Date: 6月 16th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その16)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
ここに書かれていることも、精緻と精妙の違いのように読める。
4343の音は精緻、
LS3/5Aの音は精妙だからこそ、
《コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ》を、
鳴らしてくれるのではないのか。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論と評価/「表」論と「表」価(その2)

ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」。
この企画は、オーディオ評論と評価によるものなのか、
オーディオ「表」論と「表」価にるものなのか。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その8)

別項「試聴ディスクとオーディオショウ」で書いたことを、
今回のOTOTENでも思っていた。

すべてのブースで共通してかける(鳴らす)ディスクが、
一枚か二枚程度あってもいいのではないか、ということ。

OTOTENは、若い人たちに来てもらおうとしている。
成功しているとはまだまだ言い難いけれど、
インターナショナルオーディオショウよりは若い人の割合は多かったように感じている。

OTOTENを含めて、こういったオーディオショウは初めて、
という人がどのくらいいるのかはわからない。
ゼロということはないと思っている。

その人たちは、各ブースをまわって、音を聴いてどう思っている、感じているのか。
それを考えても、一枚でいいから、すべてのブースで、決った一枚のディスクを鳴らしてくれれば、
それぞれのブースの音の特徴が、より掴めるようになるはずだ。

いわばリファレンスディスクを決める。
そのリファレンスディスクをどう鳴らすのか。
音量の設定一つとっても、それぞれのブースで違ってくる。

それでいいし、それだからこそ、それぞれのブースのスタッフが、
リファレンスディスクの音楽をとう捉えているのかがはっきりとしてくる、ともいえる。

Date: 6月 15th, 2022
Cate: Digital Integration

Digital Integration(本とiPhoneと……・その4)

1984年、Appleからマッキントッシュの発表は、
The computer for the rest of usであった。

それまでのコンピューターは、専門家が使うモノというイメージが強かった。
つまり、The computer for the specialistだった。

1982年、CDの登場も、同じだったのかもしれない。
アナログディスクが全盛時代は、
家庭の中でのオーディオの位置は、お父さんの扱うモノだったことが多い。

すべての家庭でそうだったわけではなくても、
お父さんの許可がなけれは触れない、という話をきいたこともある。

なんとなく扱いがめんどうなモノという印象が、そのころはまだあった。
CDは、そんな印象を消し去ってくれたのではないだろうか。

ある時期まで、オーディオはオーディオマニアのモノだった。
ディスクではなくテープに関しても、
カセットテープが登場し、普及し、さらに日本のメーカーの努力によって、
ある程度の音質にまで向上したことで、
オープンリールテープまでは、お父さんの扱うモノだったけれど、
お父さん以外の家族が扱えるモノになっていった。

カセットテープもCDの登場も、サイズが小さくなったことが大きい。
CDがLPと同じ30cmのサイズだったら、どうだったろうか。
カセットテープにしても、オープンリールテープ並の大きさだったら……。

1984年に登場したマッキントッシュは、コンパクトだった。
最初のMacがふたまわり以上大きなモノだったら、
そのGUIがどんなに素晴らしいものであっても、生き残れただろうか。

あのサイズであったからこそのThe computer for the rest of usである。

ここでもスティーブ・ジョブズの言葉を引用しておく。
コンピューターは個人の道具ではない、と。
個人と個人をつなぐための道具である、ということを。

その道具としての適切なサイズがあっての“for the rest of us”だ。

Date: 6月 15th, 2022
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(すすめる)

オーディオの楽しみ方の一つに、すすめる、というのがある。

いい音で好きな音楽を聴くことに関心を持ち始めた人、
ようするにオーディオに、なんらかの、少しだけの興味を持ち始めた人が、近くにいる。

その人から、オーディオに関することの相談を受ける。
つまり相手がいてのオーディオの楽しみといえる。

オーディオマニアではない相手がいての、オーディオの楽しみである。
なのでそう頻繁にあるわけではないが、まったくないわけでもない。

こういう相談を面倒だと思う人もいよう。
面倒なところもあるとは思う。
それでも、すすめたことで相手が喜んでくれたのであれば、
オーディオマニアでよかった、と思えるオーディオの楽しみの一つであるのは確かだ。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その19)

その18)で、聴感上のS/N比が良くなっていくと、
聴感上の音量は大きく聴こえるようになる、と書いた。

このことは1980年代くらいからの常識だと私は思っていたけれど、
(その18)でも書いているように、どうもそうではない。

聴感上のS/N比を良くしていくと、
音量は減ったように感じられる──、
と考えている(捉えている)人が意外にもいることに気づいたからだ。

今年のOTOTENで、MQAのセミナーがあった。
ボブ・スチュアートが来日してのセミナーで、
通常のPCMとMQAの比較試聴がメインだった。

そこでボブ・スチュアートが、MQAだと音量が増して聴こえるのは、
細かい音がより明瞭に聴こえるからだ、と言っていた。

聴感上のS/N比が良くなると聴感上の音量は大きく聴こえるようになる、と同じことだ。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(その11)

五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれていたことを、
最近思い出すことが多い。
     *
 いい音で聴くために、ずいぶん私は苦労した。回り道をした。もうやめた。現在でもスチューダーC37はほしい。ここまで来たのだから、いつか手に入れてみたい。しかし一時のように出版社に借金してでもという燃えるようなものは、消えた。齢相応に分別がついたのか。まあ、Aのアンプがいい、Bのスピーカーがいいと騒いだところで、ナマに比べればどんぐりの背比べで、市販されるあらゆる機種を聴いて私は言うのだが、しょせんは五十歩百歩。よほどたちの悪いメーカーのものでない限り、最低限のトーン・クォリティは今日では保証されている。SP時代には夢にも考えられなかった音質を保っている。
     *
五味先生は、スチューダーのC37を手に入れられている。
ステレオサウンド 50号掲載の「オーディオ巡礼」に、そのことが出てくる。

それでも《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
五味先生の裡からは消えてしまっていたのだろう。

この《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
どうしても欲しい、という気持のはずだ。

最近思うのは、「どうしても欲しい」と「どうしても譲れない」、この二つの違いである。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、否定する人のこと(その4)

MQAをとにかく否定したがっている人は、いまもいる。
おそらくこれから先もいることだろう。

先日のOTOTENで、MQAのセミナーが開催された。
一時間半のほとんどは、比較試聴だった。
比較試聴の環境としてはさほどいいとはいえなかったけれど、
それでもMQAと通常のPCMとの音の違いは明らかだった。

ただし会場は縦に長く後方の席の人はどうだったのかはなんともいえないが、
前方の席でははっきりとした音の違いが聴きとれた。

このMQAのセミナーに、MQAの否定派の人たちがどれぐらい来ていたのかはわからない。
その人たちが、今回の音の違いをどう聴き取ったのかもわからない。

でも思ったことがある。
MQAの音に否定的な人は、おそらく音触という感覚をもっていない人なのかもしれない。

別項で書いているが、audio wednesdayでメリディアンのULTRA DACでMQAの音を聴いて、
音触のことを思い浮べていた。

菅野先生が音触について書かれた時、
音触を感覚的に理解できる人とそうでない人がいた。
そうでない人のなかには、音触という言葉を否定しようとする人がいた。

Date: 6月 13th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その41)

そういえば、ともうひとつ思い出したモデルがある。
ダイヤトーンのP610である。

ロクハン(6インチ半、16cm口径)のフルレンジユニットである。
P610と型番だけいえば済んだのはもう昔のことで、
P610といっても、何の型番が通用しなくなっていることだろう。

P610は私がオーディオに興味をもったころ、
一本2,500円していたはずだ。
特に高価なユニットではなかった。
有名すぎるユニットで、古典的なユニットともいえた。

P610の音ならば聴いている──、という人はけっこう多いはずだ。
P610は高性能のユニットではないから、無理な鳴らし方をしてしまってはだいなしになるが、
何の変哲もないエンクロージュアに入れて、音量も帯域も欲張らずに鳴らせば、
どこにも無理がかかっていない音を聴かせてくれる。

エンクロージュアは密閉型ならば、16cmという大きさを無視して、
かなり容積をもたせたい。
小さいエンクロージュアに無理矢理押し込めるような使い方はしないほうがいい。

欲張れば無理をすることになるユニットだが、
どこからが無理なのか、それを見極めて鳴らせば、
いまでも、その音は、どこにも無理がかかっていない性質の音のはずだ。

古い機種ばかり挙げても──、と思う。
その39)で触れているTADのTAD-ME1は、
私が聴いた範囲では、どこにも無理がかかっていない音を響かせていた。

だから、TADも、ついに、こういう音を鳴らせるようになったのか、と驚いただけでなく、
この音ならば、ずっと聴いていたい、とも思った次第だ。

Date: 6月 12th, 2022
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その40)

アグレッシヴとまでいわれたことのある日本のスピーカーから鳴ってくる音。
その38)で引用している瀬川先生の文章も、そのことを伝えているし、
1980年代の598のスピーカーの音は、まさしくアグレッシヴだった。

それだけではない、ハイスピードを謳ったスピーカーシステムが、
一時期各社から登場していた。
ハイスピードを謳ったモノほど、そこから出てくる音はアグレッシヴであった。

その一方で、日本のスピーカーを代表する存在として、
日本の音とはっきりといえる存在として、ダイヤトーンの2S305があり、
2S305の音は、アグレッシヴからはほど遠い。

日本のスピーカーのアグレッシヴな音は、
店頭効果によって生み出されたもの──、そういう見方はたしかにできる。

でも、ほんとうにそれだけが理由なのだろうか。
日本のスピーカーシステムは、どの方向を目指していたのだろうか。

2S305の後に登場した日本のスピーカーで、
海外でも高い評価を得たのは、ヤマハのNS1000Mである。
鮮鋭な音といわれたNS1000Mである。

NS1000Mの登場と成功が、アグレッシヴな音を生み出すことにつながっていったのか。
NS1000Mの音は何度も聴いているけれど、
登場したころは、私はまだオーディオに関心をもっていなかったから、
当時のことを肌で感じているわけではない。

そのNS1000Mを、1980年代、ステレオサウンドの試聴室でじっくり聴く機会があった。
鮮鋭さを代表する音というよりも、充分に鳴らし込まれたその音は、
意外にも穏やかな面を聴かせてくれた。

日本の音、日本のスピーカーの音とは──、
について考えるときに思い出すのは、黒田先生の文章である。

ステレオサウンド 54号、スピーカーシステムの総テストで、
エスプリ(ソニー)のAPM8の試聴記に、それが出てくる。
     *
化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか。どこにも無理がかかっていない。それに、このスピーカーの静けさは、いったいいかなる理由によるのか。純白のキャンバスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる。
     *
これこそが、日本の音のはずだ。
残念なことにAPM8を聴くことはできなかった。
けれど、ダイヤトーンのDS10000は聴いている。

DS10000の音も、どこにも無理がかかっていない。

Date: 6月 12th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その7)

OTOTENの前身はオーディオフェアである。
祭であるのだから、楽しめればいい、とは私も思わないではない。

製品をかえるごとにディスクも、というやり方も全否定はしたくない。
でも、同時に、比較試聴する楽しみも、来場者に伝えるのも、
出展社の役目だと考えている。

今回、私が入ったブースではディスクを一枚ずつかけていた。
ならば二枚ずつかければいい。
一枚は、すべての機種で共通してかけるディスク、
もう一枚は、その製品の音の特徴をうまく抽き出してくれるディスク。

同じ曲を続けてかけると帰ってしまうであろう人も、
これならば最後までつきあってくれるであろう。

今回のOTOTENだけでなく、インターナショナルオーディオショウもそうなのだが、
これから鳴らす機器の音の特徴を話してしまう出展社(人)がけっこうある。

音を鳴らしたあとに言うのならばいいけれど、なぜこれから聴こうとしている人に、
あえてバイアスをかけるようなことを言うのか。

オーディオショウでの音出しは、出展社にとってはプレゼンテーションである。
だからこそ、なのは理解したいと思うのだが、
時として、というか、けっこうの場合、それは逆効果でもある。

ほんとうにそのとおりの音が鳴ってくれればいいけれど、
そうでないことも多いからだ

いい音を会場で出すことも大事なのだが、
同じくらい、うまく聴かせることにも意識をはらってほしい。

Date: 6月 11th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その6)

今日、OTOTENに行ってきた。
目的は14時30分からのMQAのセミナーなのだが、
会場には10時半ごろにはついていて、それぞれのブースをまわっていた。

あるブースでは自社製品の比較試聴が行われていた。
途中から、私はそのブースに入っているけれど、
やり方からして自社製品の比較試聴のはずである。

なのに、機種をかえるたびに、ディスクもかけかえる。
同じディスクを鳴らしてくれるわけではない。

八年前に別項「音を聴くということ(試聴のこと・その1)」に書いたことが、
ここでもまた行われていた。

八年前に書いたのは、こんなことである。
あるオーディオ店の試聴会で、なぜか機器を替えると、鳴らすディスクも替える。

最初は、この店だけの独自のやり方なのか、
それともいつのまにこういうやり方が一般的になっていたのか──、
そんなことを思っていたら、あるお客が、
「なぜ同じディスクで鳴らさないのか」と店員に訊ねた。

返ってきた答は、
「同じディスクを鳴らしたいんですけど、それをやるとお客さんが帰られるんです」、
だった。

意外だった。
同じ曲を何度も聴くことになるのが比較試聴である。
なのに、それをがまんできない人がいて、客をつなぎとめておくために、
同じ曲をかけないようにする。

今回のブースでのそれも、同じ理由からなのだろうか。

Date: 6月 10th, 2022
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その12)

明日(6月11日)、明後日(12)はOTOTENである。
今回のOTOTENは、いくつかのセミナーをライヴ配信する。
やっとこういう時代が来たのか、と、
18のころまで田舎に住んでいた私は、そう思う。

オーディオフェアに行きたくても行けなかったからだ。

スイングジャーナル 1981年9月号に「オーディオ真夏の夜の夢」という記事が載っている。
長島先生のほかにも石田善之、及川公生、斎藤広嗣、落合萠の四氏が書かれている。

及川氏が書かれている──、
「オーディオ評論はちっとも進歩しないであい変らず試聴というのをくり返している」と。

及川氏は、続けて未来の試聴について書かれている。

自宅のマイコン(この記事が載った1981年はパソコンではなくマイコンが一般的だった)の子機を使う。
いわば自宅にMacがあって、iPadを試聴室で取り出して使うようなものだ。
それでマイコンの子機に試聴するオーディオ機器の特性を入力、
さらに試聴室のアクースティック特性も入力後、その日の自分の体調も要素として加えて……、というふうに続く。

ようするにリモート試聴のことで、ライヴ配信の将来の在り方でもある。
スピーカーからの音をマイクロフォンで拾って、
インターネットを介して配信するやり方の、もう一歩先のことを、
いまから四十年ほど前に及川氏は想像されていた。

当時はスマートフォンは、まったく存在していなかった。
スマートフォンを予想できていた人、
それがここまで普及する社会を予測できていた人は、いなかったと思う。

スマートフォンはまだまだ進歩していく。
スマートウォッチもいまではあり、それも進歩していく。
ハードウェアとソフトウェア、どちらも進歩していく。
そう遠くない将来に、及川公生氏が書かれたことが、
もっと精度高く実現する時代がやってくるかもしれない。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その76)

ここで考えたいのは、(その72)へのtadanoさんのコメントである。

《ここで単純に、生身の人間が発声した声と再生音とを、赤ん坊が聞き分けていると考えてみるのも面白いのではないかと考えました》
とある。

これは、私もそうだろう、と思っている。
しかも、このことはピストニックモーションで音を発していることを、
赤ん坊は無意識のうちに違いがわかっているのではないのか。

だから、スピーカーから流れてくるコンテンツの音声では、
赤ん坊の知能は向上しないのかもしれない。

これに関連してくるのかどうかはなんともいえないが、
まだスマートフォンが普及する前のことだから、もう十年以上は経っている。

電車に乗っていた。
向い側の座席に赤ん坊をつれたお母さんが座っていた。
赤ん坊はぐずっていた。

携帯電話を触りたがっていたようだ。
お母さんはおもちゃの携帯電話を赤ん坊に渡す。
すると持った瞬間に放り投げていた。

しかたなく本物の携帯電話を持たせると、赤ん坊は喜ぶ。
でも、弄ってしまうので、お母さんはまたおもちゃの携帯電話をもたせる。
すると、またすぐに放り投げる。

そんなやりとりが数回、目の前であった。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私よりも一世代若いMさんからである。

YouTube、ソーシャルメディア、ブログでは、オーディオの話をしている人がいる。
昔と違い、紙の本に頼ることなく情報発信ができる時代になっているのに、
なぜ紙の雑誌、書籍が必要なのか──、ということだった。

一ついえることは、マスで捉える能力について、である。
ステレオサウンドは昔、総テストを売りにしていた。
この総テストについては、別項でも書いている。

スピーカーシステムならスピーカーシステム、
アンプならばアンプを、一度に数十機種集めて数日で集中して試聴する。

この総テストを体験しているかいないか。
この違いが、オーディオ雑誌の存在理由である、と私は考えている。

このマスで捉える視点をもっているのかもっていないのか。
ただし、総テストを体験してきているかといって、
マスで捉える視点をもっているのかは、また別の話であるが、
私がオーディオ評論家(職能家)と認めている人たちは、
総テストをくり返し体験してきた上でのマスで捉える能力・視点をもっていた。