評論家は何も生み出さないのか(その1)
先日、facebookでのコメントに、
批評家は何も生み出さない──、といった趣旨のことが書かれてあった。
このことは昔からいわれていることでもある。
批評家(評論家)は、他人がつくったものを批評するだけ。
批評家は、だから作家ではない、と。
確かにそうとはいえる。
小説を、詩を、歌を、音楽を……、
文化面だけでなく自動車やスピーカーやアンプといったハードウェア、
ほぼすべての分野に批評家・評論家と呼ばれている人たちがいて、
何かを書いたり発言している。
批評家・評論家(ここではあえて区別はしない)の書いたものは、
一応彼らが生み出したものといえなくはないが、
もちろんここでの、「何も生み出さない」という意味とは違うといえばそうである。
でも、ほんとうにそうだろうか、と思うわけだ。
ここではオーディオ、音楽の批評家・評論家が何も生み出さないのかについてだけ書く。
現在のオーディオ評論家と呼ばれている人たちについてはあまり知らないが、
私が先生と呼んでいる人たちは、実のところ、いくつかのオーディオ機器を生み出している。
生み出している、とまでいえないとしてもかなり深く携わっている例をいくつも知っている。
その中にはかなりベストセラーになったモデルもあるし、
そのメーカー独自の技術と呼ばれているものもある。
公になっていれば具体的に挙げるのだが、ここでは控えておく。
とはいえ、そういうのは例外だろう、といわれれば、そうかもしれない。
事実、いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちが、そういうことをやっているとは聞かない。