Date: 3月 10th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)

20世紀の場合、
ベルリンの壁の崩壊の約一ヵ月後の1989年12月25日に、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮した。

21世紀の場合を考えてしまう。
オクサーナ・リーニフ指揮の「第九」がそうなってほしい。

オクサーナ・リーニフは、2021年、バイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」を指揮している。
バイロイト音楽祭初の女性指揮者である。

オクサーナ・リーニフはウクライナの女性。
リーニフ指揮の「第九」がウクライナで響き渡る日。

私は、そんな21世紀の「第九」を聴きたい。
そういう日がくることを祈っている。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その3)

このブログを終りにすると決めてから、
これまでどれだけたがやしてきたのだろうか、とふと考える。

同時に、新しいブログを始めるということは、
たがやすという視点ではどういうことなのだろうか、とも考える。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

(その1)、(その2)で書いたことをまたくり返している。

audio identity (designing)を始めるときには、たがやす、という考えはなかった。
五年ほど書いてきて、たがやすということに気づいた。

新しいブログは、最初から、そのことを意識してのスタートとなる。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(余談・その4)

その3)で書いている西荻窪のけい太もそうなのだが、
それまでのとんかつのイメージとは違ってきているとんかつ店がぽつぽつ登場してきている。

そういうとんかつもいいのだけれど、私は白いご飯によく合うとんかつが好きであって、
白いご飯によく合うとんかつ店をさがしている。

先月、たまたま見つけたとんかつ店は、まさしく白いご飯とよく合うとんかつを食べさせてくれる。

伊藤先生は、ステレオサウンド 42号「真贋物語」で、
《とんかつぐらいラーメンと共に日本人に好かれる食いものはない。何処へ行っても繁昌している。生の甘藍(きゃべつ)がこれほどよく合う料理もないし、飯に合うことは抜群である》
と書かれている。

昭和のころは、浅草の河金によく通っていた。
河金を教えてくれたのは、サウンドボーイ編集長のOさんだった。
河金のことはステレオサウンドの編集後記にも書かれている。

Oさんは伊藤先生から教えてもらった、とのこと。
その河金も、いまはもうない。
昭和の時代に閉店してしまっている。

浅草近辺には、河金という名の店はある。
のれんわけの店である。

二度ほど、行ったことがある。ずいぶんと前のことだ。
基本的には河金なのだが、どこか私がよく通っていた河金とは違い、足が遠のいた。

それからというものの、いろんなとんかつ店に行った。
菅野先生に教えてもらった荻窪の店にも行った。

荻窪の店は気に入っていた。
特に豚汁が美味しい。

それでも、河金のとんかつを懐かしむことがある。
でも先月見つけたとんかつ店のおかげで、もうそんなことはなくなるかもしれない。

この店、ロースカツがおいしい。
脂身が甘い。
とんかつといえばヒレよりロースカツを好む私は、
しばらく頻繁に、このとんかつ店に通うことになりそうだ。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その3)

パッシヴ型フェーダーを構成する部品の数は少ない。
ポテンショメーター(フェーダー)、筐体、入出力端子、内部配線材、ツマミ、
それからセレクターが必要であれば、これもである。

パッシヴ型フェーダーにくらべて、コントロールアンプとなると、
構成する部品の数は桁が一つではなく、二つ以上に多くなる。

部品の数は増やそうと思えば、かなり増えてくるものだ。
部品の数が多ければ、そのコントロールアンプが高性能かといえば、
そんなことはない。

部品の数によって、そのコントロールアンプの性能が決定されるわけではない。
とにかくコントロールアンプには、非常に多くの部品が使われている。

(その2)で、パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる、と書いた。

部品の数が少ない方が、何かが失われ、何かが加わることに関しては優位であり、
コントロールアンプよりもパッシヴ型フェーダーが、
その点に関しては優位といえば優位のはずなのだが、
実際にパッシヴ型フェーダーとコントロールアンプ(といってもピンキリなのだが)、
音の夾雑物が少ないといえるのは、確かにパッシヴ型フェーダーなのだが、
部品の数の多さのわりには、コントロールアンプもまた優秀といえる面もある。

なので、時々こんな妄想をしてみることがある。
コントロールアンプの部品は、それぞれに何かが失われ、何かが加わるを、
互いにうまく補っているようなところがあるのではないだろうか。

すべてのコントロールアンプで、そんなふうに感じるわけではないが、
優秀なコントロールアンプを聴いていると、こんな妄想をしている。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その16)

自分を叱ってくれる人がいるのが、若いということなのだろう。
別項「不遜な人たちがいる」で書いている、そういう人たちには、
叱ってくれる人がいなかったのだろう。

叱ってくれる人がいなくなった時から、老いは本格的に始まる。
そんな気がしてならない。

Date: 3月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Ses Enregistrement 1930 – 1956

“Ses Enregistrement 1930 – 1956”は、
イヴ・ナットの録音を集めた15枚組のCDボックスである。
2006年に発売になっている。

TIDALを使うようになって、わりとすぐにイヴ・ナットは検索している。
2019年11月のことである。
けれど、その時、“Ses Enregistrement 1930 – 1956”はMQAで聴けなかった。
私の記憶違い、見落しの可能性もあるが、MQAではなかった、と記憶している。

さきほどふと見てみたら、MQA(44.1kHz)で聴けるようになっている。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタも、もちろん含まれている。

イヴ・ナットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、
菅野先生の愛聴盤でもあった。

イヴ・ナットに師事していたフランスのピアニスト、ジャン=ベルナール・ポミエの全集も、
ナット以来の愛聴盤となった、とステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれていた。
     *
ドイツ系の演奏も嫌いではないが、ベートーヴェンの音楽に共感するフランス系の演奏家とのケミカライズが好きなのだ。ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫りになり、重厚な構成感に、流麗さと爽快さが加わる魅力とでも言えばよいか?
     *
ポミエのベートーヴェンもMQA(44.1kHz)で聴ける。

Date: 3月 7th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その10)

「2021年をふりかえって」の(その6)と(その8)で、
MQAの音を、秘伝のタレをかけた音、と酷評する人が、オーディオ業界には数人いる、と書いた。

ここでの秘伝のタレとはネガティヴな意味で使われている。
秘伝のタレで、なにもかも一色に塗りつぶしてしまうような意味である。

秘伝のタレという表現を、揶揄する意味で使うことは、
実際に秘伝のタレを日々使い、数十年、それ以上守り続けている飲食店に対して、
失礼ではないか、とも思う、とも書いている。

でも、そのことにあえて触れなかったのは、
そういう人たちは秘伝のタレの使い方に指摘すれば、
今度は化学調味料に置き換えるであろう、とも書いている。

実際にそうだった。
これまで秘伝のタレという表現で、MQAを揶揄していた人が、
今度は化学調味料に置き換えていた。

MQAに技術的に否定的である立場をとる人がいてもいい。
MQAを私は肯定する側だが、
だからといって、MQAの技術的なところを完全に理解しているわけではないし、
MQAそのもの完璧な技術ではないと捉えているからだ。

きちんとした技術的な反論ならば、私自身、MQAへの理解を深める上でも役に立つ。
けれどMQAを否定するのに、秘伝のタレとか化学調味料といった表現で否定する。

おそらく読む人にわかりやすく、ということでの料理への喩えなのだろうが、
こういう喩えは、オーディオではたいてい何の役にもたたないどころか、
むしろ誤解を招くだけである。

そして的外れな否定でもある。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: コントロールアンプ像
1 msg

パッシヴ型フェーダーについて(その2)

別項「情景(その5)」に、tadanoさんからのコメントがあった。
鮮度についてのコメントである。
かなり長いので、ここでは引用しないがぜひ読んでもらいたい。

Tadanoさんのコメントの終りに、
パッシヴ型フェーダーを使うことでコントロールアンプを排除したり、
信号経路の短縮化による音の変化についてのメリット、デメリットについて、
私の意見をきかせてほしい、とある。

なので、この項のタイトルを少しばかり変更して、十年以上経っての(その2)である。
その1)は、2008年9月に書いている。

プリメインアンプのトーンコントロール回路をバイパスしたり、
パッシヴ型フェーダーを使うことで、CDプレーヤーとパワーアンプを結ぶ。

そうすることでの音の変化は、一般的には鮮度があがる、というふうに表現されることが多い。
ほんとうに鮮度があがるのか、鮮度があがる、という表現が適切なのか、ということでいえば、
音の夾雑物が減る、といったほうがいいと私は考えている。

オーディオは、信号が何かを通るごとに、何かが失われ、何かが加わる。
ケーブルであっても、コネクターであっても、
パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる。

これは、少なくとも私が生きている間は、変ることはないはずだ。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のベートーヴェンのピアノ・ソナタ

3月4日夜、金子三勇士の「Freude」をTIDALで聴いた。
夜遅かったのでヘッドフォンで聴いていた。

リスト編曲によるベートーヴェンの交響曲第九番の四楽章がおさめられている。
これを聴き終ったあと、もう寝るつもりだった。

TIDALは、好きな演奏家をリストにできる。
金子三勇士は、Miyuji Kanekoである。

私のリストではその上に、Mitsuko Uchidaが表示される。
内田光子が、金子三勇士のすぐ上にある。

聴くつもりはなかったのに、ついMitsuko Uchidaのところをクリックしてしまう。
そこにはベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムも表示される。

第三十一番の一楽章だけ聴こう、と思った。
結局、全楽章を聴いて、三十二番も聴いていた。

一年三ヵ月ぶりに聴く内田光子のベートーヴェンのピアノ・ソナタ。
前にも増して、素晴らしいベートーヴェンの音楽として聴こえてくる。

2006年に発売されている。
出てすぐに買って聴いている。
その時から、素晴らしいベートーヴェンだと感じていた。

それから十六年。
その感動は薄れたり、失われたりすることなく、増しているし濃くなっている。

「人は歳をとればとるほど自由になる」
内田光子は、あるインタヴューでそう語っていた。

私もすこしは自由になっているのだろう。
こんなにも内田光子のベートーヴェンが素晴らしく聴こえるのだから。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その6)

その1)でも書いているように、
私が、ことさら情景、それも日本語の歌に関して情景を求めたくなるのは、
中学生のときにグラシェラ・スサーナの歌を聴きすぎたためかもしれない。

ラジカセで、スサーナのミュージックテープを聴いていた。
私が中学生のころ、ステレオのラジカセは珍しかったはずだ。
ラジカセ・イコール・モノーラルの時代だった。

私が小遣いを貯めて買ったラジカセも、だからモノーラルだった。
スピーカーユニットもフルレンジだけだった。
トゥイーターを加えた2ウェイ仕様のラジカセが出たのは、もう少しあとのことだ。

そんな環境で、ほぼ毎日、グラシェラ・スサーナの歌を聴いていた。
日本語の歌である。

そこまでグラシェラ・スサーナの歌にのめり込んでいたのは、
スサーナの歌を聴いていると、その情景が浮んでくることが多かったからである。

中学生が買えるラジカセで、カセットテープが音源なのだから、
出てくる音はたかが知れている。

これがステレオになったら──、
カセットテープではなくLPだったら──、
そんなことを思わなかったわけではない。

もっと情景がリアルに浮ぶものだと、中学生の私は思っていた(信じていた)。

Date: 3月 5th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その12)

さきほどTIDALを眺めていたら、
ヨハンナ・マルツィのアルバムが増えていた。

ブラームス、メンデルスゾーンの協奏曲とシューベルト作品集である。
どちらもMQA Studio(192kHz)で聴ける。

ならばとe-onkyoを見てみると、
マルツィのバッハの無伴奏はflacだけで、MQAはない。

なぜこんなことになっているのか。
まったくわからない。

Date: 3月 5th, 2022
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その15)

TIDALがいつから日本でサービスを開始するのか。
私は3月だと考えている。

いくつか理由はある。
といってもどれも確かといえるほどの理由ではない。

けれど、これはもしかする? と最近思っているのは、
諏訪内晶子のバッハの無伴奏のトラック表記が日本語だということ。

そして昨日からTIDALで聴けるようになった金子三勇士の「Freude」も、
トラック表記は日本語だ。

どちらもユニバーサルミュージックである。

TIDALの日本でのサービス開始が間近だということを知っているのだとしたら、
日本人の演奏家のアルバムを日本語で、ということか。
そんなふうに勘ぐっている。

Date: 3月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その11)

さきほどe-onkyoのサイトをみてみたら、
ヨハンナ・マルツィのアルバムが増えている。

2月25日配信のバッハの無伴奏にくわえて、
ブラームスとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、
シューベルトのヴァイオリン作品集の二枚の配信が始まっている。

この二枚は、MQA Studio(192kHz)で聴ける。
けれどバッハの無伴奏に関しては、flac(192kHz)のみである。
MQA Studioでの配信がない。

TIDALは、というと、今日現在、
ブラームス、メンデルスゾーンの協奏曲、シューベルトの作品集はない。

今回のEMI録音の2022年リマスターに関しては、バッハの無伴奏のみである。
けれど、このバッハは(その10)で書いているように、MQA Studio(192kHz)である。

なんらかの権利関係でそうなっているのか。
MQAで積極的に聴いていこうと思っていると、
TIDALだけでなくe-onkyoの存在も無視できない。

Date: 3月 4th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その9)

(その4)で書いたことを、もう一度、書いておこう。

300Bは、いうまでもなくウェスターン・エレクトリックの球である。
つまり300Bはトーキー用のアンプに使われる出力管である。
このことを思い出してほしいし、絶対に忘れないでいただきたい。

しかもアメリカの映画館で使われていたアンプの出力管である。

サウンドボーイの編集長だったOさんから聞いたことがある。
「300Bシングルは、いわゆる日本的なシングルアンプの音ではない」と。
Oさんは「トーキー用アンプの球なんだから」とも続けた。

Oさんは自他共に認める伊藤先生の一番弟子。
300Bのシングルアンプで、シーメンスのオイロダインを鳴らされていた。

1982年のステレオサウンド別冊 Sound Connoisseur(サウンドコニサー)に、
伊藤先生の300Bについての記事が載っている。
この記事(というよりサウンドコニサーそのもの)の担当も、もちろんOさんだった。

この記事のタイトルは、「真空管物語」。
さらにこうつけ加えられている。
「ウェスターン・エレクトリックの至宝 極附音玻璃球」である。

極附音玻璃球は、きわめつきおとのはりだま、と呼ぶ。
300Bのシングルアンプ、それも伊藤先生のアンプを聴いたことのある者には、
この「極附音玻璃球」こそ300Bのことだと、頷ける。

300Bとは、そういう音の球である。
それなのに、いまだに300Bシングルの音を、
他の直熱三極管の、出来の良くないアンプの音のイメージといっしょくたにしている。

しかも、それをくり返している。
ステレオサウンドの編集者は、誰もそのことに気づいていないのか。