あるスピーカーの述懐(その19)
ここで、しつこいぐらいに、伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
を引用しておく。
自作スピーカーで聴いて、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人を知るまでは、
私は伊藤先生の言葉を、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
というふうに受け止めていた。
《良否は別として》のところを抜きにして、受け止めていた。
もっといえば、いいスピーカーは選ぶ人を試していた、という認識であった。
それがバーンスタインのマーラーをひどい録音だ、という人と会って、
確かに伊藤先生のいわれるとおりだ、と再認識したわけだ。
《良否は別として》、ここのところの意味を初めて実感できた。
ダメなスピーカーも、また選ぶ人を試していることを知ったわけだ。
別項で「598というスピーカーの存在」を書いている。
このテーマを書こうと思ったことの一つに、
伊藤先生の言葉がベースにあり、
バーンスタインのマーラーの録音を一刀両断で、
ひどい、と切り捨てた人の存在がある。
自分が試されている、とは微塵も感じない人がいる。