オーディオがオーディオでなくなるとき(その1)
「オーディオがオーディオでなくなるとき」は、
吉田健一氏の「文学が文学でなくるとき」にならってのものであり、
しかも永井潤氏が1982年に、ステレオサウンド別冊Sound Connoisseurで使われている。
オーディオがオーディオでなくなるとは、どういうことなのか。
まずそのことについて書いていかなければならないのだが、
同時に「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」とか、
「オーディオ評論家がオーディオ評論家でなくなるとき」とか、
他にもいくつか「文学が文学でなくなるとき」にならって考えている。
すぐに答が出せそうでいて出せないもどかしさを感じている。
まだはっきりと言葉に変換できないから、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている。
昨夜、友人でオーディオ仲間のAさんと数年ぶりに会って、あれこれ話していた。
オーディオの話もしたし、海外ドラマの話、同世代だけにゴジラやガメラの話などをしていた。
Aさんが以前訪れたことのあるあオーディオマニアのことが話に出てきた。
そのオーディオマニアのことを聴きながら、
その人はオーディオマニアなんだろうか、と思っていた。
そのオーディオマニアの方とは面識がない。
会ったことのない人について書いていることは承知している。
そのうえで、世間一般から見れば、その人はすごいオーディオマニアということになるけれど、
私にはどうにもそう思えない何か、Aさんの話から感じていた。
そんなことがあったので、ふと「文学が文学でなくなるとき」を思い出したし、
「オーディオがオーディオでなくなるとき」について考えてみようと思っているところだ。