Date: 12月 3rd, 2021
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その9)

グラハムオーディオのLS8/1のページには、
いままで以上のパワーハンドリングを可能にした、とある。

BCIIは、確かにパワーハンドリングの面では弱かった。
大音量で聴くスピーカーではなかった。

それでもD40で鳴らすBCIIは、さほど大きくない音量においてでも、
他のアンプで鳴らすよりも、不思議とエネルギー感のある音だった。

BCIIと同世代のイギリスのスピーカー、
BBCモニター系列のスピーカーは、ほとんどがパワーということでは弱かった。
アメリカのスピーカーと同じような感覚では、
ボリュウムをあげていったら、スピーカーの破損にすぐにつながるし、
こわさないまでも、そこまで音量をあげると、良さが失われがちでもあった。

けれど小音量で聴いている時の量感の豊かさが、
これらのスピーカーに共通する良さと、私は感じていた。

簡単にいえば、小音量でも音が痩せない。
クラシックを小音量で聴いていると、その良さをひしひしと実感できる。

この量感の豊かさを、私はいまMQAに感じている。
MQAがイギリスから生れたのは当然だ、とも思っている。

グラハムオーディオのLS8/1の音の量感はどうなのだろうか。
とても気になるところだ。

Date: 12月 3rd, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その11)

今年(2021年)は、瀬川冬樹没後40年ということもあって、
ステレオサウンド 220号には、
『没後40年 オーディオの詩人「瀬川冬樹」が愛した名機たち』が載っている。

一年半前のステレオサウンド 214号には、
五月女 実氏の「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。

けっこうなことである──、
と思いつつも、
2017年のステレオサウンドには、
岩崎先生の没後40年に関する記事が、どうしてなかったのか。
そのことを今年は思ってしまった。

2027年発売のステレオサウンドに、没後50年ということで岩崎先生の記事が載るのだろうか。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その4)

今日(12月2日)は、マリア・カラスの誕生日。
二年後の2023年は、生誕百年になる。

マリア・カラスを聴いていた。
いわゆるベスト盤の「PURE」を聴いていた。
MQA Studio(96kHz)である。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)ももちろんそこに収録されている。
別項で、「清らかな女神よ」は、マリア・カラスの自画像そのものだ、と書いた。
いまもそう思っているだけでなく、そう確信している。

「PURE」のなかの一曲である「清らかな女神よ」だけを聴いても、
このベスト盤のタイトル「PURE」の意味をあらためて考える。

ピュアな、だとか、純粋だ、とか、書いたり言ったりする。
そんなふうに使われるピュアとここでのマリア・カラスにつけられたといえる「PURE」とでは、
ずいぶん意味の重さが違う。

意味そのものも違うようにも感じる。

誰が「PURE」とつけたのかは知らない。
けれど、ピュアということと裸の音楽ということが、少なくとも私の裡ではつながっていく。
ここには薄っぺらい意味でのピュアはない。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その10)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
マリア・カラスの歌を聴いていて、ふと、これも裸の音楽なのかもしれない、と思う。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(夢の中で……・その2)

六年前の(その1)で、あるオーディオ業界の人から、
ステレオサウンドから去ったことについて、「負け組だね」といわれたことを書いた。

言った人のことをとやかくいいたいわけでもなし、
悪気があったとも受け止めていない。

その人はステレオサウンドにいまも関っているのだから、
その人的に勝ち組ということなのだろうし、私は負け組ということになる。

勝ち組だと思っている人はどう思うかわからないけれど、
世間一般の評価では「負け組だね」といわれる側の私だけど、
ネルソン・マンデラの、この言葉は、勝ち組と思っていては理解できなかっただろう。

“I never lose. I either win or learn.”
「私は決して負けない。勝つか、学ぶかどちらかだ」

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(オーディオの終らせ方)

ラジオ技術 2021年2月号と3月号に、
「これからオーディオを始める方へ筆者からのメッセージ」が載っていたことは、
別項「オーディオ入門・考」でも書いている。

世の中、始めたものはいつか終る。
終るのか終らせるのか。

ラジオ技術 12号の編集後記に、
「これからオーディオを始める方へ筆者からのメッセージ」の続編というか、
関係しての記事として、オーディオの終らせ方という企画を考えている、とあった。

終らせることが必要なのかどうかも含めて、
おもしろいテーマになると期待している。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その19)

ここで、しつこいぐらいに、伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
を引用しておく。

自作スピーカーで聴いて、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人を知るまでは、
私は伊藤先生の言葉を、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
というふうに受け止めていた。

《良否は別として》のところを抜きにして、受け止めていた。
もっといえば、いいスピーカーは選ぶ人を試していた、という認識であった。

それがバーンスタインのマーラーをひどい録音だ、という人と会って、
確かに伊藤先生のいわれるとおりだ、と再認識したわけだ。

《良否は別として》、ここのところの意味を初めて実感できた。
ダメなスピーカーも、また選ぶ人を試していることを知ったわけだ。

別項で「598というスピーカーの存在」を書いている。
このテーマを書こうと思ったことの一つに、
伊藤先生の言葉がベースにあり、
バーンスタインのマーラーの録音を一刀両断で、
ひどい、と切り捨てた人の存在がある。

自分が試されている、とは微塵も感じない人がいる。

Date: 12月 1st, 2021
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その19)

パワーアンプの出力インピーダンスは動的に変化している──、
そういう予測を私は持っている。

実際に測定してみたわけではないし、
どうすれば動的な出力インピーダンスを測定できるのかもよくわかっていない。

静的な出力インピータンスの測定方法はもちろん知っているが、
同じ方法で動的な出力インピーダンスが測定できるわけではない。
もしかすると動的な出力インピーダンスの測定は無理なのかもしれない。

となればシミュレーターの登場なのだろうか。

とにかく私はアンプの出力インピーダンスは動的に変動していると確信している。
それに静的な出力インピーダンスも、以前から書いているように周波数特性をもつ。
基本的にNFBをかけたアンプの場合、
NFBをかける前の周波数特性と同じカーヴになる。

ということは動的な出力インピータンスは周波数特性的にも変動しているわけで、
中高域にかけての変動率は、低域(つまり十分なNFB量がかかっている帯域)よりも、
大きくなっている可能性もある。

(その14)から(その18)まで、動的な出力インピーダンスのことを書いてきた。
ソリッドステートアンプの場合について書いてきている。

では真空管アンプの場合はどうなのだろうか。

Date: 12月 1st, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その13)

JBLの4343がステレオサウンドに登場したのは41号である。
41号の表紙に、そして新製品紹介の記事と特集でとりあげられている。

41号は1976年12月に発売されている。

このころのカラヤンの演奏は精妙主義だった。
録音に関しても、そういっていいだろう。

そのカラヤンも1980年代中ごろから変っていく。
ベートーヴェン全集の録音のころから、はっきりと変っていった、と感じている。

私の場合、五味先生の影響が強すぎて、
アンチ・カラヤンとまではいかないものの、熱心なカラヤンの聴き手とはいえない。
ベートーヴェンの全集にしても、すべての録音を比較しながら聴いているわけでもない。

これは聴いてみたい、とそう感じたカラヤンの録音だけを聴いてきているにすぎない。
つまり体系的に聴いている聴き手ではない。

いいわけがましいことを書いているのはわかっている。
1980年代のベートーヴェンよりも前に、
カラヤンは精妙主義から脱していた演奏があったのかもしれないが、
私が聴いて、カラヤンが精妙主義から吹っ切れたところで演奏していると感じたのは、
ベートーヴェンだった。

その後のブラームスにもそう感じた。

カラヤンの精妙主義の最後の録音といえるのが、ワーグナーのパルジファルだと思うし、
このパルジファルが、精妙主義からふっきれた演奏のスタートのようにも感じる。

何がいいたいのかというと、
精妙主義を吹っ切ったところのカラヤンの演奏を、
五味先生、瀬川先生は聴かれていないということと、
カラヤンの精妙主義全盛時代に4343は登場しているということ、
そしてマークレビンソンの登場について、である。

Date: 12月 1st, 2021
Cate: 夢物語

真夏の夜の戯言(その4)

さきほどメールをチェックしたら、
mora qualitas お知らせ」というタイトルのメールが届いていた。

2022年3月29日23時59分で、mora qualitasサービス終了である。
2019年10月にサービス開始だったから三年もたずに徹底である。

悲しい……、という声もあろうが、私はむしろ喜んでいる。
2022年4月からTIDALの日本でのサービス開始か、と勝手に妄想して喜んでいる。

今年の夏以降、ソニー音源のMQAがTIDALで聴けるようになった。
かなりのタイトルがMQA Studioで聴ける。

クラシック、ジャズ、洋楽だけではなく、J-Pop、歌謡曲もTIDALでMQA Studioで聴ける。
しかも8月にはTIDALのウェブサイトに日本語ページが登場した。

あいかわらず日本からの登録はいまのところできないが、
日本でのサービス開始が近づいていることだけは確かだ、と思っている。

いつ始まっても不思議ではない。
いつになるのか。
12月からなのか、来年早々なのか。
そんなことを期待していたところに、mora qualitasサービス終了である。

mora qualitasはTIDALとかぶってしまう。
ソニーがTIDALの日本でのサービス開始に関るとなると、
mora qualitasの扱いをどうするのか。

サービス終了しかない。

Date: 11月 30th, 2021
Cate:

賞からの離脱(オーディオの殿堂・その3)

明日から12月。
あと十日ほどでステレオサウンド 221号が出る。

特集はグランプリとベストバイなのは、毎年の恒例でしかない。
そこに「オーディオの殿堂」を、来年はやるのか──。

賞がそこまで好きなのならば、
六年前と二年前に書いているけれど、
瀬川冬樹賞をつくるべきだ。

オーディオ評論の世界に、瀬川冬樹賞がない。

一週間ほど前に、別項で、
音元出版のanalogについて触れた。

いまもっとも期待している、と書いた。
私がanalogに期待しているのは、
オーディオ評論に頼らないオーディオ雑誌を実現してくれるかも──、ということだ。

それが可能なのかどうかはなんともいえないが、
そんなオーディオ雑誌が一冊はあってもいいし、あってほしい。

ステレオサウンドには、これは無理なことだ。
ステレオサウンドは徹底してオーディオ評論のオーディオ雑誌であってほしい。

だからこそ瀬川冬樹賞について、くり返し書くわけだ。

Date: 11月 30th, 2021
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その72)

オーディオの想像力の欠如した者の「想像力」とは、ゲスの勘ぐりでしかない。
ソーシャルメディアは、今年もそのことを顕にした。

Date: 11月 29th, 2021
Cate: High Resolution,

MQAで聴けるエリザベート・シュヴァルツコップ(その3)

エリザベート・シュヴァルツコップ、
それにジョージ・セル、アルフレッド・ブレンデルらによる
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”。

これを聴いて、美しいと感じない人と美について語り合うことは無理!
そんなことをついいいたくなるほど、美しい。

私はCDで聴いたのが最初だった。
だからアナログディスクもさがした。
イギリスからオリジナル盤を取り寄せたのは、1989年か1990年だった。
安くはなかったけれど、驚くほど高価だったわけでもない。

そのオリジナル盤も、背に腹はかえられぬ時期に手離してしまった。
もう一度、オリジナル盤を手に入れたいか、というと、
まったくないわけではないが、MQAで聴けるようになったいま、
オリジナル盤で聴くよりも、メリディアンのULTRA DACで聴いてみたい──、
という気持のほうがずっとずっと強い。

メリディアンの218に手を加えて、勝手にWONDER DACと呼んでいる。
そのクォリティには満足しているが、
218とULTRA DACとでは、元々が違いすぎる。

どれだけやっても超えられぬ領域があって、
それはマリア・カラスのCDをULTRA DACで聴いた時に、もっとも強く感じている。

マリア・カラスの肉体の描写において、
CD+ULTRA DACとMQA Studio+218(WONDER DAC)とでは、大人と子供くらい違う。
前者は胸のふるえる感じすら伝わってくる。

肉体の復活において、WONDER DACはULTRA DACに劣る。

価格がULTRA DACの1/20なのだから、製品の規模も大きく違うのだから、
その違いは埋めようがないことはわかっていても、
シュヴァルツコップの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”、
この美しい曲を聴いていると、そこまで美しいと感じているのに、
そこで踏み止まっているのか、という声が聞こえてきそうな──、そんな気さえする。

マリア・カラスは12月2日、
エリザベート・シュヴァルツコップは12月9日の生れ。
二人とも射手座。

そうだよなぁ……、独りごちる。

Date: 11月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

音楽を感じろ

ニール・ヤングがPONOを手がけたことは知っている。
うまく起動にのらなかったことも、だ。

PONOに触れたことはない。
優れたモノだったのかどうかは、判断のしようがない。

2020年夏に、そのニール・ヤングとフィル・ベイカーによる「音楽を感じろ」が、
河出書房新社から出たことも知ってはいた。

でも、そこまでで、「音楽を感じろ」を読みたい、とまでは思わなかった。
そうやって一年ちょっと過ぎた昨晩、Mさんからメールが届いた。

メールのタイトルは、「ニールヤングのponoとMQA」である。
どういうこと? と急いで本文を読むと、
「音楽を感じろ」によると、PONOのエンジンはメリディアンが開発していて、
それがMQAのベースになった、とのこと。

メリディアンとの関係はうまくいかなかったようで、PONOは別のエンジンを採用する。

「音楽を感じろ」はまだ手に取っていない。
メリディアンのことにどれだけページが割かれているのかもわからない。
とはいえ、MQAのエヴァンジェリストを自認する者として、
「音楽を感じろ」は必読の一冊といえる。

Date: 11月 28th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その10)

何度も書いているように、ことしはTIDALでばかり音楽を聴いていた、といえる。
TIDALでしか聴かなかったわけではないが、大半がTIDALだった。
意図的にTIDALで聴いていた。

クラシックにかぎってもTIDALで聴いていた。
これまで聴いてこなかった新しい演奏家も積極的に聴いてきた。

それほど多くはなかったけれど、いいな、と思える演奏家が何人かいた。
これからに注目したい演奏家もいた。

そうやって初めての演奏家、
これまで聴いてきた演奏家の新しい演奏を聴いて、そういえば──、と戻る。

新しいピアニストの演奏をたっぷり聴いたあとで、グレン・グールドを聴く。
1982年に亡くなっているのだから、グールドの演奏(録音)は四十年以上前である。

なのにいま聴いても新鮮であり、
その素晴らしさが、昔のめり込んで聴いていた時以上に感じられる。

グールドだけではない、20代のころ、のめり込んで聴いていた人たちの演奏は、
まったく古びていないどころか、輝きを増しているようにすら感じてしまう。