何を欲しているのか(その22)
グレン・グールドのピアノしか聴かない人がいる、という話は、
黒田先生の著書「音楽への礼状」のグールドの章のところに出てくる。
この、グールドについて書かれた章で、黒田先生は”A Glenn Gould Fantasy”について、ふれられている。
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戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
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グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy”は聴かない。
そうだとしたら、グールドしか聴かないグールドの聴き手には、真剣に戯れる余裕がないのかもしれない。
グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そう口にした人は、なぜわざわざ、こんなことをいってしまうのか。
グレン・グールドのピアノしか聴かない、ということで、
なにかをアピールしたいのだろうが、そのアピールしたいことは、
別の、グレン・グールドのピアノしか聴かない人にとって、
アピールしたいことはそのまま伝わり同意を得られるだろうが、
“A Glenn Gould Fantasy”を聴いて楽しみ、グルダのピアノも聴き、もちろんそれだけではない、
他のピアニストの演奏も聴いてきている人にとっては、
「グレン・グールドのピアノしか聴かない」によって、このことばを発した本人がアピールしたいことには、
同意はできないし、窮屈なものを感じてしまうのではないだろうか。
グレン・グールドのピアノしか聴かないことの窮屈さから、
「感情の自由」は追い出してしまうし、押し殺してしまうことにもなるのではないか。
そうやって、本人だけが気づかぬうちに、音楽の聴き手としての「感情の自由」をなくしてしまう。