二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その7)
オーディオ評論家を名乗っている以上、
スピーカーシステムをうまく鳴らせることができなければならない。
三年に、別項「オーディオ評論家の才能と資質」でも、そのことを書いている。
でも、世の中には、そうは考えない人もいる。
耳がよくて、音を適確に表現できれば、オーディオ評論家と呼べる、と。
そうだろうか。
オーディオマニアの何割がそう思っているのだろうか。
それが多数になったら、オーディオ雑誌もオーディオ評論もラクな仕事になるな、と思う。
「オーディオ評論家の才能と資質」の(その6)で触れたが、
車の評論家で、運転できない人はいないはずだ。
助手席に座って、誰かが運転する車に乗っているだけで、車の評論ができる、と思う人は、
スピーカーをうまく鳴らせなくても、耳が良ければオーディオ評論ができる、と思うのだろう。
それはサウンド批評であって、オーディオ評論と呼べない、と私は考えている。
管球王国Vol.98の「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、
三年前に書いたことをくり返したくなる。
(その1)で、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」をまだ読んでいない、と書いた。
読んでいない、といえば、確かに読んでいない。
細部まで記憶できるような読み方はしていなかった。
書店で見かけて、手にとってパラパラと目は通している。
時間にして二、三分程度しか目を通していなかったから、読んでいない、と書いた。
なので、(その1)で、ステレオサウンド 94号で傅 信幸氏が書かれていることを思い出した。
《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだとぼくは思う。》
このことについて何か書かれていたであろうか。
私が、この管球王国の記事に目を通したのは10月30日の一回だけである。
書かれていなかった、と記憶している。
だから(その1)を書いたし、(その2)では管球王国の編集者について書こうと、
最初は考えていた。
それを変更したのは、(その1)へのfacebookでのコメント数件を読んだからである。