Archive for 9月, 2020

Date: 9月 10th, 2020
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その4)

一冊のオーディオ雑誌に、複数の記事が載る。
世の中には、複数のオーディオ雑誌がある。

一年間で、何本の記事がオーディオ雑誌に載ることになるのだろうか。
数えたことはないけれど、かなりの数であり、
いまではインターネットで公開される記事もあるから、そうとうな数になる。

いまもだが、昔も、掲載(公開)された記事を検証する記事はあっただろうか。
これまでさまざまな記事があったが、
オーディオ雑誌にないものとは、記事の検証記事ではないだろうか。

なにもすべての記事を検証すべきとは思っていない。
それでも、なかには検証したほうがいいのでは? とか、
検証すべきではないのか、と思う記事がある。

記事もだけれど、オーディオ機器の評価に関しても、
このオーディオ機器の評価は検証したほうがいいのでは?、
そう思うことがなかったわけではない。

賞は、実のところ、検証の意味あいを担っているのではないだろうか。

一年間に、けっこうな数の新製品が登場する。
それらが新製品紹介の記事や、特集記事で取り上げられる。

新製品の記事で、その新製品を紹介するのは、
ステレオサウンドの場合は一人である。

以前は、井上先生と山中先生が、新製品紹介の記事を担当されていて、
海外製品は山中先生、国内製品は井上先生という基本的な分け方はあっても、
注目を集めそうな新製品に関しては、対談による評価だった。

一年のあいだに、ある製品について何かを書いている人というのは、意外に少ない。
個人的に関心の高い新製品を、この人はこんな評価だったけれど、
あの人はどうなんだろうか、と知りたくても、載っていないものは読めない。

そういうもどかしさは、熱心に読めば読むほど募ってくる。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その10)

オーディオについて、けっこう知識を持っている人は少なくない。
でも、そんな人と話していると、「この人は知識過剰だな」と感じることがある。

知識量が豊富だから、そんなふうに感じるとはかぎらない。
同じくらいの知識量をもっていると思われる別のオーディオマニアと話していると、
そんなふうに感じないことがあるからだ。

もちろん、二人のオーディオマニアの、本当の知識量が正確に把握できているわけではない。
話していることから、なんとなく感じているだけのことなのだが、
それでも、「この人も知識過剰だな」と感じることがあるのは、なぜなのだろうか。

知識量が同じでも、知識の質が違うから、そう感じるのではないように思う。
オーディオの経験量と知識量のバランスがとれていないから、そう感じるのだろうとは思っている。
知識過剰と感じさせる人は、結局、器が小さいのだろう。

と同時に、知識過剰だな、と感じさせる人は、どちらかといえば攻撃的なのではないだろうか。
面と向かって話している時はそうではなくても、
インターネットを介しての、顔をみえない、名前もわからない状況下だと、
やたら攻撃的な人がいるけれど、そういう人は知識過剰なのかもしれない。

といっても、インターネット上で攻撃的な人が、どんな人なのかは、
パソコン、スマートフォンの画面越しではなにひとつわかっていない。
なので、私の勝手な想像でしかないのだが、それでも、そういう人のものの言い方をながめていると、
知識過剰なのかも……、と感じてしまう。

そう感じてしまうのは、実際に、そういう人を知っているからである。
誰なのか特定できるような書き方はしたくないが、
その人は知識量は豊富である。

いろんなオーディオ機器を手に入れている。
SNSでも、多くのオーディオマニアとのつながっているし、
つながることにとても積極的である。

いまどきの、熱心なオーディオマニアと、多くの人の目には映るであろう。
SNSでも書き込みも、多くは常識的な範囲のことが多いのだが、
ふとしたきっかけで、非常に攻撃的な書き込みをするのを、何度か見たことがある。

豹変するとまではいかないものの、
この人には、こんな側面があったのか、と少々驚くほどではある。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その23)

スタニスフラフスキー・システムのことを書こう、とは、五年以上前から思っていた。
けれど、スタニスフラフスキー・システムという言葉を正確に思い出せなかった。

「七色いんこ」で、スタニスフラフスキー・システムが登場したエピソードでは、
主人公の七色いんこという代役専門の役者が、自分の演技の限界について悩む、という内容だった。

そこでスタニスフラフスキー・システムのことが語られていた。
当時、そういうのがあるのか、ぐらいの関心だった。

それにそれ以上調べるには、演技関係の書籍に頼るしかない。
インターネットで調べるなんてなかった時代である。

結局、そんなシステムがあるんだ、ぐらいのままで、終っていた。
なので、この項を書いていて、そういえば、と思い出しても、
スタニスフラフスキー・システムの名称が正確に思い出せないままだった。

スタニスフラフスキー・システムにからめて続きを書いていこう、と考えていても、
肝心のスタニスフラフスキー・システムが正確に思い出せないまま数年が経ってしまった。

つい最近、まったく違うことからの偶然で、
スタニスフラフスキー・システムに、ふたたび出合った。

そうだそうだ、スタニスフラフスキー・システムだ、と、
30数年ぶりに、スタニスフラフスキー・システムについて調べることもできた。

調べるといっても、インターネットで検索するぐらいで、
演技の専門書をひもといて、というわけではない。

それでもスタニスフラフスキー・システムについて、概略程度を知るだけでも、
スピーカーという存在は、役者と捉えてもいいという考えは、
案外的を射ているのではないか、と思ったし、
スピーカーシステムには、スピーカーシステムの鳴らし方には、
スタニスフラフスキー・システム的といえるものと、そうでないものがある──、
そう感じるようにもなってきている。

同時に、そのスピーカーの鳴らし手であるオーディオマニアは、
演出家なのか、という考えもできる。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その22)

スピーカーシステムを役者として捉える考え、
これが正しいかどうかではなく、そういう考えからスピーカーが鳴る、ということを捉えれば、
スピーカーは、その時にかける音楽に応じて演じている、という見方ができる。

スピーカーは演じている。
そんなふうに考えることもできな、と、ここ十年くらい、思うようになってきた。

好きな演奏家のレコード(録音)をかける。
スピーカーから、その演奏家の演奏が流れてくる。

それはスクリーンに映し出された俳優の演技を観ているような感覚が、
まったくない、といえるだろうか。

たとえばグレン・グールドのレコード(録音)をかける。
グールドを演じている、としたら、
グールドを演奏を、単なる模倣で終ってしまっている、としか感じられない程度で、
グールドを演じる役者(つまりはスピーカー)がいる。

映画やドラマをみていると、演技はうまいんだけれども、
感情移入ができない、という役者がいる。

私が感情移入できる役者に、ほかの人も感情移入できるのかどうかは知らない。
私が、ここで考えたいのは、なぜそんなふうに感じ方の違いが生じるのか、である。

映画を観るのは好きだが、
観るのが好き、というところで留めている。
それ以上、深く映画について勉強していこう、とは思っていない。

つまり演技のことについては、まったくの素人であり、
知識らしい知識は持っていない、という逃げ道をまずつくっているのだが、
スタニスフラフスキー・システムというのがあるのを知ったのは、
もう30年以上の前のことだ。

手塚治虫の「七色いんこ」のなかで、スタニスフラフスキー・システムのことが出ていた。

Date: 9月 9th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その6)

その2)で書いている若い人が、雑誌の古いバックナンバーを読む、という行為は、
ますます彼自身の視野を狭くしていくことのようにも思えてならない。

雑誌のバックナンバーを読むことは、
すでに書いているが、決して悪いことではない。
基本的にはいいことだ、と思うけれど、それにはいくつかの条件がつく、と私は思っている。

一冊、二冊……、その程度のバックナンバーを読んで、
わかったようなツラをする人がいるけれど、
ほんとうに、その時代の空気を、バックナンバーからきちんと読みとりたければ、
一年分とはいわない、もっともっと読むべきである。

十年分ぐらいのバックナンバーをきちんと読むべきである。
完全にバックナンバーを揃えておくべき、とはいわない。
数冊程度欠けていてもいいから、十年分くらいのバックナンバーには目を通すべきだし、
それは一つの雑誌だけでなく、
オーディオマニアであるならば、
オーディオ雑誌、それからレコード雑誌をそれぞれ数冊を十年分くらい、である。

視野の狭い若い人が、わずかな冊数のバックナンバーを読んで、
わかった気になっている。
趣味の世界だから、それでもいいじゃないか──、
そういえなくもないわけだが、
不思議なことに、そんな人に限って、わかったようなツラをして、老成ぶっている。

そして、なにかいっぱしのことをSNSとかに公開しているから、
なんだろうな……、と思ってしまうわけだ。

本人は視野を広くしているつもりなんだろうが、
この人は、自分の視野の狭さ(偏り・依怙地さなど)をますます確固たるものにしたいのか、
そんなふうに見えてしまう。

それにしても、なぜ老成ぶるのか。
自分より上の世代に認められたいからなのか。
他になにか理由があるのか。

もしかすると、その若い人は、老成ぶることが目的、
もしくは趣味なのかもしれない。

そのための手段としてのオーディオという趣味というふうに捉えると、合点がいく。
これも、趣味としてのオーディオのありかたの一つなのか。

Date: 9月 9th, 2020
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その8)

仏像とは、
彫刻や絵画などの造形方式によって表された、信仰の対象としての仏の形像。多く彫像をいう。釈迦仏のみならず諸尊仏の像をもさす。
辞書には、こうある。

仏の像であるわけだが、誰かひとりでも仏の姿を見ているのかといえば、
誰も見てはいない。
これまで誰ひとりとして見たことのない仏の姿を彫っているし描いている。

そうやってつくられた仏像をみて、人は感動する。
いい仏像と思うこともある。

オーディオマニアが出す音は、どこか仏像のように感じることがある。
原音再生というお題目がある。

けれど、原音を誰ひとりとして、はっきりとわかっている人はいない。
何を原音とするのか。

そのことについても、長いこといわれ続けてきている。
原音とは何か。

そのことをはっきりと定義したところで、
そこでの「原音」すら、誰ひとりとしてわかっていない。

それでも「原音」は、なにがしかのかたちで、それぞれのオーディオマニアの裡にある。
原音は、だから仏像における仏の存在のように思う。

そして、オーディオマニアは一人ひとり、それぞれの「仏」の姿を再生音であらわしている。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その20)

年齢とキャリアの長さから順当に考えれば、
柳沢功力氏の次の選考委員長は、傅 信幸氏だろう。

けれど、そうだろうか。
別項「編集者の悪意とは(その5)」で書いている。

最近は少し変化が見られるように感じるが、
少なくとも一年前までは、柳沢功力氏の次のポジションにいれるのは小野寺弘滋氏だった。

読者のなかには、ステレオサウンド筆者のトップは柳沢功力氏で、
その次が傅 信幸氏で……、と思っている人も少なくないようだ。
けれど、ステレオサウンドの特集での筆者の扱いをみれば、
編集部がどう考えているのは、実にはっきりとしている。

柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ同じの扱いといっていい。
その次に傅 信幸氏、三浦孝仁氏、和田博巳氏という順である。

柳沢功力氏の次は、小野寺弘滋氏なのかもしれない。
どちらになるのかはわからない。
どちらになってもおかしくない。

もしかすると、もう選考委員長はおかないようになるのかもしれない。

誰が選考委員長になっても同じなのかもしれない。

柳沢功力氏の次は誰なのか。
こんなことを考えているということは、
少なくとも私のなかでは、ステレオサウンドはステレオサウンドでなくなっているのだろう。

ステート・オブ・ジ・アート賞から始まった賞、
現在のステレオサウンド・グランプリは、
その名称からいっても、ステレオサウンドの象徴のはずだ。

けれど、その象徴である賞をめぐる環境が変化しようとしている。
染谷 一氏がオーディオ評論家になれば、
小野寺弘滋氏のときと同じに、自動的に選考委員になるはずだ。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その19)

49号が一回目だったステート・オブ・ジ・アート(STATE OF THE ART)賞。
ここから、いまも続くステレオサウンドの賞の企画は始まった。

賞だから、選考委員がいる。
そして選考委員長がいる。

岡先生が、選考委員長だった。
誰もが納得する選考委員長といえた。

選考委員の誰もが、岡先生が選考委員長であれば納得したし、
岡先生以外に選考委員長として、まとめ役ができる人はいない、とも思えた。

ステレオサウンドの編集部の人たちも、
読者も、岡先生以外の選考委員長を思い浮べることはできなかったはずだ。

ステート・オブ・ジ・アートがコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーに、
名称が変更になっても、岡先生が選考委員長だった。

岡先生が亡くなられて、菅野先生が選考委員長になられた。
この時も、菅野先生以外、誰が選考委員長にふさわしいだろうか、という議論は起こらなかっただろう。

菅野先生がオーディオ評論の第一線から退かれて、
選考委員長は柳沢功力氏になった。

柳沢功力氏の選考委員長に、異を唱えたいわけでなはいが、
岡先生、菅野先生のときとは、ちょっと違うものを感じてしまう。

柳沢功力氏に失礼かもしれないが、いわば消去法で選ばれた選考委員長のような気がする。
他に誰もいないのだから……、そんな感じがしてしまうのは、私だけだろうか。

そう感じた人は、私と同じくらい、私よりも長くステレオサウンドを読んできた人のなかには、
すくなからずいた、ように思う。

こんなことを書いているけれど、
柳沢功力氏のほかに誰がいる、と問われれば、誰もいないのである。
そんなことはわかっているから、このことはこれまで書かずにいた。

にもかかわず、ここにきて書いているのは、
そろそろ選考委員長が変ってもおかしくない、と感じ始めたからだ。

柳沢功力氏は1938年1月生れだから、82歳と高齢である。
まだまだ元気な様子ではある。

それでも、ステレオサウンド編集部としては、次を考えているのではないだろうか。
人の寿命はわからない。

柳沢功力氏より若い人が先に亡くなることも珍しいことではない。
それでも、次の選考委員長について、何も考えていない、とは思えない。

それは編集者だけではないだろう。
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になっているオーディオ評論家たちも、
次の選考委員長が誰になるのか、
まったく考えていないとは、思えない(私がそう勘ぐっているだけ、だろうか)。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その18)

avcat氏と染谷 一編集長との、このことを思い出したのは、
今年が2020年で、ステレオサウンドの前編集長の小野寺弘滋氏が、
ステレオサウンドを退社してオーディオ評論家になってから十年目になるからだ。

小野寺弘滋氏は、2010年12月にステレオサウンドを辞め、
2011年からオーディオ評論家である。

染谷 一氏は2011年からステレオサウンドの編集長である。
今年の12月に出るステレオサウンドで、染谷 一氏はまる十年、,
編集長をつとめたことになる。

根拠があるわけではないが、
染谷 一氏も、いずれオーディオ評論家になる、と確信している。
だから、タイミング的にそろそろかな、と思っているわけだ。

そんなことを思っているから、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」、
それから「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」について、考えてみたい。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その17)

その1)は四年前。
(その1)に、「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている──、
と書いた。

四年のあいだにステレオサウンドは16冊出ている。
207号も、出ている。

207号の特集「ベストバイ・スピーカー上位49モデルの音質テスト」での、
YGアコースティクスのHailey 1.2についての、柳沢功力氏の試聴記を、
avcatというアマチュアの方がSNSで問題にして、
そのことに対してステレオサウンド編集長の染谷 一氏がavcat氏に謝罪したことが、
SNSで話題になった。

おそらく検索すれば見つかるだろうし、
このことについて別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』で書いている。

このことを、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」から見たらどうなのか、と思った。

ステレオサウンドの読者が、SNSで、記事の内容に好き勝手なことを書くのは自由である。
avcat氏はオーディオのインターネットの世界では名前の知られている人であっても、
オーディオのプロフェッショナルではないし、
アマチュアであり一読者であるのだから、
avcat氏の行為について否定的ではありたくないが、
それにしても染谷 一編集長が謝罪した、ということを、SNSで公開するのは、
どうだろうか、とは思う。

この騒動は、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」というよりも、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなってしまったとき」なのか。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その8)

その7)のコメントが、facebookにあった。
そこには、レコード演奏家という概念を認めるなら、
スピーカーからの再生音を録音するという行為は、
レコード演奏家のライヴ録音という捉え方もできるのでは──、というものだった。

このことは、私も書こうかな、と考えていた。
けれど、菅野先生が提唱されたレコード演奏(レコード演奏家)論は、
いまどれだけ広まっているのだろうか、と思うところがあって、
書こうかどうしようか、と考えていたところでもあった。

レコード演奏家論がステレオサウンドに掲載されたときから、
全否定に近いものをインターネットで読んだことがある。

全否定していた人の書いているものを読むと、
どこをどう読めば、
レコード演奏家論をここまで歪めて捉えることができるんだろう……、と思いたくなるほどだった。

そこまでひどくはなくても、レコード演奏家論を認めない人は少なからずいる。
もちろんレコード演奏論に積極的な人もいる。
それから、ほぼ無関心という人もいる。

この無関心という人が、私が感じている範囲では、多数のようでもある。

菅野先生が亡くなられて、もうすぐ二年になる。
「レコード演奏家」をオーディオ雑誌で目にすることもそうとうに減ってきたのではないだろうか。

あと数年もすれば、どうなるのか、なんともいえない。

スピーカーからの再生音を録音して、ということに否定的な人は、
おそらくレコード演奏家論にも否定的なのではないだろうか。

今日観てきた映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」では、
これをやっているわけだ。
元の音にない臨場感を生むために、
スピーカーで一度再生して、その音を録音して仕上げている。

録音の現場では、同じようなことは行われている。
デジタルで録音したものを一度アナログに変換して、音をいじる。
その後で、もう一度デジタルに変換して仕上げる。

そこに、デジタルだから、アナログだか、という妙なこだわりはない。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その14)

タンノイ・コーネッタは、昔ながらのスピーカーのスタイルをしている。
コーナー型であり、フロントショートホーンがついていて、ハカマがついている。

いまどきのスピーカーシステムで、こんなスタイルのモノはほとんどない、といっていい。
ここで、このテーマで問題となるのは、ハカマのところである。

ハカマ(台輪)があることで、スピーカー・エンクロージュアの底板と床との空間、
ここは閉じられた空間になってしまう。

ハカマにスリットがあればいいのだが、
コーネッタには、そんなスリットはないから、
ハカマの内側では定在波が発生していて、
聴感上のS/N比を劣化させている。

ハカマのところの空間に、良質の吸音性のものを入れる。
あまり入れ過ぎるのも問題なのだが、
まず入れた状態と入れない状態の音を聴いてみてほしい。

audio wednesdayでは、7月のときからコーネッタのハカマのところには吸音材を入れている。
人が来る前にやっていたので、その変化を聴いていない人のほうが多い。
9月のaudio wednesdayでは、音出しの途中で、これをやった。

私は、コーネッタで三回目、それ以外のハカマ付きのスピーカーでも何度かやったことなので、
いまさら驚きはしないが、それでも、そう多くない吸音材を入れるだけで、
誰の耳にもはっきりとした違いとなってあらわれる。

喉にえへん虫がいる感じが、吸音材をいれる前の音であって、
適切な吸音材を入れれば、このえへん虫はどこかに行ってしまう。

すると、音はすーっと静けさを増す。
そしてみょうなつっかかりがなくなることで、聴感上のfレンジものびる。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その6)

なりたいオーディオマニアになれたのか。

何者か、と問われて、オーディオマニア、と答える私だから、
オーディオマニアになっているわけだが、
そこでの「オーディオマニア」とは、
オーディオに興味をもちはじめたころに、
なんとなくではあってもイメージしていたオーディオマニア像、
そこに近づけたのか、それになれたのか、
という意味での「なりたいオーディオマニアになれたのか」である。

なれたかな、と思うところもあるし、そうでもないかな、とも思うわけで、
選択肢は、つねにいくつかある──、
あの時、別の途を選んでいれば……、とおもう瞬間がまったくない人はいるのだろうか。

それでも、とおもう。
以前書いたことのくり返しになるが、
選べる途もあれば、選択肢として目の前にあっても、
選べない途もある。

それは選ばなかった途とは、当然ながら違う。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 映画

パヴァロッティ 太陽のテノール

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観てきた。
6月公開予定だったのが、コロナ禍の影響で約三ヵ月延び、先週末からようやく公開。

ドキュメンタリー映画なのだが、ドルビー・アトモスでも公開されている。
通常の上映もあるが、ドルビー・アトモスでの上映を観てきた。

冒頭のシーンは、
アンドレア・グリミネッリ(フルート奏者)によホームビデオでの撮影で、
アマゾンの熱帯雨林の中心部にあるオペラハウス、テアトロ・アマゾナスへ向うところである。

目的は、百年前にカルーソーが歌ったテアトロ・アマゾナスで歌いたい、ということだった。
いまならスマートフォンでも、十分きれいな画質で撮れるけれど、
この時は1990年代であって、いい画質ではない。

音も当然のことながら、そのくらいである。
なのに、テアトロ・アマゾナスに着き、舞台で歌うパヴァロッティの歌のシーンだけは、
意外にもいい音である。

ホームビデオのモノーラル音声を、この映画のために、
アビーロードスタジオでスピーカーから再生した音を、12本のマイクロフォンで収録。

録音したものを再生し、もう一度録音している。
こうすることで、モノーラル音源に再生・録音する場の音響が加わり、
ある種の臨場感が生れているようだ。

ドルビー・アトモスの上映だったから、よけいにそう感じたのか。
通常の上映では観ていないので、比較はできないが、
通常の上映とドルビー・アトモス上映は、200円の料金の違いだから、
ドルビー・アトモスのほうがいいように思う。

Date: 9月 6th, 2020
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その2)

輪廻という線、相剋という線がクロスしているのが、
アルファベットのX(エックス)であると、(その1)で書いてからほぼ二年。

クロスしているからこそ、輪廻と相剋のバランスということを考えるし、
大事なのは、クロスしている箇所の位置であり、角度であり、
そして繊細さである。

二本の線は、ただクロスしているだけではないのだから。