複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その22)
スピーカーシステムを役者として捉える考え、
これが正しいかどうかではなく、そういう考えからスピーカーが鳴る、ということを捉えれば、
スピーカーは、その時にかける音楽に応じて演じている、という見方ができる。
スピーカーは演じている。
そんなふうに考えることもできな、と、ここ十年くらい、思うようになってきた。
好きな演奏家のレコード(録音)をかける。
スピーカーから、その演奏家の演奏が流れてくる。
それはスクリーンに映し出された俳優の演技を観ているような感覚が、
まったくない、といえるだろうか。
たとえばグレン・グールドのレコード(録音)をかける。
グールドを演じている、としたら、
グールドを演奏を、単なる模倣で終ってしまっている、としか感じられない程度で、
グールドを演じる役者(つまりはスピーカー)がいる。
映画やドラマをみていると、演技はうまいんだけれども、
感情移入ができない、という役者がいる。
私が感情移入できる役者に、ほかの人も感情移入できるのかどうかは知らない。
私が、ここで考えたいのは、なぜそんなふうに感じ方の違いが生じるのか、である。
映画を観るのは好きだが、
観るのが好き、というところで留めている。
それ以上、深く映画について勉強していこう、とは思っていない。
つまり演技のことについては、まったくの素人であり、
知識らしい知識は持っていない、という逃げ道をまずつくっているのだが、
スタニスフラフスキー・システムというのがあるのを知ったのは、
もう30年以上の前のことだ。
手塚治虫の「七色いんこ」のなかで、スタニスフラフスキー・システムのことが出ていた。