好きという感情の表現(コメントを読んで・その2)
女性のオーディオマニアが登場したスイングジャーナルは、もちろん読んでいる。
スイングジャーナルの記事として、いつもの内容だった、と記憶している。
ひどい記事だな、と感じたら、それなりに記憶しているものだから、
決してひどくはなかったはずだ。
それでも、その女性のオーディオマニアは、気にくわなかったようだ。
つまり彼女が話したことを、うまく編集部がまとめられなかった、ということだろう。
話したことをそのまま文字に起して、細部を手直ししたくらいで、
雑誌にのせられる内容になることは、まずない。
菅野先生ぐらいである。
菅野先生が一人で話されたことは、テープ起しして、
少しだけ細部を手直しすれば、全体の構成といい、問題なく掲載できる内容に仕上がる。
けれど、私がいたころ、このレベルの人は菅野先生だけだった。
たいてい構成も変えて、かなり言葉も追加して、という作業が必要になる。
スイングジャーナルに、女性のオーディオマニアが話されたことを、
直接聞いたわけではないし、どの程度のことが活字になったのはなんともいえないが、
少なくとも、彼女が、彼女自身が思っているほどにはきちんと話せていなかったのではないだろうか。
彼女のなかでは、こんなふうに話したつもりであっても、
それはあくまでもつもりであって、未熟なものだった気もする。
なにも、このことは、この女性のオーディオマニアの話のレベルが……、ということではない。
たいていの人がそうなのだ、ということをいいたいだけである。
これはセルフイメージと現実とのズレであり、
彼女自身、自分が話したことを冷静に聞き直して、
できればテープ起ししてそれを読んでみれば、
スイングジャーナルの記事に対して、少しは好意的になれた──、とはおもう。