Archive for 4月, 2017

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その5)

二つのモダリティが満たされていると、人の認識は本物と錯覚する、ものらしい。
ある人の声をスピーカーから再生しても、その人本人がしゃべっているとは勘違いしないが、
そこにもうひとつのモダリティ、たとえばその人の匂いが加わると、
その人本人がしゃべっていると勘違いする、とのこと。

話している人を実際に知っているという前提が、ここにあるわけだが、
「攻殻機動隊」のハリウッド・実写版「GHOST IN THE SHELL」を観ていて、
ここにスカーレット・ヨハンセンの匂いが加わったら……、と想像していた。

スカーレット・ヨハンセンと会ったことはないから、
匂いが加わったとして、それが本人の匂いかどうかは判断できないし、
それにスクリーンに映し出されているのは、スカーレット・ヨハンセンか演じている少佐であり、
その少佐の匂いは、どう設定されているのか。

MX4Dは匂いもつくようだ。
IMAXで観ながら、MX4Dだとどうなんだろうか。
匂いが加えられているのか──、
と思いつつも、「GHOST IN THE SHELL」の少佐は全身義体(脳だけが本人のものである)。

匂いなど、そこにはないのかもしれない。
そう思わせるシーンもあった。

字幕版を観たから、こんなことを考えたのかもしれない。
吹替え版では、ひとつめのモダリティからして違ってくるわけだから。

Date: 4月 15th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その35)

私の手元には、長岡鉄男氏の文章が載っているオーディオ雑誌はほとんどない。
それでも数冊はある。

その中の一冊、別冊FM fanの17号(1978年春号)、
特集記事は「プレイヤーはこうあるべきだ マイ・プレイヤーを語る」と
「最新カートリッジ26機種フルテスト」である。
つまりアナログプレーヤーの特集である。

巻頭の、カラーの見開きページには、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用プレーヤーが紹介されている。

この記事で、長岡鉄男氏は、冒頭にこう書かれている。
     *
 プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く。そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
トータルバランスという単語は、二ページの文章中四回登場する。
見出しにも、「トータルバランスを狙うこと」とある。

もう一冊、ラジオ技術の1997年1月号、
アンケート特集「ケーブルについてこう考える」でも、
長岡鉄男氏はバランスということについて触れられている。
     *
 金があり、あまっている人は別として、一般のユーザーは装置とのバランスで適当なケーブルを使うべきだ。ちなみに筆者の使用ケーブルは、価格的には一般ユーザーの水準をはるかに下回るものである。
     *
まっとうなことを書かれている。
その33)で引用したところにも、
598のスピーカーのアンバランスであることを指摘されているのは、
その流れで考えれば、ごく当り前のことであるわけだが、
ならばなぜ、598のスピーカー全盛のころ、
スピーカーシステムもトータルバランスが重要である、と書かれなかったのか、
そして実際の598のスピーカーのアンバランスさを指摘されなかったのかが、
疑問として残る。

おそらくというか、間違いなく、
長岡鉄男氏はスピーカーシステムもトータルバランスが重要であると考えられていたはずだ。

Date: 4月 14th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その4)

GHOST IN THE SHELL」の公開から一週間。
インターネットには、さまざまな人によるさまざまな評価が、けっこうある。

映画を観た後で読むと、
高く評価している意見についても、そうでない意見についても、納得できるところがある。

原作としてのマンガがあり、
同名のアニメ映画があるのだから。

それらの映画評を読んで思うことは、
この人は、どのフォーマットで「GHOST IN THE SHELL」を観たのだろうか、だ。

配給会社の試写室は、おそらく通常の2Dなのだと思う。
2Dの字幕版なのか、3Dの字幕版か。
IMAX版、MX4D版なのか。

どの版で観ても、映画そのものの評価は本質的に変らない。
けれど、テクノロジーが生み出す官能性ということに関しては、
大きく違ってくるばずだ(2D版で観てないので断言はできないけれど)。

今回は字幕版を観たわけだが、これがこのことに関しては良かったように思われる。
吹替え版も観たいと思っているが、
スカーレット・ヨハンソンの声が吹替えであったなら、官能性を感じただろうか。

昨晩は、その官能性にしばらくは圧倒されていた。
同時に、昨年度のKK塾での石黒浩氏の話も思い出していた。

モダリティと、その数についてである。

Date: 4月 14th, 2017
Cate:

いい音、よい音(続あるアルバムから)

グッド・ミュージックとバッド・ミュージック。
ミュージックのところを別の単語に置き換える。

そうすると、
バッド・ミュージシャンのミュージシャンも、別の単語に置き換えられる。

バッド・ミュージシャンをバッド・リスナーとしてみると、
グッド・ミュージックは、何に置き換えられるのか。

グッド・ミュージックのままでもいいし、
グッド・サウンドでもいいような気がする。

ミュージックもミュージシャン、
どちらもリスナーに置き換えられる。

けれど、
オーネット・コールマンの
「音楽はすべてグッド・ミージックだ、ただしバッド・ミュージシャンがいる」は、
ジャッキー・マクリーンの
「音楽にはグッド・ミュージックとバッド・ミュージックの二つしかない」を受けてのものである。

このことを前提として置き換えるのなら、
グッド・リスナーとバッド・リスナーとして場合に、
バッド・ミュージシャンのところは、どう置き換えるのか。

バッド・リスニング(悪い聴き方)になるのだろうか。

Date: 4月 13th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その3)

観たい映画があっても、昔と違い、いまは場合によっては選ばなくてはならない。
字幕なのか吹替えなのか。
映画によっては3Dにするのかどうか。

さらにはドルビーアトモスを選べるものもあるし、
IMAX、MX4Dまである場合も。

昔のように2D、字幕しか選択肢がなかった時代とは違う。

GHOST IN THE SHELL」には、
字幕、吹替えがあって、2Dと3D、さらに3DはIMAX、MX4Dがあって、
当然、料金は違ってきて、3D、MX4Dでは三千円をこえる。

シネコンでは、時間帯によって、どれを上映しているかが加わる。
結局、IMAXの3D、字幕版の「GHOST IN THE SHELL」を観た。

IMAXの3Dは、今回が初めての体験である。
今日まで3D用のメガネが、通常の3DとIMAXとでは違うことも知らなかった。

私はどちらかといえば前寄りの席で観る。
今日は前から五列目。
入って、スクリーンの大きさからすると、前過ぎたかな、と思った。
シネコンだから席は、もう変えられない。

でも、このくらい前で良かった。

「GHOST IN THE SHELL」の映画としての出来が格段優れているとはいわない。
それでも、この映画は、再生音について考えさせられる。

再生音といっても映画館の音についてではなく、
オーディオの再生音についてである。
その再生音の官能性ということについて、である。

スカーレット・ヨハンソン演じる少佐が映るたびに、
映画のテクノロジーがここまで進化したことによる官能性の描写を感じていた。

これまでも映画の中に官能性といったことを感じなかったわけではない。
でも今回の「GHOST IN THE SHELL」で感じた官能性は、
これまでの映画(つまり映画の基本フォーマット、2Dでの上映)では再現できない──、
そう思わせる類の官能性である。

Date: 4月 12th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの「本」(ある出版社の買収・その2)

カルチュア・コンビニエンス・クラブによる徳間書店の買収のニュースのあとに、
KK適塾の五回目はあった。

KK適塾で対話について、
ビッグデータをベースにした対話、
ストーリーをベースにした対話、
という話があった。

ビッグデータをベースにした対話の代表的な例は、
iPhone(iOS)に搭載されているSiriである。
Siriはインターネットという環境があるからこそ成立する技術である。
そして、そこでの対話は一問一答が基本である。

ここがストーリーをベースにした、いわゆる対話との大きな違いでもある。

雑誌は対話なのか。
そんなことをKK適塾五回目で思っていた。

ビッグデータをベースにした雑誌編集は、
そういうことになっていくように予想できる。

雑誌が面白かったのは、ストーリーをベースにしていた、
ストーリーの共有が、編集者と読者とのあいだにあったからなのかもしれない──、
このことも思っていた。

Date: 4月 12th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その1)

スピーカーの風貌は、他のオーディオコンポーネント以上に気になる。
サランネットをつけて聴けば、そんなこと気にならないだろう──、
そうとも思うけれど、そうでもないこともある。

例えばスペンドールのBCII。
サランネットをつけて聴くことを前提としたフロントバッフルの仕上げである。
サランネットを外した状態をすぐにイメージできるけれど、
その音を聴いていると、サランネット付きの姿しか目に入らない。

その一方で、サランネットをつけた状態で聴いていても、
サランネットを外した姿に気になってしまうスピーカーがいくつもある。

自分でもなぜだろう? と思い続けている。
しかもサランネットなしの姿が気になって仕方ないスピーカーに限って、
サランネットを外した状態の音が標準と思われる。
フロントバッフルもきちんと仕上げがなされたりしている。

サランネットがあろうとなかろうと、その姿が気になるスピーカーの代表格が、
私にとってはJBLのDD66000である。

60周年記念モデルとして発表された写真を見た時から、
優れたデザインとは少しも思えなかった。

1998年にAppleからiMac(ボンダイブルーの最初のモデル)に感じたこと、
それに近いことを感じていた。

しばらくして知人宅でじっくりと聴く機会があった。
きちんとセッティングをつめていけば、なるほどいいスピーカーだ、と感じた。

その感じは聴き進むにつれて強くなる。
と同時に、DD66000の姿が耐えられなくなってもきた。

DD66000はサランネットありとなしの音の違いは、かなり大きい。
一度外した音を聴いてしまうと、つけた音は聴きたくない。

ならば目をつぶって聴けば? となる。
たいてい目を瞑って聴いている。
それでもDD66000の姿が浮んできて、
DD66000がのそのそと前に歩き出しそうな感じすらしてきた。

ここまでくると、聴いているのが気持悪くなってきた。
初めての体験だった。

Date: 4月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その2)

オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、小説も書いていた。
何本かは読ませてもらった、というか、読まされたことがある。

彼は芥川賞が欲しい、とストレートに語っていた。
そのための努力といえることは熱心にやっていたように見えた。

でも、どこか的外れの努力にしか見えなかったけれど、
彼は芥川賞が欲しいから小説を書いているのか、
小説を書くことが彼にとって、なんらかの意味を持つことだからなのか、が、
いつのころからか曖昧になっていたように思う。

彼は才能ある男だ、と自分でも思っているし、
少なからぬ周りの人たちもそう思っていたようだ。

私は、彼は周りの人たちの才能を部分的にトレースするのが得意な人と見ていた。
それもひとつの才能であろう。

彼がトレースしたものを知らない人にとっては、
彼は才能ある男ということになるが、
その元を知っている人たちは、彼のことをそうは見なかった。

彼がその後どうなったのかは良くは知らない。
小説を出版できたのだろうか。

小説家になっていたとして、彼は何かを生み出したといえるのだろうか。

Date: 4月 11th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの「本」(ある出版社の買収・その1)

3月下旬に、徳間書店が、
TUTAYAを運営しているカルチュア・コンビニエンス・クラブの子会社になった、
というニュースがあった。

いまコンビニエンスストアだけでなく、かなりの業種の小売店で、
「Tポイントカードは……」と会計の度にきかれる。

私はもっていないけれど、それだけTポイントカードは多くの人が持っているのだろう。
Tポイントカードが使われるごとにカルチュア・コンビニエンス・クラブが得られる情報は、
いわゆるビッグデータなのだろう。

そのデータの活用方法のひとつとして、出版を考えているのだろうか。
データに基づいた本づくりを行えば、うまくいくのだろうか。

そうやって新雑誌が創刊されるのだろうか。
新雑誌とまでいかなくとも、既存雑誌のリニューアルが行われるのだろうか。

出版不況といわれているだけに、そういうやり方で雑誌がつくられていくかもしれない。
大当りするかどうかはわからないが、少なくとも大きく外してしまう、
極端に売行きの悪い雑誌にはならない──、のかもしれない。

でも、そうやってつくられた雑誌は、面白いだろうか。
雑誌好きの読み手を満足させるのだろうか。

オーディオ雑誌もそうやってつくられるようになるのだろうか。

Date: 4月 11th, 2017
Cate:

いい音、よい音(あるアルバムから)

「音楽にはグッド・ミージックとバッド・ミュージックという二つのジャンルしかない」、
いいまわしは微妙に違っていても、わりとみかけることがある。

あの人がいっていたとか、
自分で思いついたように書いてあったりするが、
グッド・ミージックとバッド・ミュージックについて語っているのは、
ジャッキー・マクリーンが、私の知っている範囲ではもっとも古い。

ジャズに明るくない私だから、詳しいことは知らないが、
オーネット・コールマンを迎えたアルバムのライナーノートに、
この言葉は載っている、とのこと。

となると”NEW AND OLD GOSPEL”ということになるのか。
このディスクを持っていないから、確かめようがないが、
そうだとすれば、1968年のこととなる。

どこかで見たことを、自分で思いついたようにいうことを書きたいわけではなく、
そのライナーノートで、オーネット・コールマンは、それを否定していた、ということ。

オーネット・コールマンは、
「音楽はすべてグッド・ミージックだ、ただしバッド・ミュージシャンがいる」と。

そうかも、と思うだけでなく、
ふたりの言葉は、音楽だけでなく、他の分野にもあてはまる。

Date: 4月 10th, 2017
Cate: ディスク/ブック

「ガラスの靴」

安岡章太郎氏の小説は、なにひとつ読んでいない。
いまごろ気づいたわけではない。
小説以外のものはいくつか読んでいるし、
インタヴューもいくつか読んでいる。

けれど小説は読むこと(手にとること)はなかった。

世の中には多くの小説家がいて、
どれか一冊でも読んだことのある小説家よりも、
一冊も読んだことのない小説家の方が多いという人はかなりいると思う。

なぜ、いまになって……、と自分でも不思議に思う。
けれど、急に読みたくなった。

何を読むか。
出世作といわれ、三つある処女作のひとつである「ガラスの靴」を選んだ。
「ガラスの靴」という小説があることだけは知っていた。

でも、「ガラスの靴」ということばのもつ響きが、
なんともある種の古くささを、いまでは感じさせていて、手にとることはなかった。

今日買ってきたばかりで、これから読むところだ。
少なからぬ人がそうであるように、私もあとがきを最初に読む。

「ガラスの靴」(講談社文芸文庫)の巻末には、
「作者から読者へ」という、いわばあとがきといえるものがある。
     *
 この発見、というか自己認識は、私としては初めて知った面白いあそびであった。それまでの私は、小説といえば出来るだけ現実から遠い世界を描くべきであり、現実の自己からは隔離した架空の〝自己〟を設定して、彼によって架空の自己主張を展開すべきものだと考えていた。なぜこんな奇妙な小説理論(?)を作り上げたか、それについて説明している余裕はいまはない。ただ、反現実主義の思考は、戦時下に育った青年にとってはそんなに奇異なものではなく、かなり一般的に認められる傾向ではなかったろうか。ところで、この自己認識というあそびを覚えると私は、それまでの反現実主義の小説論は馬鹿ばかしいものに思われてきた。実際、小説を書くためにわざわざ架空の自己など設定しなくとも、自己というのはそれ自体が〝架空〟と見えるほど奥深いものであって、それを探ることは生じっかな小説を書くことよりも、もっとずっと小説的な作業ではないか。
     *
安岡章太郎氏をオーディオマニアといっていいのかどうかはよくわからない。
けれど、レコード(録音物)で音楽を聴くことに無関心だったわけではない。
強い関心をもたれていた、と思っている。

どういうシステムだったのかは知っている。
そのこととつながっていく気がしている。

それに、このことは別項「評論家は何も生み出さないのか」とも関係してくるだろう。

Date: 4月 9th, 2017
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その7)

現在の話ではなく、昔のことだ。
私が熱心にステレオサウンドを読んでいたころのことだ。

ステレオサウンドのライバル誌は、どれだったのか。
同じ季刊誌であった別冊FM fan、オーディオアクセサリーだったのかといえば、
そうではなく、月刊誌のスイングジャーナルであった。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌、
スイングジャーナルはジャズの雑誌であり、
同じジャンルの雑誌とはいえない面もあるけれど、
オーディオのことだけに絞っても、スイングジャーナルがライバルてあった、といえる。

おそらくスイングジャーナル編集部も、
ステレオサウンドをライバルとみていたであろう。

ステレオサウンドとスイングジャーナルは、違う。
上に挙げたこと以外にも違いはある。

私がいちばん違うと感じていたのは、読者との関係である。
そのころのスイングジャーナルには、「読者の頁」というのがあった。

交歓室、バンド・スタンド、SJアンテナ、私も評論家、なんじゃもんじゃ博士、質問室、
売買交換室から構成されたページであった。
10数ページあった。

ステレオサウンドには、この手のページは、ほとんどなかった。
オーディオ機器の売買欄はあったけれど、
それ以外の、読者の感想、意見、提案などを語れるページはなかった。

私は「読者の頁」のように読者が積極的に関われる記事があるのを、
毎号、必ずしも必要とは考えていない。
むしろ、当時、読者だったころは必要ない、とも思っていたし、
ステレオサウンドの編集に携わっていたころも、そう考えていた。

けれど、いまになって「読者の頁」について考えている。

Date: 4月 9th, 2017
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その23)

その22)で終りのつもりだった。
なので、この(その23)は蛇足のようなもの。

「グレン・グールドのピアノしか聴かない」、
そう言葉にしてしまう人は、
グレン・グールドによって演奏されたバッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスなど、
つまりは音楽を欲しているのではなく、
グレン・グールドによってなされた演奏を、
知的アクセサリーのようなものとして欲しているだけなのかもしれない。

私に似合うのは、グレン・グールドだけ──、
いいかえると、そういうことのような気もする。
「グレン・グールド」のところを、他の固有名詞に置き換えてみる。

有名ブランドに置き換える。
「聴かない」を「身につけない」に置き換える。
はっきりとしてくる。

ただ、特定の音楽を知的アクセサリーとして扱うことは、
己をデコレーションしていくだけでしかない。
デザインしていくことではなく、そこから離れていくだけだ。

Date: 4月 8th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その1)

先日、facebookでのコメントに、
批評家は何も生み出さない──、といった趣旨のことが書かれてあった。

このことは昔からいわれていることでもある。
批評家(評論家)は、他人がつくったものを批評するだけ。
批評家は、だから作家ではない、と。

確かにそうとはいえる。

小説を、詩を、歌を、音楽を……、
文化面だけでなく自動車やスピーカーやアンプといったハードウェア、
ほぼすべての分野に批評家・評論家と呼ばれている人たちがいて、
何かを書いたり発言している。

批評家・評論家(ここではあえて区別はしない)の書いたものは、
一応彼らが生み出したものといえなくはないが、
もちろんここでの、「何も生み出さない」という意味とは違うといえばそうである。

でも、ほんとうにそうだろうか、と思うわけだ。
ここではオーディオ、音楽の批評家・評論家が何も生み出さないのかについてだけ書く。

現在のオーディオ評論家と呼ばれている人たちについてはあまり知らないが、
私が先生と呼んでいる人たちは、実のところ、いくつかのオーディオ機器を生み出している。

生み出している、とまでいえないとしてもかなり深く携わっている例をいくつも知っている。
その中にはかなりベストセラーになったモデルもあるし、
そのメーカー独自の技術と呼ばれているものもある。

公になっていれば具体的に挙げるのだが、ここでは控えておく。

とはいえ、そういうのは例外だろう、といわれれば、そうかもしれない。
事実、いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちが、そういうことをやっているとは聞かない。

Date: 4月 7th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その11)

どちらが正しいという類のことではない──、
そう書いておきながら、私自身が毎日こうやって書いているのは、
正しい答を求めての行為なのか、と自問するわけだが、
少なくとも、この項で問うていることについては、
正しい答ではなく、完璧な答を求めて──といえる。

正しい答ではなく完璧な答。
こう書いてしまうと、よけいに何を言っているのか、と思われそうだが、
正しい答とはいわば客観的な答なのではないだろうか。

そんな答を求めているわけではない。
あくまでも主観的な答であり、
その答は己が心底納得できるのであれば、それは私にとって完璧な答であり、
その完璧な答と、いま思えたことが、十年後も二十年後も納得できるのであれば、
私にとっての完璧な答であり、それでいいと思っているのだから、
世間一般の「完璧な」からイメージされるのと違い、
あくまでも主観的な、徹底した主観的な答としての完璧な答。

それがあればいい。
自恃とはそういうことだろう。