「ガラスの靴」
安岡章太郎氏の小説は、なにひとつ読んでいない。
いまごろ気づいたわけではない。
小説以外のものはいくつか読んでいるし、
インタヴューもいくつか読んでいる。
けれど小説は読むこと(手にとること)はなかった。
世の中には多くの小説家がいて、
どれか一冊でも読んだことのある小説家よりも、
一冊も読んだことのない小説家の方が多いという人はかなりいると思う。
なぜ、いまになって……、と自分でも不思議に思う。
けれど、急に読みたくなった。
何を読むか。
出世作といわれ、三つある処女作のひとつである「ガラスの靴」を選んだ。
「ガラスの靴」という小説があることだけは知っていた。
でも、「ガラスの靴」ということばのもつ響きが、
なんともある種の古くささを、いまでは感じさせていて、手にとることはなかった。
今日買ってきたばかりで、これから読むところだ。
少なからぬ人がそうであるように、私もあとがきを最初に読む。
「ガラスの靴」(講談社文芸文庫)の巻末には、
「作者から読者へ」という、いわばあとがきといえるものがある。
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この発見、というか自己認識は、私としては初めて知った面白いあそびであった。それまでの私は、小説といえば出来るだけ現実から遠い世界を描くべきであり、現実の自己からは隔離した架空の〝自己〟を設定して、彼によって架空の自己主張を展開すべきものだと考えていた。なぜこんな奇妙な小説理論(?)を作り上げたか、それについて説明している余裕はいまはない。ただ、反現実主義の思考は、戦時下に育った青年にとってはそんなに奇異なものではなく、かなり一般的に認められる傾向ではなかったろうか。ところで、この自己認識というあそびを覚えると私は、それまでの反現実主義の小説論は馬鹿ばかしいものに思われてきた。実際、小説を書くためにわざわざ架空の自己など設定しなくとも、自己というのはそれ自体が〝架空〟と見えるほど奥深いものであって、それを探ることは生じっかな小説を書くことよりも、もっとずっと小説的な作業ではないか。
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安岡章太郎氏をオーディオマニアといっていいのかどうかはよくわからない。
けれど、レコード(録音物)で音楽を聴くことに無関心だったわけではない。
強い関心をもたれていた、と思っている。
どういうシステムだったのかは知っている。
そのこととつながっていく気がしている。
それに、このことは別項「評論家は何も生み出さないのか」とも関係してくるだろう。