いま、そしてこれから語るべきこと(その14)
(その13)で、二つの映画のことに少しだけ触れた。
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、とのこと。
この映画のテーマ曲が世界で初めて披露されたコンサートが、昨年末、熊本で開催されている。
(その13)で、二つの映画のことに少しだけ触れた。
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、とのこと。
この映画のテーマ曲が世界で初めて披露されたコンサートが、昨年末、熊本で開催されている。
大辞林には、教養とは次のように記してある。
(1)おしえそだてること。「父は其子を—するの勤労を免かれ/民約論(徳)」
(2)社会人として必要な広い文化的な知識。また,それによって養われた品位。「—を身につける」
(3)〔英 culture; (ドイツ) Bildung〕
単なる知識ではなく,人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。
教養ある音の「教養」とは、三番目か。
単なる知識ではなく、とある。
スピーカーの音にあてはめれば、単なる情報量ではなく、ということになろうか。
情報量ということでは、
1970年代から1980年代にかけてのBBCモニターよりも、
同クラスの現代のスピーカーシステムのほうが、上であるモノが多い、といえよう。
それに情報量の多さだけでなく、精度の高さでも、上といえよう。
古いスピーカー(に限らず古いオーディオ)をまったく認めない人たちからすれば、
私が教養ある音といっている音を出してくれるスピーカーは、
情報量の少なさを、
教養ある音、という、ひじょうに曖昧な、正体不明の音でごまかしているだけではないか──、
そんな声が挙ってもこよう。
現代の優れたスピーカーの視点からすれば、
足りないところもあったといえるのは、事実である。
1970年代に登場したBBCモニターとその系列のイギリスのスピーカーシステムは、
現在のスピーカーからすれば、制約もいくつかあった。
四十年間に、スピーカーの技術は進歩している。
けれど、音、それも音の品位ということではどうだろうか。
《人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる》音といえるだろうか。
人は、自分のことも、誰かのことも、断片でしか、
いくつかの断片でしか捉えていない(知ることができない)。
断片がいくつかあるのかすらわかっていないように思う。
だから、自分のことであっても、いくつもある断片のなかのいくつかだけしか見ていない、
誰かに対しても同じであろう。
つきあいのながい人、そうでない人であっても、
その人のことをどれだけ知っているかというと、やはりいくつかの断片でしかなくて、
しかも、この人、いつもと少し違う──、と感じている時には、
いつもと違う断片のいくつかを、勝手に取捨選択してみているのかもしれない。
だからこそ「音は人なり」なのかと最近おもうようになってきた。
音は、その人のすべてが統合されて鳴ってきているのではないのか──、
そう考えるようになってきた。
もちろん、ここでも手前勝手に聴いている可能性はある。
それでも音を聴くことのほうが、単なる断片のいくつかとしてではなく、
いびつなかたちであっても、統合されているのではないか。
三年ほど前の「ステレオサウンドについて(続・瀬川冬樹氏の原稿のこと)」で、
瀬川先生の未発表原稿の公開は、10,000本目で行う、と書いている。
忘れているわけではない。
1月10日、瀬川先生の誕生日に公開する予定でいる。
ただし、このブログではなく、facebookグループのaudio sharingでの限定公開とする。
10日だけの公開で、削除する。
218(version 7)の音(結果)には満足(納得)しているが、
一つだけ、えっ?、と感じたこともあった。
11月のaudio wednesdayで、version 5で、ACの極性によって音がどの程度変化するのか聴いてもらった。
12月はやらなかった。
1月、version 7でAC極性の音の違いを聴いてもらった。
version 7は当日仕上げたため、
音を聴くのはaudio wednesdayでが初めてだったのはすでに書いたとおり。
AC極性による音のチェックは、なんとなく試しにやってみよう、と思った程度だったのだが、
音の違いの大きさは、version 5よりもはっきりと大きくなっていた。
えっ?、と感じたのは、聴感上の音量もはっきりと違って聴こえたことも関係している。
ここまでACの極性による音の変化は、あまり体験していない。
メリディアンの218の電源は、コーセルの汎用のスイッチング電源である。
小型で、特に音質的配慮がなされた部品ではない。
それでも、これだけの音がするのか、と逆に感心するのだが、
今回の音の違いの大きさは、そういうスイッチング電源だからなのだろうか。
いまのところなんともいえないのだが、
version 8以降で、このあたりのことがどう変化していくのかも興味津々である。
私が手を加えた最初のメリディアンの218、
つまり218(version 1)は、audio wednesdayでは鳴らしていない。
audio wednesdayでは、10月にversion 2、11月にversion 5、
12月にversion 6、1月にversion 7を鳴らしている。
version 1では、ものの十分ぐらいで終る簡単なことを施している。
それでも、音の変化は小さくなかった。
version 1での成果を元にversion 2、3……とやってきたわけではない。
version 1の時点でやろうと考えていたことを、順をおってやっているだけである。
version 1で一度にやってしまってもよかったし、
そのほうが手間が省けるわけだが、
それでは音の変化量が大きすぎて、やる者としても学べることが少なくなってくる。
version 1では、多く変化しそうなところにまず手を加えた。
だからこそ段階を踏んで確実に音はよくなってきた、ともいえる。
version 7でやったことを最初にやっていては、
最終的には同じになったとしても、audio wednesdayで音を聴いてもらうのであれば、
それでは面白みに欠ける、というか、聴いてくれた人の参考にはあまりならないように思う。
version 7で、最初にやろうと考えていたことはほとんどやっている。
version 8からは、カット・アンド・トライにやっていく。
2月のaudio wednesdayでは、218(version 8)になっている予定。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
音として、スピーカーからの音として表現しようとしているのかもしれない。
だから、メリディアンの218に何度も手を加えているのか……
1月1日のaudio wednesdayでも、ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”はかけた。
(その5)で、11月のaudio wednesdayでの“FAIRYTALES”は、
それまでとは大きく違った鳴り方をした、と書いた。
今回もよかった。
ラドラ・トネフの声の表情は、より濃やかになっている。
これがほんとうに初期のデジタル録音なのか、と疑いたくなるほどのみずみずしさで鳴る。
それ以上に、今回はピアノの音の繊細さに耳がいく。
メリディアンの218が、version 6から7に変ったことによって得られた音である。
こういう変化が得られるから、
面倒だな、と思いつつも、218に手を加える。
昨年末に、STAR WARS episode IXを観た。
スターウォーズで検索すれば、さまざまな映画評が表示される。
最高という声もあれば、まったく逆の声もある。
私は、というと、スターウォーズの映画で初めて「長いなぁ……」と感じてしまった。
1978年夏、熊本の映画館で観たときとは、まるで違っていた。
あの時の昂奮は、もうなかった、と感じた。
観終ってしばらくして、「これも時代の軽量化なのか……」とふと思った。
STAR WARS episode IXは大作だ。
制作費もそうとうな額なはずだ。
IMAXで観た。
最後の戦闘シーンでは、音で座席が揺れるぐらいであった。
つい、この映画一本を上映するのに、電気代はどのくらいかかるんだろうなぁ……、
そんなことも考えてしまうほど、
スクリーンに投影される光の量も、スピーカーからの音量、
それらを実現するための電気の量は、そうとうなものだろう。
そんな意味でも大作なんだろう、と思いつつも、
時代の軽量化とも感じた映画だった。
ミケランジェリの録音は、アナログディスクのころから聴いている。
なのに最後まで聴き通すことが、私にとってこれほど難しいと感じさせるピアニストは他にいない。
どうでもいい存在のピアニストならばそれでいいけれど、
ミケランジェリはそうではないどころか、素晴らしいピアニストだと思っている。
なのに、どこか苦手意識が、初めて聴いた時からつきまとい続けている。
ミケランジェリのピアノの音は美しい。
完璧主義者といわれるのも頷ける美しいピアノの音なのだが、
そこにミケランジェリというピアニストの肉体をほとんど感じない。
それでも、スピーカーから鳴ってくるピアノの音は、
まさしくミケランジェリによるピアノの音である。
このことがふとしたきっかけで頭か心のどちらかにひっかかってくると、もういけない。
気になってしまい、途中でボリュウムを絞ってしまう。
そうであっても、ミケランジェリをMQAで聴きたい、と思うのは、
どこか確認したい気持も強いからなのかもしれない。
e-onkyoにはショパンとベートーヴェンのピアノ協奏曲(ジュリーニの指揮)があった。
ミケランジェリのドビュッシーを、まずMQAで聴きたい、と思っていた。
いつの出るのだろうか、と思っていたら、今日出ていた。
Préludes IとImages 1 & 2; Children’s Cornerがあった。
どちらも192kHz、24ビットである。
ショパンとベートーヴェンは96kHzだっただけに、このこともあわせて嬉しい。
まだ聴いていない。
MQAならば、素直に素晴らしい──、
そう思えるようになるのだろうか。
オーディオ用として売られているスイッチングハブを介せば、
218をネットワークに接続した状態でも、音質の低下は極力抑えられるのであろう。
たとえばテレガートナーのM12 GOLD IE SWITCH、
こういう製品を使えば使い勝手との両立が、高い次元で可能になるのかもしれない。
M12 GOLD IE SWITCHを自宅試聴した人の話では、そうとうに優れた製品とのこと。
そうだろうな、とは思う。
でもM12 GOLD IE SWITCHは、218の三倍ほどの価格である。
試聴という一つの実験としての218とM12 GOLD IE SWITCHの組合せは、とても興味がある。
それで非常にいい結果が得られたとしても、
218とM12 GOLD IE SWITCHの組合せを自分で使ったり、誰かにすすめたりするかといえば、
それはしない、と断言できる。
これがもっと高価なD/Aコンバーターであれば話は違ってくるが、
218は125,000円である。
だから、ここぞ、というときにだけLANケーブルを外して聴く、というやり方を私はとる。
218と接続しているWiFiルーターはポータブルだから、バッテリーを内蔵している。
ACアダプターを外しても動作する。
なので、これも試してみる。
ここでも音は変化する。
ACアダプター使用よりも、聴感上のS/N比がわずかとはいえ向上する。
こうなると次にやることは一つだ。
LANケーブルを218から外すこと、
ネットワークから切り離すことである。
あきらかに見とおしのよい音場になる。
218をD/Aコンバーターとして使うのであれば、こういう使い方でもいい。
でも、audio wednesdayでは、
218とマッキントッシュのMA7900パワーアンプ部と直結している。
MA7900のコントロールアンプ部をパスする使い方である。
だからこそ218をZone controllerとして使っている。
LANケーブルは接ぎっぱなしのほうが、便利である。
レベルコントロールもトーンコントロールも極性の反転も、
iPhoneからすぐさま行える。
それでもネットワークから切り離した218の音は、
一度聴いてしまうと、なんとかしなくては、と考えることになってしまう。
だから、聴かない方がいい、というのだ。
でも聴いてしまった。
218の操作をする必要があればLANケーブルを接続し、操作が終ったらケーブルを抜く。
こういうことは面倒であるが、
本気に聴きたい時は、こういう手もある。
1月1日のaudio wednesdayでのバーンスタインのマーラーの第九では、
ネットワークから切り離している。
メリディアンの218をD/Aコンバーターとしてではなく、
Zone controllerとして積極的に使っていくのであれば、
iPhoneにIP Controlをインストールして、そこから行うことになる。
そのためには218とiPhoneが同一ネットワークにあることが条件で、
218とルーターとはLANケーブルで接続しておかなければならない。
218とiPhoneが音楽信号をやりとりしているわけではないが、
LANケーブルを接続することで、音が変化しないわけではない。
このことは前々から感じていたことなのだが、
あえてLANケーブルを接続した音、外した音を比較試聴することはしなかった。
接続したことで多少なりとも音質の低下を、自分の耳で確認してしまうと、
そのことが気になってしまうからで、
気になるようなことは、あえて聴かないというのも、一つの手法と思っている。
でも結局は試してみるわけで、
1月1日のaudio wednesdayでやってみた。
喫茶茶会記では、店主の福地さんが使っているパソコンの場所と218とは離れている。
つまり218のある部屋まではLANケーブルは敷かれていない。
なのでWiFiを利用することになるわけだが、
そうすると218にはWiFi機能はないから、ポータブルのWiFiルーターで喫茶茶会記のWiFiに接続し、
このクレードルからLANケーブルで218と接続している。
なのでiPhoneは喫茶茶会記のWiFiに直接ではなく、
WiFiルーターのほうへアクセスするかっこうだ。
試しにWiFiルーターのACアダプターの極性を変えてみる。
オーディオとは別系統のコンセントからとっているのだが、
それでも音の変化は、誰の耳にも明らかな違いがあった。
メリディアンの218について書いていて、
この項が途中なのを思い出していた。
マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たことから書き始めたわけで、
この「マーラーを聴くにも十分だ」というツイートをした人が、
どういう人なのかはまったく知らない。
以前書いているように私がフォローしている人ではなく、
フォローしている人がリツイートしているのが目に留っただけである。
それでも、「マーラーを聴くにも十分だ」というのは、
こちらの心にひっかかってくる。
勝手な想像でしかないのだが、
「マーラーを聴くにも十分だ」とツイートした人は、
218(normal)の音を「マーラーを聴くにも十分だ」というであろう。
十分すぎる、ということだって考えられる。
そうだとしよう。
「マーラーを聴くにも十分だ」という人は、どういうマーラーを聴いているのだろうか。
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九は、
そこに含まれているのだろうか。
譜面に記されたものが音となって聴こえてくれば「マーラーを聴くにも十分だ」ということになるのか。
だとしたら、バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの演奏でなくてもいいのではないか。
私がまったく聴きたいと思わないマーラーの演奏でも、いいのかもしれない。
くり返すが、私の勝手な想像で書いているに過ぎない。
でも思ってしまう。
「マーラーを聴くにも十分だ」の人は、
メリディアンの218(normal)と218(version 7)で、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九を聴いても、そういうのか。
メリディアンの218については、40本ほど書いている。
すべてきちんと読んでくれている方ならばわかってもらえているだろうが、
218(normal)は、実にいいD/Aコンバーターだ、ということだ。
私が手を加えた218と比較試聴すると、そこには音の違いがある。
だからといって、手を加えなければ218は、きちんとした音がしないのか、ということではない。
今回半年ぶりほどに、218(normal)の音を聴いて、
やっぱりいい音だな、と感じていた。
これで125,000円(税抜き)である。
メリットとは感じない人も少なくないようだが、218はA/Dコンバーターも備えている。
ちょくちょく使う機能ではないが、あれば便利である。
なかには、A/Dコンバーターは外して、もっと安くしてほしい、とか、
もっと音が良くなるんじゃないか、というだろうが、
218のコンセプトは、そういうところにあるのではない。
218で初めてMQAの音を聴かれた方は、なぜいじるのか、と思われるかもしれない。
それでも、私は何度も手を加えてきている。
それは218は、もっと良くなる、という可能性を感じ、信じているからだ。
そしてもうひとつ。
バーンスタインのマーラーの第九、
こういう音楽を私は聴きたいからだ。
218(normalの音は、バーンスタインのマーラーの第九を聴くには、若干あまい。
こんなふうに表現すると、また誤解を受けそうなのだが、
細部をいいかげんに描写している、という意味でのあまい、ではない。
そんな音しかしない製品だったら、私は手を加えていない。
私が、バーンスタインのマーラーの第九に必要と感じている表現力、描写力、
これらを218から抽き出すためにやっているだけのことだ。
おそらく昨晩のaudio wednesdayで、
バーンスタインのマーラーの第九を聴かれた方ならばわかってくれている、と信じたい。