Date: 12月 15th, 2020
Cate: 楽しみ方
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待ち遠しい、という感覚(その2)

三年前に、待ち遠しい日があると、子供の時のように、
時間が経つのが遅く感じられる、と書いた。

いまも、そう思っている。
けれど、いまの世の中、スピード社会(古い表現)だから、
待ち遠しい、なんてなくなりつつあるようにも感じている。

映画もそうだ。
私が10代までのころは、ほんとうに日本での洋画の大作の公開が待ち遠しかった。
あのころ、日米同時公開なんて、考えたこともなかった。
半年から一年くらい遅れての公開だった。

しかも、そのころは映画雑誌がいくつもあった。
断片的な情報だけは、それらを読めば入ってくるだけに、よけいに待ち遠しい気持は募った。

話題の映画が、テレビ放映されるのも、かなりの時間がかかっていた。
私の田舎にはロードショー館はなかった。
バスで熊本市内の映画館まで行かなければならない。
そうすると映画の料金よりもバス代のほうが高くなる。

中学生、高校生の小遣いでは、年に数本の映画を観ることぐらいしかできなかった。
だからこそ、テレビ放映も待ち遠しかったものだ。

いまは、すべてがはやい。
日米同時公開はあたりまえになっているし、
ビデオ化も早い。見逃しても、数ヵ月後にはなんらかの方法で観ることができる。

そんなふうにして待ち遠しい、という感覚が稀薄になる、ということは、
余韻がいっしょになくなりつつあるようにも感じられる。

待ち遠しい、という感覚と余韻とは、ひとつであることに気づいた。

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