Archive for 5月, 2019

Date: 5月 24th, 2019
Cate: High Resolution

Ryozan

MQAを積極的に評価している。
MQAの音に触れる度に、
私の場合は、いまのところメリディアンによるMQAの音に限られているけれど、
それでも、MQAで、さまざまな録音、さまざまな楽器を聴いてみたい、と思うようになる。

そんな私がいま一番聴きたいとおもっているのが和楽器である。
三味線、琴、尺八を、MQAで聴いてみたい。

もちろんただ聴ければいいというわけではない。
優れた録音で、和楽器の音色がどんなふうに再現されるのか、
そこに興味がある。

そんなことをおもってはいても、
和楽器のMQA-CDを探していたわけではなかった。

たまたまtwitterを眺めていたら、
坂田梁山の“Ryozan”が5月に発売になっているのを知った。

知った時点では、MQA-CDだとは知らなかった。
リンク先のウェブページには、MQA×UHQCD仕様とある。

MQAで尺八が聴ける。
もうこれだけで聴きたくなってくる。

二年前に「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」について書いた。

この時はMQA-CDもULTRA DACも218の音を聴いていなかった。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」も、MQAで聴いてみたい。

いままで熱心に聴いてこなかった音楽へ、一歩踏み込む聴き方が出来そうな気がしている。

Date: 5月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その1)

別項「メリディアン 218を聴いた(その12)」に、facebookでコメントがあった。
これまでならば、
「メリディアン 218を聴いた(その12・コメントを読んで)」というタイトルで書くところだが、
そのコメントを読んでいて、そうしなかった。

コメントをくださったTさんは、
私が218について書いてきたものに刺激され、試聴せずに218を購入されたそうだ。

Tさんは、これまでもMQA再生は、試されていたようだ。
MQA-CDではなく、MQAファイルを簡易的な再生で聴かれていた印象と、
218でのMQAファイルの再生とでは、明らかにレベルの違いを感じさせる音になって、
感心した、とあった。

こういうコメントをいただくと、素直に嬉しい。
そして、やっぱりMQAの音の良さを、きちんとわかってくれる人はいる。
この当り前のことがわかって、さらに嬉しい。

Tさんは、MQAフルデコードの音は、
「空気の量が増えた」印象がある、と書かれていた。

この「空気の量が増えた」が、タイトルを変えた理由になっている。

昔から、量感という表現がある。
私がオーディオに興味をもったころには、
もう当り前のように使われていたし、
音を表わす表現としても、かなり以前からあるものと思われる。

けれど、この、わかりやすく思える量感ですら、
人によって捉え方が違う、ということを感じることが増えている。

「空気の量」は、
私も「メリディアン 218を聴いた(その10)」で使っている。

そこでは、ULTRA DACと218の音の違いを表わすために使った。
まだ「メリディアン 218を聴いた」は書いている途中であり、
「空気の量」については、通常のCDとMQA-CDの違いについてでも使おうと思っていた。

そうなのである。
確かに「空気の量」が増す。

218での通常のCDとMQA-CD(私はまだMQAQファイルを聴いていないので)でも、
後者のほうが「空気の量」が増す。
ULTRA DACでも同じである。
MQA-CDでは「空気の量」が増す。

218とULTRA DACを比較すると、ここでも「空気の量」が増す。

この「空気の量」が増す感覚こそが、
私にとっての量感そのものである。

Date: 5月 23rd, 2019
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その7)

その6)を書いたのはほぼ二年前。
どんなことを書いていくのかは、だいたい決めていた。
なので書こうと思えば書けないわけではなかったのに、
ここでも二年経ってしまった。

でも思うのは、ここを読んでいる人のなかに、
手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編を読んでいる人がどのくらいいるのか、だ。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場することは、
(その2)に書いた。

我王は粗野な男だ。
茜丸はそうではない。
風貌も、我王と茜丸はひどく違う。

こんなことを書いていくのか……、とおもって、今日まで書かずにいてしまった。
「火の鳥」鳳凰編を、まず読んでほしい、とおもう。

読んでもらえば、私がここでのテーマで書きたいことは、
ほぼ伝わるはずだ。

「オーディオ(音)は自己表現だ」的なことは、我王ならば絶対にいわない、

Date: 5月 23rd, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その59)

オーディオの想像力の欠如した耳に、
《陽の照った表側よりも、その裏の翳りを鳴らすことで音楽を形造ってゆくタイプの音》は、
どうきこえるのだろうか。

Date: 5月 22nd, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(突破という感覚)

これが9385本目で、10000本まであと少し。
間違いなく、今年中に1000本目を書くことになるけれど、
ここまできても特に達成感のようなものはない。

毎日書いていて、達成感はない、ということは以前書いいるとおり。
それでも、ここに来て、達成感ではないけれど、違うものを少し感じ始めてきた。

突破できたかな、という感覚である。
この感覚は、うまく書けたから得られるものではなく、
あくまでも私一人、感じていることでしかない。

突破できたかな、とか、突破できた、と私が感じているのは、
どれなのかは書かないし、
書いたところで、えっ、これが? と思われることだろう。

うまく書けたかどうかではないから、
読まれている方には理解しにくいことのはずだ。

それでも、この突破という感覚は、
それが小さいものであっても、大事にしたい。

Date: 5月 21st, 2019
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その21)

真空管アンプを自作する、
そこでの塩加減はなんのか。

こじつけなのかもしれないが、ハンダ付けにおけるハンダの量のような気がする。

二十数年前に、知人に頼まれて抵抗とコンデンサーだけの、
いわゆるパッシヴ型のデヴァイダーを作ったことがある。

4ウェイ用で、モノーラル仕様。
シャーシー加工が終り、依頼してきた知人が一台、私が一台を作ることになった。

当然だが、使用部品は同じ。
内部の配線もプリント基板を使わずにラグ端子を使って行った。
配線材は左右チャンネルで同じになるように、線材の長さだけでなく向きも揃えた。

そうやって二台のパッシヴ型のデヴァイダーが出来上った。
ステレオで聴いた後に、スピーカーを一本にしてモノーラルでも聴いてみた。

知人が作ったモノと私が作ったモノとの比較試聴である。
部品が同じだから、基本的には同じ音といえるけれど、
まったく同じ音でもなかった。

ここでの音の違いは、ハンダ付けの違いに起因するとしか思えない。
もちろん同じハンダ(キースター)を使っている。

けれど一箇所あたりのハンダの量は、知人と私とでは違いがあった。
知人のほうが一箇所あたりのハンダ使用量は多かった。

多かったといっても、二倍も違うわけではない。
ハンダの量の違いは、作っている途中で、知人も気付いていた。

ハンダの量は多すぎても少なすぎてもダメであり、
塩加減と同じで、ハンダ付けも一発勝負である。

パッシヴ型のデヴァイダーだから、いくら4ウェイ用とはいえ、
使用部品点数は少ないし、ハンダ付けの箇所も多いわけではない。
真空管アンプに比べれば、ずっと少ない。

それでもハンダ付けでのハンダの量は、
少なからぬ違いとして、音としてあらわれることは事実である。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その20)

塩加減ということで、さらに脱線していけば、
瀬川先生がステレオサウンド 56号で、
JBLのParagonについて書かれた文章から、次のことを引用したくなる。
     *
 おもしろいことに、パラゴンのトゥイーター・レベルの最適ポイントは、決して1箇所だけではない。指定(12時の)位置より、少し上げたあたり、うんと(最大近くまで)上げたあたり、少なくとも2箇所にそれぞれ、いずれともきめかねるポイントがある。そして、その位置は、おそろしくデリケート、かつクリティカルだ。つまみを指で静かに廻してみると、巻線抵抗の線の一本一本を、スライダーが摺動してゆくのが、手ごたえでわかる。最適ポイント近くでは、その一本を越えたのではもうやりすぎで、巻線と巻線の中間にスライダーが跨ったところが良かったりする。まあ、体験してみなくては信じられない話かもしれないが。
 で、そういう微妙な調整を加えてピントが合ってくると、パラゴンの音には、おそろしく生き生きと、血が通いはじめる。歌手の口が、ほんとうに反射パネルのところにあるかのような、超現実的ともいえるリアリティが、ふぉっと浮かび上がる。くりかえすが、そういうポイントが、トゥイーターのレベルの、ほんの一触れで、出たり出なかったりする。M氏の場合には、6本の脚のうち、背面の高さ調整のできる4本をやや低めにして、ほんのわずか仰角気味に、トゥイーターの軸が、聴き手の耳に向くような調整をしている。そうして、ときとして薄気味悪いくらいの生々しい声がきこえてくるのだ。
     *
Paragonのトゥイーター(075)のレベル調整こそ、
まさに塩加減ではないか、とおもう。

料理の塩加減は、一発勝負でやり直しはきかないが、
スピーカーのレベル調整は、必ずしも一発勝負ではない。

ただし、この領域になると、
いいところに決った、と思って、そこでやめることができればいいのだが、
欲深く、さらに……、とあと少しだけ動かしてみたら、だめということがままある。

それで元に戻したら……、とはなかなかならない。
巻線抵抗のアッテネーターは、けっこうヤクザな造りである。

もとに戻したはずなのに、そうはならないのが巻線抵抗である。
とはいえ根気よくやれば、最適ポイントを探しだせる。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その19)

塩加減で思い出すことが、もう一つある。
1980年代に、文春文庫から「B級グルメ」シリーズが出ていた。

そこに四川飯店の陳健民氏(だったと記憶している)が、
自宅でつくるラーメンが、とても美味しい、という記事が載っていた。

どんなスープを使っているのか、とよくきかれるそうだ。
でも使っているのは、醤油と塩だけ、とのこと。
その他の調味料は使っていない。
麺はインスタントラーメンの乾麺を使う、とのこと(記憶違いでなければそうだったはず)。

たったそれだけのラーメンなのに、美味しい。
このときは、自炊もほとんとしていなかったから、理解していたわけではなかった。

でも、自炊を重ねて、ワンポイントしかないといえる絶妙な塩加減のことを体験すると、
陳健民氏のつくるラーメンも、塩加減がほんとうに絶妙だからこその美味しさだったのでは……、
とおもうようになった。

陳健民氏は料理のプロフェッショナルだし、料理の天才なのかもしれないから、
いつでも絶妙な塩加減を再現できるのだろう。

中途半端な記憶なのだが、イタリアでは、
オリーブオイルは金持ちにかけさせろ、
塩は天才にかけさせろ、といわれているらしい。

オリーブオイルはケチケチせずに、
塩は絶妙の塩加減は、天才の領域なのだろう。

ほんとうに、イタリアでそんなことがいわれているのかもあやしいが、
納得できることだ。

この塩加減、
アンプの自作では、何に相当するのか。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その5)

別項「LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その7)」で書いている知人。
彼も、自身をオーディオマニアという。

けれど、私から見れば、
知人はオーディオ機器を頻繁に買い替えるのが趣味の人である。

オーディオに関心も理解もない人からすれば、
知人も立派なオーディオマニアとして映っていることだろう。

むしろ、それだけ頻繁に買い替える、
つまりそれだけお金を、人よりも多くかけているわけだから、
そうとうなオーディオマニアということになろう。

いやいや、彼は買い替えるのが趣味の人だから……、と、
そんなことを私がいったところで、「それでもオーディオマニアでしょ」と返ってくるか、
もしかすると「それこそがオーディオマニアでしょ」といわれるかもしれない。

そんな彼でも、オーディオにそれだけのお金をかけているわけだから、
オーディオが好きなことに違いない、とは思う。

でも、その「好き」と、
私がおもっている「好き」とでは、オーディオに限っても大きく違っている。

「好き」に関しても、人それぞれと(その4)に書いたばかりだから、
知人の「好き」にも理解を示さなくてはならないだろうが、
やはり、どこかで知人の「好き」に関しても、
女性のオーディオマニアの「好き」に関しても、
疑ってしまうところが、私にはある。

つまり「好き」という感情が、こちらに伝わってこないからだ。
この伝え方も、人それぞれであり、
うまく伝えられる人、そうでない人もいるし、
初対面の人に対して、そうそううまく伝えられる人のほうが少ないであろう。

そんなことはわかっている。
けれど、(その1)で紹介した魯珈のカレー、
その2)のAさんの話からは、この「好き」という感情が、
ストレートにこちらに伝わってくる。

しかも、そのストレートぶりは、女性だからこそできることなのかもしれない、
そんなふうにもおもえるからこそ、この項を書いている。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(コメントを読んで・その2)

女性のオーディオマニアが登場したスイングジャーナルは、もちろん読んでいる。
スイングジャーナルの記事として、いつもの内容だった、と記憶している。

ひどい記事だな、と感じたら、それなりに記憶しているものだから、
決してひどくはなかったはずだ。

それでも、その女性のオーディオマニアは、気にくわなかったようだ。
つまり彼女が話したことを、うまく編集部がまとめられなかった、ということだろう。

話したことをそのまま文字に起して、細部を手直ししたくらいで、
雑誌にのせられる内容になることは、まずない。

菅野先生ぐらいである。
菅野先生が一人で話されたことは、テープ起しして、
少しだけ細部を手直しすれば、全体の構成といい、問題なく掲載できる内容に仕上がる。

けれど、私がいたころ、このレベルの人は菅野先生だけだった。
たいてい構成も変えて、かなり言葉も追加して、という作業が必要になる。

スイングジャーナルに、女性のオーディオマニアが話されたことを、
直接聞いたわけではないし、どの程度のことが活字になったのはなんともいえないが、
少なくとも、彼女が、彼女自身が思っているほどにはきちんと話せていなかったのではないだろうか。

彼女のなかでは、こんなふうに話したつもりであっても、
それはあくまでもつもりであって、未熟なものだった気もする。

なにも、このことは、この女性のオーディオマニアの話のレベルが……、ということではない。
たいていの人がそうなのだ、ということをいいたいだけである。

これはセルフイメージと現実とのズレであり、
彼女自身、自分が話したことを冷静に聞き直して、
できればテープ起ししてそれを読んでみれば、
スイングジャーナルの記事に対して、少しは好意的になれた──、とはおもう。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: Jazz Spirit

ジャズ喫茶が生んだもの(Tokyo Jazz Joints)

東京のジャズ喫茶やバーに焦点をあてた写真展『Tokyo Jazz Joints』が、
ドイツ・ベルリンで6月7日から29日にかけて開催される──
というニュースを土曜日に知った。
(参照サイト:『ドイツ・ベルリンで「東京のジャズ喫茶」をテーマにした写真展』)

写真展の会場となるのは、
日本のジャズ喫茶から着想をえたというベルリン市内のジャズ喫茶、とのこと。

ドイツにも、日本のジャズ喫茶があるわけだ。
これもジャズ喫茶が生んだものだ。

Date: 5月 20th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(コメントを読んで・その1)

(その4)にfacebookでコメントがあった。

そこには、セルフイメージのコントロールに関して、
その時代では、女性の方が意識的であった、ということなのかも……と。

セルフイメージのコントロールという表現は考えていなかったけれど、
似たようなことは、この項を書いていて感じていた。

2014年11月の「うつ・し、うつ・す(その4)」で、
小林悟朗さんがいわれたことを取り上げている。

女性は毎日鏡を見る。その時間も男性よりもずっと長い。
つまり小林悟朗さんは、オーディオから鳴ってくる音を鏡として捉えられていて、
オーディオマニアにとって音を良くしていく行為は、
鏡を見て化粧することで、女性が自分自身を美しくしていく行為に近いのではないか──、
という考えを話してくれた。

だとしたら、毎日長い時間鏡の前にいる女性には、もうひとつの鏡であるオーディオは必要としないのではないか。

女性のオーディオマニアが極端に少なく理由についての、
小林悟朗さんの考察を、この項を書いていて思い出していた。

そのことに触れるつもりはなかった。
書き始めると、またテーマから逸れてしまうことになるからだ。

でもコメントを読んで、少しだけ書こう、という気になった。

化粧も、セルフイメージのコントロールといえよう。
確かに、女性はセルフイメージのコントロールに関しては、意識的であろう。

1985年当時は、男性で化粧する人は珍しかったけれど、
最近では、男性でもセルフイメージのコントロールに関しては、
そうとうに意識的な人が増えているんだろうなぁ、と思いつつも、
スイングジャーナルとステレオサウンドに登場した女性のオーディオマニアは、
どんなセルフイメージを抱いていたのだろうか、その当時は。

Date: 5月 19th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その4)

なんでもスイングジャーナルに掲載された内容に満足していないから、らしかった。
スイングジャーナルの記事は、その女性のオーディオマニアの書き原稿ではなく、
彼女が話したことを編集部がまとめてのものだった。

そのまとめが気にくわなかったか、
ステレオサウンドに対しても、そんなことにならないように事前にチェックしたい、と。

私のまとめに満足していただけたようで、問題ない、との返事だった。

スイングジャーナルの記事よりも、だから私にとって、
この女性のオーディオマニアの第一印象は、このことが大きく関係している。

彼女はその後、読者代表ということで、
井上先生の使いこなしの記事にも登場している。
この記事の担当も私である。

その数ヵ月後に、井上先生の記事に一緒に登場した、もう一人の読者代表の人と二人で、
彼女のリスニングルームに行き、音も聴いている。
何度か、それからも会っている。

このブログで、何度も、人それぞれだ、と書いてきている。
ほんとうに、人それぞれだと思っている。

オーディオマニアに限っても、人それぞれであり、
同世代、世代が近くても、人それぞれだなぁ、と深い溜息をつきたくなることもある。

いい意味でも悪い意味でも、人それぞれであることを、
歳を重ねされば重ねるほど実感してきているわけだから、
彼女一人を例に挙げて、女性のオーディオマニアは……、ということはいえないのは承知している。

それでも、この女性のオーディオマニアの「好き」という感情を、
どこかで疑ってしまいたくなる。

ほんとうに彼女はオーディオが好きなのか。
この「好き」に関しても人それぞれなのはわかっていても、そう感じてしまう。

Date: 5月 19th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その3)

女性のオーディオマニアは少ない。
音楽好きの女性は多いのに、
オーディオに凝っている人となると、極端に少なくなってしまうのはなぜか、
ということは、ずっと以前から語られ続けられていることだ。

その理由について、いろんな人がそれぞれに語っているけれど、
なぜだか極端に少ない、としかいいようがない。

そのせいか、女性のオーディオマニアは珍しがられる。
オーディオ雑誌に登場すれば、注目を集める。

1985年のスイングジャーナルに、一人の女性のオーディオマニアが登場した。
数ヵ月後、ステレオサウンドのベストオーディオファイルに、その女性が登場した。

菅野先生のベストオーディオファイルが始まったとき、
そのまとめは編集顧問のYさんだった。
その次が編集部のNさんだった、と記憶している。

1985年ごろは私がまとめをやっていた。
菅野先生と取材に行くのは、編集次長だった黛さんだった。

カセットテープに録音された菅野先生とオーディオマニアとの会話を文字起し、
規定の文字数にまとめる編集作業を、1985年ごろから辞めるまでは私がやっていた。

その女性のオーディオマニアの回も、私がまとめていた。
こんなことを書いているのは、その女性のオーディオマニアだけが、
掲載前に原稿をチェックしたい、と言ってきたからだ。

私がまとめをやっていた約四年間で、こんなことを言ってきたのは、
彼女が初めてだった。
それ以前にもいなかったし、それ以降もいない。
少なくとも1988年まではいなかった。

Date: 5月 19th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その2)

魯珈のことを書く気になったのは、
別項「会って話すと云うこと(その24)」でのことがきっかけになっている。

一次会のお終りまぎわに、オーディオという単語に反応した人がいた。
十一人の参加者中、女性は三人。
オーディオに反応した人は、女性(Aさん)だった。

田口スピーカーを、知っています?」という反応だった。
反応があったことも意外だったけれど、
田口スピーカーを鳴らしている、ということも意外だった。

一次会では、その女性と私が坐っていた席は、けっこう離れていた。
音楽好きな人だということは、聞こえてくる会話でわかっていた。
それでも、音に強い関心があるとは、一次会ではわからなかった。

二次会では、たまたま隣の席だった。
Aさんは、iPhoneに収められている写真を見せてくれた。

「これなんですよ」と言いながら見せてくれた写真に写っていたのは、
私が勝手に想像していたスピーカーよりも、ずっと大型というか、
そうとうに大型のフロアー型だった。

しかも専用のリスニングルームといえる空間に、
写真だけ見せられれば、
そうとうなオーディオマニアの部屋だと思ってしまうほどの雰囲気であった。

隣に坐っているAさんは、私よりも二つ下。
小柄であり、そんなふうには見えなかっただけに驚いただけでなく、
Aさんは、写真をいくつか見せてくれながら、楽しそうに語ってくれる。

Aさんは、女性のオーディオマニアなわけではない。

音楽がとても好きで、何かのきっかけで田口スピーカーと出逢い、
衝動買いしてしまった、とのこと。

田口スピーカーのラインナップには、けっこう数がある。
比較的小型のスピーカーがあるのは知っていたから、てっきりそれだと思っていた。

写真にあったのは、オーダーメイドに近いモノのようだった。