい。
でも私がもっとも望むのは、MQAでの配信である。

SACDになんら不満があるわけではない。
それでも、96kHz、24ビットでのデジタル変換の文字をみると、
MQAだったら、と思ってしまう。

リヒテルのピアノの音色以上に、
録音現場の響きの濃さが違ってくるように思う。

聴ける日がきてほしい。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その3)

ライナーノートによれば、
SACD化にあたって、
《真のオリジナル・アナログ・マスター・テープにさかのぼって真の音を探し出すことを第1の目標》
とする、とある。

かなり大変な作業だった、ようだ。
このへんのことはライナーノートにある。

そして、こうも書いてある。
     *
トランスファー本番ではリヒテルの弾く「平均律」の音から、これまで気づかなかったいろいろなことが見えてきました。何といっても、真のオリジナル・マスターの音は非常に柔らかい天国的な音です。以前のCDではシャープに聴こえていた爪の音が意外に小さいこと、前奏曲とフーガにおける右手と左手に微妙なバランスの違いがあること、そして3回のセッションにおける音の違いが手に取るようにわかります。
     *
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集が、教会で録音されたことは知っていたが、
今回のSACDで、第一集が、クレスハイム宮とエリーザベト教会、
第二集がクレスハイム宮とポリヒムニア・スタジオでの録音だったことを知る。

「3回のセッション」とは、そういうことである。
ライナーノートにあるように、セッションによる音の違いがよくわかる。

そして《非常に柔らかい天国的な音》という表現も、誇張ではない。

私が聴いたLPは、日本ビクターのだった。
それ以外のLPは聴いていない。
それらの音が、どんなだったのかはわからないが、
少なくとも2012年発売のSACDは、もう.これでいい、と思わせる。

1978年に発売されたLPのタスキには、
《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》
という吉田秀和による推薦辞があったのは、よく知られているし、
CDにもそのまま使われてもいた。

《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》である。
けれど、これまでは繰り返し聴くに足る音とは、言い難かった。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その11)

収束か終息か。
今回のコロナ禍に対して、終息を使うところもいくつかある。
私がみた範囲では収束のほうが多いように感じた。

私は、終息でなく収束を使っている。
そう簡単に終息するとは思えないからだ。

今回は収束しても、また起るであろうからだ。
朝日新聞のウェブサイトに、
「外出自粛、22年まで必要」という記事が公開されている。

ハーバード大学の研究チームの予測である。

この予測どおりになるのかどうかも、私にはわからないけれど、
終息とはならない、という見方は、やはりある。

今回はOTOTENの中止、
春のヘッドフォン祭も中止、
ミュンヘンのHIGH ENDショウも中止になっている。

大きなオーディオショウ以外にも、販売店主催の催しも中止になっている。

こんなふうに書いて行くと、
これからのオーディオ界はどうなっていくのだろうか……、不安な気持になるだろうか。
そういう人もいるだろうが、
私はいまでこそ東京に住んでいるから、
東京でのOTOTEN、インターナショナルオーディオショウ、他にもいくつかの催しなどに、
行けるけれど、熊本に住んでいたときはそうではなかった。

オーディオフェアに行きたい、東京、東京近郊の人たちはいいなぁ、と羨ましかった。
けれど、そのことでオーディオがつまらなかったわけではなかった。
楽しかった。

それに東京に住んでいても、まったくオーディオショウに行かない人も少なくない。
それでいいようにも思えてくる。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その2)

タイトルで、どう表記するか。
かっこいい、カッコイイ、カッコいい、
それから漢字まじりだと、恰好良い、格好良いがあり、
恰好いい、恰好イイ、格好いい、格好イイ、などがある。

さらに強引にすすめれば、
恰好(格好)佳い、恰好(格好)善い、恰好(格好)好い、などもありか。

こんなことを書いているか、というと、
SNSで「かっこいいオーディオを目指している」とか、
「かっこいいオーディオこそが、オーディオの裾野をひろげる」とか、
そんなことをみかけることがあったからだ。

ここでの「かっこいいオーディオ」のかっこいいが、どの表記だったのかは憶えていない。
ただ、なぜ、この人は、かっこいいオーディオを目指すのか、
そして、この人は、自身のオーディオをかっこいい、と思っているんだろうな、
それから、この人の「かっこいい」はどの「かっこいい」なんだろうか。

そんなことを漠然と思ったことがある。
おもしろいもので、そういう人はたいていハイエンドオーディオと呼ばれるモノを持っている。
それから専用のリスニングルームを持っている。

つまりたいそうなお金をオーディオに注ぎ込んでいるわけだ。
でも、そういうリスニングルームをみると、
なぜだが、薄っぺらいと感じてしまう。

かっこいい、とはまったく感じない。
なんといったらいいのだろうか、
他人の目を気にしているようなところを感じてしまうからなのか。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その1)

別項でのコメントで、
スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームが、
カッコイイと思った──、とあった。

この写真はステレオサウンド 62号にも載っている。
和室にJBLの3ウェイのシステム。
広い部屋ではない。

いまどきのおしゃれな部屋でもない。
昭和の時代の、決して高級ではない和室である。

自作のスピーカーエンクロージュアの上には、AXIOM 80のダンボール箱がある。
いまどきのおしゃれなオーディオをめざしている人は、
こんなことは絶対にしないであろう。

ダンボール箱のまま、押入れかどこかにしまっておくだろう。

数年前、岩崎先生のリスニングルームの写真をみて、
憧れる、という人もいた。
ステレオサウンド 38号に載っている写真である。

JBLのパラゴンがあって、アルテックの620Aが、その両端にあって、
パラゴンの中央にはマイクロのアナログプレーヤー。

それだけでなく、岩崎先生のリスニングルームには、アンプやチューナーなどのオーディオ機器が、
おしゃれなラックにおさめられることなく積み上げられている。

雑然とした部屋ともいう。
それに憧れる、といった人は、私よりも若い。

憧れるには、かっこいいが含まれていた、と勝手に受け止めている。

私の、この二人の部屋には憧れるところがある。
一方で、いまどきのオーディオ評論家のリスニングルームの写真を見ても、
憧れることは、ない。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 「本」

ステレオのすべて

音楽之友社が年一冊出していた「ステレオのすべて」。
いつごろなくなったのだろうか、記憶にないほど、
「ステレオのすべて」への関心がそうとうに薄れてしまった。

私が「ステレオのすべて」を知ったのは、1976年12月だった。
ステレオサウンド別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」とどちらを買おうか、
数日、そうとうに悩んだ。結果「コンポーネントステレオの世界」を選んだのだが、
「ステレオのすべて ’77」もずっと気になっていて、
あのころ中学生だった私は、何度も立ち読みした。

第一印象はよかった。
けれど、どんどんダメになっていったように感じた。
同じことは月刊誌のステレオにも感じ始めていた。

ステレオがダメになっていったから、「ステレオのすべて」もそうなっていったのだろう。

そのステレオも、書店でみかけても手にとることをしなくなってずいぶん経つ。
それでもここ二、三年、変ってきた、と感じている。

ほとんど関心を失っていたから、いつごろから変ってきたのかは正確にはいえないが、
少なくとも興味を惹く特集があるようになってきた。

月刊誌だからしかたないのはわかっていても、
あと少し読み応えのある特集になれば……、とも思うようになってきた。

もうちょっとで夢中になって読めそうなのに……、そんなふうに感じる号が毎号ではないものの、
年に何度かはある。

そう感じるようになってきたから、
「ステレオのすべて」を復活しないのか、と思うようになってきた。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その2)

バッハの平均律クラヴィーア曲集は、名盤・名演奏が少なくない。
どうしてもリヒテルの平均律クラヴィーア曲集が聴きたいという渇望はなかった。

そんな感じだったから、2012年にSACDが限定で出たことを、ずいぶん経ってから知った。
もうどこにも在庫はなかった。

なんとなくだが、縁がないのか、というふうにも感じていた。
それでも、ときおりふとリヒテルの平均律クラヴィーア曲集の断片が、
頭の中に響いてくることがある。

ほんとうに断片である。
ソニー・ミュージックから出ていたSACDを手に入れたいな、と思うようになったのは、
ここ一年ほどのことだ。

moraから配信があるかも、と期待もしていたが、
リヒテルのハイレゾリューションでの配信は、
ベートーヴェンのピアノソナタとシューマンの幻想曲のカップリング、
クライバーとのドヴォルザークのピアノ協奏曲、
ベートーヴェンの三重奏曲だけである。

平均律クラヴィーア曲集は、そこにはなかったし、いまもない。
e-onkyoにもない。

ないから急に聴きたくなったわけではない。
でも、ここにきて、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を、
きちんと聴いておきたいという気持が強くなってきている。

CDも、私が買ったもの意外にもいくつか発売になっている。
そのうちのどれかは、ある程度の満足がえられるかもしれない。

でもSACDが出ているのだから、どれを買ったとしても、SACDの存在が気になってくるはず。
結局、ヤフオク!で手に入れた。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その1)

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を聴いたのは、
ステレオサウンドの試聴室でだった。

誰かが試聴レコードとしてかけたわけではなく、
試聴室後方のレコード棚に、それはあった。

といっても存在に気づいてかけたわけではなかった。
サウンドボーイの編集長のOさんの「聴いてみろ」というすすめがあったからだ。

日本ビクターから発売されていたLPだった、と記憶している。
そのころの私にとって、平均律クラヴィーア曲集といえば、
グレン・グールド、ほぼ一択に近かった。

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、大きく違っていた。
演奏については、いまさらいうまでもないだろう。
素晴らしい、と思いつつも、その音が気になる、といえば、そうだった。

何も知らずに聴いていたものだから、スタジオ録音で、
たっぷりとエコーをかけている、と思ってしまった。

まさか教会で録音したものとは思わなかった。
少なくとも、私がその時聴いた音は、教会の長い残響によるものとは感じられなかったからだ。

でも演奏は素晴らしいから、輸入盤を見つけたら買おう、と思っていた。
日本ビクターのLPを買おうとは、そんな理由から思わなかった。

そんなに熱心に探していたわけではなかったこともあって、
輸入盤とであうことはなかった。
そんなことをしているうちに、CDで出たのを買った。

日本ビクターのLPを、まず買っておけばよかったかなぁ、とちょっとばかり後悔した。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その15)

瀬川先生は、AXIOM 80をしまわれていた。

「しまう」は、仕舞う、である。
同時に、終う、でもある。

だからこそおもうことがある。

Date: 4月 13th, 2020
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その5)

紙の本から電子書籍へ、ということは、
触感の変化でもある。

アナログからデジタルへの変化ともいえる。

いまや紙の本であっても、制作過程はデジタルといっていい。
筆者も手書きの人は少なくなっていることだろう。

原稿もデジタルで、編集作業もデジタルで。
そうやってつくられても、読み手が手にするの紙の本の触感は、
そんなことは関係しない。

それはオーディオでも同じところがあって、
LPのマスターがデジタル録音だろうと、アナログ録音だろうと、
LPをさわったときの感じはかわらない。

CDも同じだ。
元がアナログ録音だろうとデジタル録音だろうと、
触って、そのことがわかるわけではない。

紙の本と電子書籍とでは、さまざまな違いがある。
そのなかで、大きく違うのは、触感(感触)の違いだ、と思う。

だからこそ、感染症の蔓延が、そこをのりこえるきっかけになるのではないだろうか。

Date: 4月 13th, 2020
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その4)

新型コロナのニュースが途切れない。
出版関係の会社も、影響が大きい、というニュースをみかけた。

なんでも売行きの五割を占める大手書店の半分が、いま休業している、とのこと。
たしかにそういう大手の書店は、
駅ビルとか、大きなビルのテナントとして入っているのをよく見かける。

そういうビルそのものが営業を休止しているのだから、テナントである書店も閉店している。
個人経営の書店のほうが、営業時間を短縮しながらでもやっている。

とにかく書店の何割かが臨時休業している。
出版不況と、ここのところいわれ続けてきている。
書店の数は減ってきているところに、コロナ禍が追い討ちをかけているかっこうか。

そういう状況では、本が売れない、よりも先に、本を手にとってもらえなくなる。
それに思うのだが、新型コロナのせいで、
誰かが触れたものには触りたくないという人が増えてきているのではないだろうか。

いままでも、そういう人はいたけれど、いままでそんなこと気にしなかった人たちでも、
感染経路を考えると、触りたくない、という人が増えてくるだろうし、
そうなると書店が営業していたとしても、
並んでいる本を手にとってもらえなくなることだって考えられる。

考えすぎかもしれないとは思うが、そうだろうか、とも一方でおもう。
そうなってきたとしたら、電子書籍なのだろうか。

これまで、何回も電子書籍元年みたいなことがいわれてきた。
増えてはきているのだろうが、実感はない。

私の周りの本好きの人たちは、書店で本を買っている。
電子書籍の話をすることはほとんどない。

けれど、今年はそうなるのかもしれない。
何年後にふり返ったときに、2020年こそが電子書籍元年だった、ということになるかもしれない。

Date: 4月 13th, 2020
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その2)

めったに聴かないのだが、
十年に一度くらい無性に聴きたくなることがある。

そういうときは、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団による、
1984年のライヴ録音のオルフェオ盤をひっぱり出して聴く。

クーベリックは、バイエルン放送交響楽団の前に、
ボストン交響楽団と1971年に録音したものが、よく知られている。
いまも名盤として、SACDにもなっている。

私がクーベリックの「わが祖国」を聴いたのは、
バイエルン放送交響楽団のものが最初だった。

それからしばらくしてボストン交響楽団との録音も聴いた。
どちらがいいとか悪いとか、そういうことではなく、
私にはバイエルン放送交響楽団との演奏(録音)が、印象深い。

その後、チェコフィルハーモニーとの録音も出ている。
世評は、ひじょうに高いけれど、私は聴いていない。

私にとって「わが祖国」は、バイエルン放送交響楽団のがいい。
このバイエルン放送交響楽団との「わが祖国」は、
ステレオサウンドの試聴室で、であった。

山中先生が試聴ディスクとして持参されたのを聴いたのが、最初である。
「モルダウ」をかけられた。

試聴ということを忘れそうになるくらいに、熱いものを感じた。
クーベリック晩年のチェコフィルハーモニーとの「わが祖国」は、
聴けばきっと素晴らしい、と思うであろう。

そうであっても、うまく説明できないのだが、
私にとって「わが祖国」はクーベリック/バイエルン放送交響楽団がいい。