ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その10)
ケント・ナガノと児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲、
その素晴らしさに驚いていたころに、
ある人から「児玉麻里のベートーヴェンのソナタは素晴らしい」といわれたことがある。
私よりも一世代ちょっと上の人である。
その人とは初対面だったけれど、たまたま児玉麻里の話になった。
聴いてみよう、とは思いながらも、
心のどこかに、機会があったら──、という気持があった。
そのため積極的に聴こうとはしなかった。
そうすると意外にも、聴くまでの時間がかなりかかったりする。
結局、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いたのは、
TIDALを使うようになってからだ。
《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》、
五味先生が、そう書かれていた。
別項でも書いているが、そうだ、と私も思うところがある。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。
そうでありながらも、
内田光子、アニー・フィッシャーのベートーヴェンの後期のソナタに感動している。
この二人が、私にとっては例外の存在といってもしまってもいいのだが、
児玉麻里が三人目として、ここに加わるのかといえば、決してそうじゃなかった。
ケント・ナガノにしても、児玉麻里にしても、
二人でのピアノ協奏曲は、あれほど素晴らしかったのに、
それぞれの演奏、交響曲とピアノ・ソナタにおいて、
そこまでのレベルに達していないのは、
つまりは内田光子のいうところのベートーヴェンの音楽における苦闘、
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘であること。
その中でも、彼自身との苦闘。ここにつきる、としかいいようがない。
内田光子は《自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないから》
といい、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りはしない。
交響曲ならば、指揮者はオーケストラに自分を攻撃させる、
ピアニストは、ピアノによって自分を攻撃させる、
この境地に到ってこそのベートーヴェンの演奏だとすれば、
ケント・ナガノによる交響曲、児玉麻里によるピアノ・ソナタに、
何か欠けたように感じてしまうのは、そこにおいてなのだろう。
何も、このことはケント・ナガノ、児玉麻里に限ってのことではない。
他の指揮者、他のピアニストにもいえることだ。
なのに、ここでケント・ナガノ、児玉麻里の名を挙げているのは、
くり返すが、ピアノ協奏曲はほんとうに素晴らしいからである。