自己表現と仏像(その7)
(その6)を書いたのはほぼ二年前。
どんなことを書いていくのかは、だいたい決めていた。
なので書こうと思えば書けないわけではなかったのに、
ここでも二年経ってしまった。
でも思うのは、ここを読んでいる人のなかに、
手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編を読んでいる人がどのくらいいるのか、だ。
鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場することは、
(その2)に書いた。
我王は粗野な男だ。
茜丸はそうではない。
風貌も、我王と茜丸はひどく違う。
こんなことを書いていくのか……、とおもって、今日まで書かずにいてしまった。
「火の鳥」鳳凰編を、まず読んでほしい、とおもう。
読んでもらえば、私がここでのテーマで書きたいことは、
ほぼ伝わるはずだ。
「オーディオ(音)は自己表現だ」的なことは、我王ならば絶対にいわない、