老いとオーディオ(齢を実感するとき・その25)
《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》
タキトゥスの言葉だ。
「五味オーディオ教室」と出逢って、四十四年。
ほんとうにそうだ、と感じている。
《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》
タキトゥスの言葉だ。
「五味オーディオ教室」と出逢って、四十四年。
ほんとうにそうだ、と感じている。
本質と本質のあり方、
自由と自由のあり方、
いつの日か、本質について、これなんだ、とひらめくことがあるかもしれない。
そういう日がやってきたとしても、
本質を、自由を、的確な言葉で誰かに伝えられるかというと、どうなんだろうか。
無理なような気もする。
それでいても本質のあり方、自由のあり方は、
その時にきちんと言葉にして伝えられるかもしれない。
そしてあり方こそが、バランスなのかもしれない、と。
ラックスから、今年プリメインアンプのプリメインアンプのL595A LIMITEDが登場した。
今回も往年のラックスのアンプ・デザインの復活であり、
これまで続いてきたずんぐりむっくりからの脱却でもある。
L595A LIMITEDのページには、《一体型アンプの矜持》という項目がある。
L595A LIMITEDはフォノイコライザーはもちろん、
2バンドのトーンコントロールも備えている。
さらに音量連動式のラウドネスコントロールもついている。
テープ入出力端子は、時代の流れからなのか、ないのだが、
プリ・パワーアンプのセパレート機能はついている。
プリメインアンプ全盛時代のプリメインアンプそのまま、といいたくなる内容である。
さまざまな機能を削ぎ落として、音質をひたすら追求しました、
というアプローチのプリメインアンプもあってもいいが、
それならば、いっそのことセパレートアンプにしてしまえばいいのに、と私は考える。
だからL595A LIMITEDは、逆に新鮮にみえてくるところもある。
管球式のプリメインアンプは、いまでも存在している。
けれどほとんどの管球式プリメインアンプは、さまざまな機能を省略しすぎている。
そこに、プリメインアンプの矜恃は感じられない。
なかにはかなり大きな図体の管球式プリメインアンプもある。
それでも機能は最低限度しかついていなかったりする。
音がいいことだけが、アンプづくりの矜恃ではないはずだ。
三年前に、待ち遠しい日があると、子供の時のように、
時間が経つのが遅く感じられる、と書いた。
いまも、そう思っている。
けれど、いまの世の中、スピード社会(古い表現)だから、
待ち遠しい、なんてなくなりつつあるようにも感じている。
映画もそうだ。
私が10代までのころは、ほんとうに日本での洋画の大作の公開が待ち遠しかった。
あのころ、日米同時公開なんて、考えたこともなかった。
半年から一年くらい遅れての公開だった。
しかも、そのころは映画雑誌がいくつもあった。
断片的な情報だけは、それらを読めば入ってくるだけに、よけいに待ち遠しい気持は募った。
話題の映画が、テレビ放映されるのも、かなりの時間がかかっていた。
私の田舎にはロードショー館はなかった。
バスで熊本市内の映画館まで行かなければならない。
そうすると映画の料金よりもバス代のほうが高くなる。
中学生、高校生の小遣いでは、年に数本の映画を観ることぐらいしかできなかった。
だからこそ、テレビ放映も待ち遠しかったものだ。
いまは、すべてがはやい。
日米同時公開はあたりまえになっているし、
ビデオ化も早い。見逃しても、数ヵ月後にはなんらかの方法で観ることができる。
そんなふうにして待ち遠しい、という感覚が稀薄になる、ということは、
余韻がいっしょになくなりつつあるようにも感じられる。
待ち遠しい、という感覚と余韻とは、ひとつであることに気づいた。
(その7)へのfacebookへのコメントがあった。
《オーディオ評論家の批評は「読まず」にできるんですね。》というものだった。
facebookで返信しようと思ったけれど、
コメントの人のように勘違いされている方が他にもいるかもしれない。
そう思ったので、こちらに書くことにした。
コメントには、オーディオ評論家とある。
コメントをされた方は、傅 信幸氏をオーディオ評論家と認識されているのだろう。
傅 信幸氏のファンなのかどうかまではわからない。
私は、このブログで、
オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)と表現している。
わかってもらえていたと思っていたので、あえて書かなかったけれど、
私がオーディオ評論家と思っているのは、
オーディオ評論家(職能家)の人たちだけであり、
オーディオ評論家(商売屋)の人たちのことは、オーディオ評論家とは思っていない。
それでも便宜上、オーディオ評論家と書いたりはするが、
菅野先生が亡くなられて、オーディオ評論家(職能家)はいなくなった、
残っているのはオーディオ評論家(商売屋)だという認識である。
はっきり書けば、オーディオ評論家と呼ばれている人たちはいる。
自分で名乗っている人たちはいる。
けれど、私は、オーディオ評論家はいない、という認識である。
つまり、この項では(その1)、(その2)で書きたかったのは、
管球王国の担当編集者のことだった。
けれど、予定は変った。
管球王国Vol.98の「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」を眺めて、
まずおもったのは、担当編集者はステレオサウンドのバックナンバーをあまり読んでいないだった。
どんな人が担当編集者なのかは、全く知らない。
たぶん男の人だろうぐらい、である。
年齢も名前も、どんな音楽を好んで聴くのか、
どんなオーディオ遍歴なのか、そういったことは何ひとつ知らない。
でも、ステレオサウンド 94号も、それから51号も、
「HIGH-TECHNIC SERIES-4」も読んでいない、とはいえる。
担当編集者は、いや、しっかり読んでいる、というかもしれない。
けれど、私からすれば読んでいないに等しい読み方でしかない。
しっかり読んでいれば「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、
構成からして別物になっているはず。
94号に《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだ》、
そう書いている傅 信幸氏に依頼するのだから、
きちんとバックナンバーを読んでいる編集者ならば、
そうとうにおもしろい記事にすることができたはずだ。
なのにできあがったのは、月並な記事でしかない。
私が担当だったら、やはり傅 信幸氏に依頼しただろう。
そして事前の打合せをしっかりやる。
94号のことを念頭においた上で、やる。
でも、そういうことを担当編集者はやっていないはずだ。
もったいないことである。
ここまでのことを、(その2)に書く予定でいたし、
(その2)で終りの予定でもあった。
それがfacebookのコメントを読んで、変更し、まだ続く。
時代の軽量化をいうことを、なんとなくではあるが考えるようになったのには、
小さなきっかけがある、といえばある。
オーディオの才能と資質についてぼんやり考えていた。
いま、私と同じだけの、オーディオの才能と資質をもつ若い人がいた、としよう。
20代でも10代でもいい。
その人が、これから先、どんなにかんばっても、
私とおなじにはなれないだろう、というよりもなれない、と断言できる。
それは私が恵まれていたからだ。
あの時代に10代だった、ということ。
ぎりぎり10代のうちに、ステレオサウンドで働くようになったこと。
これから先、
私と同じくらいの若さでステレオサウンドで働くようになる人は現れるかもしれない。
それでも私がいたころといまとでは、大きく違いすぎる。
あのころいた人たちは、もうみないなくなってしまった。
井上先生も、上杉先生も、岡先生も、黒田先生も、
菅野先生も、長島先生も、山中先生も、みないない。
岩崎先生、五味先生とは会えなかった。
瀬川先生とはステレオサウンドでは会えなかったけれど、
熊本のオーディオ店でも何度も会えた。
ほんとうに、みないない。
どれだけオーディオの才能と資質に恵まれていようと、
それだけでは、もう無理なのだ。
ステレオサウンドの冬号(ベストバイの号)が書店に並んでいるのをみかけると、
59号のことを思い出してしまう。
昔は夏号がベストバイの号だった。
59号は、ベストバイに瀬川先生が登場された最後の号である。
*
ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
*
59号で、パラゴンについて書かれたものだ。
もう何度も引用している。
この文章を思い出すのだ。
特に「まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。」を何度も何度も思い出しては、
反芻してしまっている。
59号の時点で、23年も前の製品だったパラゴンは、
いまでは60年以上前の製品である。
瀬川先生の「欲しいなぁ」は、つぶやきである。
そのつぶやきが、いまも私の心をしっかりととらえている。
STAR WARS episode IXを観たのは、ほぼ一年前。
一年しか経っていないのに、
ずいぶん経っているような感覚なのは、
私にとっては、つまらない映画だったからなのだろう。
印象がとにかく薄い。
だからずいぶん前に観た感じになっている。
別項で書いているように、
スターウォーズの映画で、はじめて「長いなぁ……」と感じていた。
episode IXは、ひとつの区切りである。
スターウォーズの新作が続くことはすでにニュースで知っていたけれど、
もう観ることはないなぁ、そんな感じになってしまっていた。
スターウォーズの新作は2023年12月公開のニュースがあった。
これだけだったら、なんとも思わない。
そうですか……、といういった感じで、すぐに忘れてしまっただろう。
でも監督がパティ・ジェンキンスである。
「ワンダーウーマン」のパティ・ジェンキンスである。
たったこれだけの情報だけれども、スターウォーズの新作がすごく楽しみになった。
絶対観る、というほどになっている。
三年後である。
三年間、待ち遠しい、という感覚が持ち続けられるわけだ。
ステレオサウンド 217号が書店に並んでいる。
特集は、冬号恒例のStereo Sound Grand Prix。
今号から、Stereo Sound Grand Prixの誌面構成が変った。
座談会ではなく、書き原稿になっている。
どちらがいいとは一概にはいえない。
座談会がいいこともあるし、書き原稿のほうがいいこともある。
座談会では、メンツが鍵をにぎっている。
どんな人たちが参加しているのか。
メンツ次第では、流れにまかせきった内容に終ってしまう。
以前は、井上先生の存在があった。
井上先生の、ぼそっとの一言が、内容を引き締めていた。
井上先生は二十年前に亡くなられている。
代りになる人なんて、一人もいない。
菅野先生も、途中から登場されなくなった。
そうなるとStereo Sound Grand Prixの座談会は、
ぴりっとしたところがまったく感じられなくなった。
そう感じていたから、やっと書き原稿になったか、とまず思った。
一機種につき、三人が書いている。
なので機種によって書いている人は違ってくる。
選考委員全員に書いてほしいところだが、誌面構成からいって、
全員に書いてもらうと、一人あたりの文字数がかなり少なくなる。
三人あたりが、いいところだろう。
それでもゴールデンサウンド賞に選ばれた機種。
今年はアキュフェーズのC3900である。
C3900は無線と実験でもオーディオアクセサリーでも、
いちばんといえる評価(賞)を得ている。
聴いていないのでC3900については何も書けないが、
それだけのC3900なのに、そしてゴールデンサウンド賞なのに、
ほかの機種と同じ構成なのか、とよけいなことをついいいたくなる。
C3900だけは、選考委員全員に原稿を依頼したほうがよかった、と思う。
カラヤン晩年のブルックナーを、
分解能に優れ、見通しよく整然とした音で聴いている人がいた、としよう。
おそらく、いると思っている。
そういう人に、
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》
と問いかけた、としよう。
この音で聴くブルックナーが好きだから、いいじゃないか──、
と返ってきそうである。
きっと、そういう人は、好きという感情こそがもっとも尊い、と考えているのだろう。
ソーシャルメディアを眺めていると、
はっきりと、そうはいってなくとも、言外にそれが感じられることがけっこう多い。
オーディオは趣味なのだから、好きという感情こそがもっとも尊い、
人が尊いということにケチをつけるな、
おまえは趣味の世界がわかっていない、
──そんなことをいわれるであろうが、それでもいう。
カラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーを、
そんな音で鳴らすのは、正しくない行為である。
ブルックナーを、見通しよく整然とした音で聴きたければ、
見通しよく整然とした演奏のブルックナーを鳴らせばいい。
カラヤン晩年のブルックナーを、
見通しよく整然とした音で鳴らして満足したいのであれば、
そこに留まっていればいい。
そして、口を瞑っていろ。
メリディアンの218を、200Vで使っていることは、
ここでも書いているし、別項でも触れている。
audio wednesdayにも、200V用トランス(ルンダールのLL1658)は持参していた。
けれど10月からは持っていっていない。
218は100Vで鳴らしていた。
200Vの音に飽きたとか、100Vのほうがいいと感じるようになったわけではなく、
別項で書いているグリッドチョーク的ケーブルを持っていくようになったためである。
このケーブルには、タムラのA8713を使っているから、重い。
ライントランスが二つついている。
それに200V用のトランスが加わると、
その他にも持参するモノがいくつかあって、けっこうな重量となる。
行きはまだいいが、帰りは夜遅くなったうえに空腹なことも加わり、
けっこうしんどく感じる。
それで200V用のトランスは持っていかなくなった。
12月2日のaudio wednesdayは最後だから200Vの音を聴いてもらおう、と最初は考えていた。
けれどiPhone 12 ProとMatrix AudioのX-SPDIF2との組合せで音が鳴らないために、
Mac miniを代りに持っていくことになった。
X-SPDIF2が増えて、そこにMac miniが加わって、
グリッドチョーク的ケーブルと合せると、一つのバッグには納まりきらず、
二つになっただけでなく、いままでいちばんの重さになってしまった。
200V用のトランスを入れるスペースの余裕はあったが、
重量の余裕は、ほぼなかったため、100Vのままの音を聴いてもらっていた。
グリッドチョーク的ケーブルと200Vでの218の音は、
いまのところ誰にも聴いてもらっていない。
iPhoneで音楽を聴いていて、ふとiPod Hifiを思い出したことがある。
2006年にAppleからiPod HiFiが出た。
iPodをカセットテープかわりにしたラジカセともいえるiPod HiFiの発表時に、
ジョブズはオーディオマニアだったことを語っている。
そして、それまで使ってきたオーディオ機器を、iPod HiFiに置き換えた、ともいっていた。
ジョブズが1984年当時に使っていたシステムはわかっている。
確かにオーディオマニアといえるシステムで、ジョブズは聴いていた。
2006年までのあいだにシステムも変ってきていたことだろう。
1990年代なかばだったと記憶しているが、
スピーカーシステムはマーティン・ローガン、アンプはスペクトラムというのを、
何かで読んだ記憶がある。
コンデンサー型スピーカーが気に入っていたのだろうか。
とにかくそれらのシステムを、iPod HiFiに置き換えてしまった。
俄には信じられなかった。
それから十年以上が過ぎて、ジョブズも亡くなって、
いまiPhoneをシステムに接いで音楽を聴くことが増えた。
ジョブズと同じ心境になれた、とはいわない。
でも、なんとなくわかってきそうな気がしてくる感じがないわけではない。
カーオーディオが、いまどれだけ進歩しているのかは把握していない。
それでもカーオーディオの世界は、
家庭でのオーディオの世界とは決定的に違うのは、
その空間が特定されているということであり、
それによりデジタル信号処理によっては、
家庭でのオーディオよりも、ある面ずっと音を追求できる──、
ということは以前からいわれていたことだ。
それがいまどのレベルに達しているのかは興味もある。
同じようにヘッドフォンもまたカーオーディオ的といえる面をもつ。
DSPを搭載することで、従来のヘッドフォン再生とは違う次元の音を聴かせてくれるはずだ。
先日発表になったAppleのヘッドフォン、AirPods Maxは、そういう製品といえよう。
いわゆるピュアオーディオ的ヘッドフォンのあり方ではないAirPods Maxのあり方は、
面白いと感じている。
それで、AirPods Maxを紹介している記事をいくつか読んでいて、
おもしろい表現に出合った。
ブティックオーディオである。
GIZMODO JAPANの「AirPods Maxが高いって? 高くないよ。高いけど。」のなかに登場する。
*
AirPods Maxの競合は、おそらく「WH-1000XM4」のような“デジタルガジェット“要素の強いヘッドホンではありません。バング&オルフセン「Beoplay H95」や、Bowers & Wilkins「P9 Signature」といった、素材と仕上げと音質すべてにこだわった“ブティックオーディオ”的な趣きのヘッドホンの方が、カテゴリとして近いのではないかと思います。
*
ブティックオーディオという表現は、この記事ではじめて知った。
カーオーディオも、高級車専用になればなるほど、
このブティックオーディオの方向なのだろうか。
知人がインターナショナルオーディオショウに感じていた不満は、
これから先は、かなり解消されていくのかもしれない。
すでにインターネットで積極的に動画を公開しているブランドもある。
そこはこれまで以上に積極的に活用していくだろうし、
これまで消極的だったブランドも、考え直しているところだろう。
いまはまだ自動翻訳の精度に満足できないが、
コロナ禍は、もしかすると自動翻訳の精度を高めていくきっかけになるかもしれない。
そうなったら、オーディオ雑誌のインタヴュー記事のあり方も変っていかざるをえない。
(その11)で触れていることと同じくらいのレベルでの問いかけが、
インタヴュアーに求められることに、必然的になる。
オーディオマニア(ユーザー、せしくはそのブランドに関心をもっている人)が、
ブランドの開発者やデザイナーに直接問いかけることも、もう不可能ではない。
そのブランドにとって、有益なことであれば、
それらが動画で配信公開されていくことだろう。
しかも、そう遠くないうちに自動翻訳がついての公開となるであろう。