Archive for 1月, 2014

Date: 1月 6th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その1)

300Bとは、ウェスターン・エレクトリックの直熱三極管のことであり、
真空管にほとんど関心のない人でも、一度は、この型番を耳にしたことがあることだろう。
もっとも有名な(少なくとも日本では)真空管である。

300Bはずっと以前は幻の真空管だった、ときいている。
存在は知られていても、実際に手に入れるにはかなりの苦労があった、らしい。

ステレオサウンド 8号の新製品紹介のページ「話題の新製品を診断する」の扉に、
瀬川冬樹の文字がある。珍しいことである。

瀬川先生が、このころのステレオサウンドの新製品紹介のページに登場されたのは、
これぐらいではなかろうか。
ここで瀬川先生が担当されているのは、ステレオギャラリーQのパワーアンプである。

ステレオギャラリーQの名を見て、すぐに300Bのシングルアンプを思い浮べられる人は、
いまでは少なくなったのかもしれないが、
1968年当時、ウェスターン・エレクトリックの300Bを採用したアンプとして話題になっていて、
そのことは、その約10年後にオーディオに入ってきた私でも、割と早く知っていたぐらいである。

そこに瀬川先生はこう書かれている。
     *
かつて八方手を尽してやっとの思いで三本の300Bを手に入れて、ときたまとり出しては撫で廻していた小生如きマニアにとって、これは甚だショックであった。WE300Bがそんなにたくさん、この国にあったという事実が頭に来るし、それを使ったアンプがどしどし組み立てられて日本中にバラ撒かれるというのは(限定予約とはいうものの)マニアの心理として面白くない。そんなわけで、試聴と紹介を依頼されて我家に運ばれてきたアンプを目の前にしても、内心は少なからず不機嫌だった。ひとがせっかく大切に温めて、同じマニアの朝倉昭氏などと300Bの話が出るたびに、そのうちひとつパートリッジに出力トランスを特注しようや、などと気焔をあげながら夢をふくらませていたのに、俺よりも先に、しかもこう簡単に作られちゃたまらねェ! という心境である。
     *
ウェスターン・エレクトリックの300Bとは、こういう真空管である。
(だった、と過去形では書かない)

Date: 1月 5th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その20)

瀬川先生がSAEではなくスチューダーにされた第二の理由は、ファンの有無である。

Mark2500には冷却用のファンがついていた。
当時の輸入元であったRFエンタープライゼスでは、
より静かなファンに置き換えていたようだが、それでもファンが廻れば無音というわけにはいかない。

しかも室内楽を大音量で聴く人はまずいない。
室内楽を静謐な、求心的な音で聴く場合、その音量はおのずと決ってくる。

それにA68はMark2500よりも小さい。
Mark2500はW48.3×H17.8×D40.0cm、A68はW48.3×H13.3×D33.5cmである。

だいたいイギリスのスピーカーに、あまり大きなパワーアンプは似合わないし、
組み合わせたいとも思わない。

そんなもろもろのことを考えても、
1980年以前において、コーネッタにA68ほどふさわしいパワーアンプはなかった、と思う。

いまもしコーネッタを鳴らすことがあったら、A68を外すことはない。
そして、もうひとつA68とともにいまでもコーネッタを鳴らしてみたいアンプの筆頭は、
マイケルソン&オースチンのTVA1である。

Date: 1月 5th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その19)

スチューダーのA68は、
私がコーネッタの存在を知るきっかけとなった「コンポーネントステレオの世界 ’77」に登場している。
瀬川先生の組合せにおいてである。

室内楽を静謐な、しかも求心的な音で聴きたい、というレコード愛好家のための組合せで、
スピーカーはタンノイのアーデン、
これを鳴らすためにA68、それにコントロールアンプはマークレビンソンのLNP2である。

このころの瀬川先生はLNP2にはSAEのパワーアンプ、Mark2500を組み合わせることが常だった。
だから、この組合せの記事でも、なぜMark2500ではなくA68なのか、について語られている。
     *
マーク・レビンソンのLNP2に組合せるパワーアンプとして、ぼくが好きなSAEのマーク2500をあえて使わなかった理由は、次の二点です。
第一は、鳴らす音そのものの質の問題ですが、音の表現力の深さとか幅という点ではSAEのほうがやや優れているとおもうけれど、弦楽器がA68とくらべると僅かに無機質な感じになる。たとえばヴァイオリンに、楽器が鳴っているというよりも人間が歌っているといった感じを求めたり、チェロやヴァイオリンに、しっとりした味わいの、情感のただようといった感じの音を求めたりすると、スチューダーのA68のほうが、SAEよりも、そうした音をよく出してくれるんですね。
      *
いうまでもなくアーデンもタンノイだ。
コーネッタもタンノイだ。

タンノイのスピーカーに、どういう音を求めるのかが、アンプ選びに関わってくる。
コーネッタで、どういう音楽をどう聴きたいのかまでは、
コーネッタを知ったばかりのころは深くは考えていなかったけれど、
それでもコーネッタでは聴かない音楽、コーネッタに求めない音はなんとなくわかっていたように思う。

だからコーネッタにはA68を組み合わせたい、と、
コーネッタについて知りはじめたころから、そう思うようになっていた。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その11)

なんといいかげんな男なんだろう、と。
この件で、そのことを確信した。

私にもいいかげんなところはある。
何もいいかげんなところがあるから、その知人のことをここに書いているわけではない。

私にとって、音楽とオーディオは大事にしてきたことであり、
そのオーディオにおける、瀬川先生の文章の位置するところは特別であり、
知人もまたそうだと思っていた。

彼もそのようにいっていたからだ。
でも、それは違っていたようだ。

口ではいくらでも格好つけたことをいえる。
そのためだけの、彼にとっては瀬川先生の存在であったのだ。

たとえ「虚構世界の狩人」を読んだことを忘れていたとしても、
サヴァランの、あの有名な一節を読めば、思い出すのが、
瀬川先生の書かれたものを読みつづけてきた者のはず。

本の読み方は百人いれば百通りの読み方があるのかもしれない。
私と同じように、他の人に読むことを強要はしない。

「虚構世界の狩人」を読んだ人のどのくらいが、
サヴァランの一節からから始まっていることを思い出してくれるのかはわからない。

だが、瀬川先生の文章の熱心な読み手だと自分で口にしていて、
あのいいかげんさは、私はどうしても許せない。

知人がサヴァランの一節を電話してきた時、
彼とのつき合いは終る、と予感したし、事実、一年ほどしてから、そうなった。
このことが直接のきっかけとなったわけではない。

彼の「読む」とは、どういうことなのか、こういうことなのか。
彼の「きく」とは、いったいどういうことなのか。
いまとなって、私にとってはどうでもいいことでしかない。

多くの人が、「読んだ」「きいた」と口にしたり書いたりする。
私もそうだ。

だが、どれだけほんとうに「読んだ」「きいた」といえるだろうか。
ただなぞっているだけなのかもしれない。

自分の裡(心)に、転写(transcription)しているといえるだろうか。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その6)

スピーカーを役者としてとらえることで、
世の中に存在する幾多ものスピーカーそれぞれの個性について、
どう捉えるかも私のなかでははっきりしてくる。

役者は舞台やカメラの前で、役を演じる。
セリフがそこにもある。

ヘタな役者だと、感情のこもっていない、棒読みのセリフになったり、
大見得をきった演技にもなる。

そういう演技だと観ている側は、そこで行われていることに感情移入できない。
どこか他人事、それも対岸の火事のようでもあり、
いくらそれがつくり事とはいえ、傍観者から一歩踏み込めなかったりする。

感情がこちらに伝わってくると、違ってくる。
けれども、その伝わってくる感情は、役者自身の感情であれば、
その役者の熱狂的なファンであれば、その感情を受けとめられるだろうが、
そうでない者にとっては、役者自身の感情なんて、どうでもいいことであり、
観ている側が求めている感情とは、役柄の感情である。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その10)

こんなことを思い出した。

数年前のことだ。知人が、すこし興奮気味に電話をかけてきた。
彼が読んだばかりの本のことを伝えようとしての電話だった。

ブリア・サヴァランの「美味礼賛」だった。

「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」、
この一節を読んできかせてくれた。
彼は続けて、オーディオ、音もまさしくそうだ、といいたげだった。

ある人にとって若いころに出あった本であっても、
別の人にとってはまったく違う時に出あうことは少なくない。

早く読んでいたから、とか、遅く読んだから、とかは、
どうでもいい、とまではいわないまでも、ここでは大きな問題ではなかった。

にも関わらず、私は知人に対して、すこしばかり意地の悪い返答をした。
それは、普段から彼が公言していることが、いかにいいかげんであったかを確認できたからだった。

知人もオーディオマニアだ。
私よりも年齢は上。瀬川先生の文章に惚れている、といっていたし、
「虚構世界の狩人」もしっかりと読んだ、といっていた。

「虚構世界の狩人」には、
《「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」とブリア・サヴァランは言う。》
という出だしで書かれている文章がおさめられている。

その文章のタイトルは、瀬川先生の著書のタイトルにもなっている「虚構世界の狩人」である。
あえてくり返すが、その冒頭が、サヴァランの
「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」
で始まっているのだ。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その14)

カラヤンの「ニーベルングの指環」。

私はCDになってからはじめて聴いた。
カラヤンのワーグナーということで、ネガティヴな先入観がないわけではなかった。
けれどいざ聴いてみると、そこで聴けるワーグナーは、
それまで他の指揮者が前面に打ち出していたようにも感じていた壮大な印象が、
カラヤンにおいては奥にさがり、どちらかといえば室内楽的な感じすら受けた。

抒情的なワーグナーとは、こういう演奏のことをいうのだろうか。
そうも思いもした。

悪くない、とおもって聴きつづけていく。
悪くないどころか、いいと感じはじめているのに気づく。

カラヤンの「ニーベルングの指環」を、
いわゆるワーグナーらしくない、といって切り捨てることはできなくもない。

だがワーグナーらしくない、というのは、
それまで聴いてきたレコードによって、その人の中に形成されたものでもある。
そういうワーグナーと違うから、いいレコード(演奏)とはいえないわけではない。

カラヤンのワーグナーには、カラヤンならではの美しいワーグナーがあるのではないか。
このことがあったから、「パルジファル」をカラヤン盤で聴きたくなったのだ。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その18)

真空管アンプではなく、トランジスターアンプならば、なにをもってきたいか。

価格的にも国的にも、誰もがぱっと候補にあげるのはQUADの405のはず。
コーネッタが登場したころ、405も登場している。

HPD295Aを搭載したコーネッタならば、405ももってこいのアンプかもしれない。
405はそのころ145000円だった。
コントロールアンプは、405が登場した時には44はまだだった。

33では405につり合わない、とまではいわないまでも、
33を使うのであれば、パワーアンプは303、もしくは50Eという選択にしたい。

となるとAGIの511か。
雑誌の組合せと違い、個人の組合せでは、少し待つ、という選択肢がある。
だからQUADから44が出るまで待って、という組合せもあっていい。

QUADの44と405、それにコーネッタ。
プレーヤーはリンのLP12かトーレンスのTD125あたりであれば、
うまくまとまってくれるであろう。

でもタンノイのIIILZ、その後のイートン(Eaton)であれば、
このへんで、と満足できるのに、
コーネッタというエンクロージュアに同じ10インチの同軸型ユニットがおさまっているだけで、
欲が深くかきたてられたりもする。

価格的なバランスを無視したくなるわけだ。
スチューダーのパワーアンプ、A68で鳴らしてみたら、どうなるんだろうか、と。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その9)

古書店に行くと、まれにではあるが、驚くほどきれいな状態の昔の雑誌が並んでいることがある。
ステレオサウンドに関しても、そういうことがある。
最近のバックナンバーのことではなく、20号から40号くらいにかけてのバックナンバーが、
よくこんなきれいな状態で残っているな、と感心してしまうほどのものがあったりする。

すでに出版されていない本で手に入れたいのであれば、
古書店で並んでいるのを買う。
新品があればそれにこしたことはないが、そうもいかない。
心情として、できるだけきれいな状態であってほしい。

値段は高くなるけれど、そういう状態の本はありがたいともいえる。

けれど、ともおもう。
なぜこんなにきれいなのか、と。

このステレオサウンドを出版された当時に買った人は、
ほんとうにじっくりと読んでいたのだろうか。
決して安い雑誌ではないから、買って帰れば、一度はページをめくっているはず。
でも一度、もしくは二度三度くらいなのかもしれない。

きれいな状態の古書が残っているのは嬉しいことである。
だが、その本はほんとうに読まれたのか、と、
少なくとも本づくりにたずさわってきた者は、そんなこともおもってしまう。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その13)

「五味オーディオ教室」から始まり、
五味先生の音楽、オーディオに関する著書はくり返し読んできた私は、
いまでもアンチ・カラヤンというところから脱し切れていないところがある。

アンチ・カラヤンといっても、カラヤンのすべてが嫌い、
なにもかも気にくわない、というわけではない。
カラヤンの私生活のことなどどうでもいいことであって、
どれだけいいレコードを残してくれているかだけが、重要である。

それにアンチ・カラヤンが、
学生のころ苦労して金の工面をつけて、ベルリン・フィルハーモニーとの公演に行ったりはしないだろう。
アンネ=ゾフィ・ムターをともなっての来日だった。

その後も、最後の来日公演となった1988年のコンサートにも、
チケットをなんとか都合してもらい行っている。

五味先生の書かれているように、
モノーラル時代のカラヤンの録音はいいものが多い。
いまでも輝きを失っていない演奏が、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」から聴くことができる。
他にも、いまでも愛聴盤として聴いている、この時代のカラヤンの録音はある。

まめにカラヤンのすべての時代の録音を聴いてきたわけではない。
あまり聴かない時代のレコードもある。
その時代の録音でも、リヒャルト・シュトラウスの演奏(録音)を聴けば、唸ってしまう。

カラヤンの残したすべての録音を聴いてみたい、とは思っていない。
それでもカラヤンの残したものには、
(その必要はないのだけれど)声をひそめて、いいものはいい、といえるものがいくつもある。

私にとってカラヤンのワーグナーは、まさにそうである。
カラヤンのワーグナーはいい。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その17)

JBLの4343への想いとは別に、コーネッタへの想いもつのっていった。
いつかは4343と夢見ていた──、けれど現実には10代の学生には手が届くモノではない。
なんとか手が届く範囲での憧れとしてコーネッタを見ていたわけだが、
けっしてそればかりともいえない。

コーネッタを買ったら、アンプは何にしようか、とHI-FI STEREO GUIDEのページをめくりながら、
組合せを考えていた。

コーネッタの価格はエンクロージュアとユニットを含めて16万円(一本)だから、
価格的バランスを重視するなら、アンプはプリメインアンプとなる。
となると第一候補はラックスのLX38がくる。

五味先生のオーディオ巡礼に登場された鷲見氏は、
IIILZにラックスのSQ38Fを組み合わされていたから、
第一候補としてLX38を外すわけにはいかない。

これでもきっと充分に満足のいく音が鳴ってくれるとは思っている。
それでもオーディオマニアとしての欲を捨て切れずにいる(まだ10代だったのだから)、
となるとセパレートアンプにしたい、という気持が同時にあった。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」の「くつろぎの城」の主は、
コーネッタをラックスのCL30、ダイナコのMarkIIIの組合せで鳴らされている。

タンノイだから真空管アンプ、
ということを優先してアンプを選んでいくと、さらに価格的バランスも考慮すると、
この時代では、たしかにラックスとダイナコの組合せは順当といえよう。

ダイナコの真空管アンプをアメリカ的ととらえている人もおられるだろうが、
実際にダイナコのアンプを使ったことがある人ならば、
真空管の選択を注意することで、意外にもアメリカ的な音が色濃くでるわけでもない。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その12)

何回目に聴いたときだったのかは、もう憶えていない。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤でだけ「パルジファル」を聴いていた時期、
マーラーの第二交響曲の第二楽章の美しい旋律に、ある日ふと胸打たれたように、
「パルジファル」に美しい旋律がある、ということよりも、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づいた。

気づいた、というよりも、そう感じるようになった。
それまでは宗教的な気配に意識がどうしても行きがちだった。
だからこそクナッパーツブッシュのバイロイト盤は、
シーメンスのオイロダインで聴きたい、と強くおもってしまう。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴いていたから、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づくのに時間がかかったのか、
それともクナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴きつづけてきたから、そう感じられるようになったのか、
正直どちらでもいい。

とにかく気づくことができた。

「パルジファル」はワーグナーの作品中、もっとも美しいのかもしれない。
そうおもうよになって、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、と思うようになっていった。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その1)

HI-FI STEREO SUIDEが10冊ほどある。
田中一光氏デザインの表紙のものだ。

記憶を呼び起こすために、パラパラとめくる。
あっ、こんな製品があった、あった、となる。

スピーカーやアンプ、プレーヤーに関してはあまりそんなことはないけれど、
アクセサリー関係となると、あった、あったと思う回数が増える。

ずいぶん様相が変った、というところもある。
あまり変らないな、と思うところもある。

1970年代と比べて、大きく変ったともいえるし、
別の面からみるとあまり変っていないともいえるのが、ラックである。

アンプやCDプレーヤーなどのオーディオ機器を収納する、あのラックである。

以前のラックは横型、縦型があり、
レコードも収納できるようになっていた。

いわゆるシステムコンポーネント用のラックともいえる。
中にヤマハのBLCシリーズは、マリオ・ベリーニによるデザインのラックで、
ヤマハもそのことを広告、カタログで謳っていたし、
BLC103は五味先生も使われていたラックだ。

このころのラックは、音質的に優れていることを謳っていたモノはひとつもない。
音質に考慮したラックが登場しはじめるきっかけとなったのは、
ヤマハのGTR1ではなかろうか。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その11)

ワーグナーの「パルジファル」にも、そういう美しい旋律があることを、
何度か、通しで聴いていくことで気づくことができた。

マーラーの第二交響曲の第二楽章の、美しい旋律に、
ほんとうの意味で気づいたあとは、それまで聴いてきたレコードを聴きなおし、
己の聴き方の未熟さを思い知った。

それでも気づくことができたから、いい。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤で「パルジファル」を聴いてきた。
1980年代、クナッパーツブッシュのバイロイト盤のほかにも、「パルジファル」のレコードはあった。
カラヤンがあり、ショルティ、ブーレーズのレコードがあった。
私が聴いてきたのはクナッパーツブッシュだけだった。

つまりは、クナッパーツブッシュのレコードしか、「パルジファル」に関しては持っていなかったからだ。
持っていないレコードは聴きようがない。
なぜ、ほかの指揮者のレコードを買わなかったのか。

特にこれといった理由はなかった。
私にとって二枚目の「パルジファル」はカラヤン盤である。

こんな聴き方を人にはすすめはしないけれど、
クナッパーツブッシュでのみ聴いてきたことを、後悔はしていない。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その10)

マーラーの交響曲第二番の第二楽章。
美しい旋律である。

初めてマーラーの第二交響曲を聴いた時にそう感じた。
感じたけれど、その時は、あとでふり返ってみると、なにもわかっておらずにそう感じていたことがわかる。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」でこう書かれている。
     *
マーラーの交響曲中でもおそらく彼の書いたもっとも美しい旋律の一つといわれる同じ『第二交響曲』第四楽章とともに、この第二楽章アンダンテ・モデラートの——たしかにシューベルトのレントラーを想わせる個所はあるが——弦にはじまる冒頭から第一主題への、旋律の美しさに無関心でいるためには余程鈍感な感性が必要だろう。
     *
実は、ここまで美しい旋律とは思えなかった。
幾多の、美しい旋律のひとつとしか、その時は感じられなかった。

それからいくつものマーラーの第二交響曲を聴いてきた。
マーラーの交響曲は、オーディオ機器の試聴にも使われることが多いから、
自分で買ったレコード以外であっても、聴く機会はあった。

そうやって聴いてきて、何枚目の第二交響曲のレコードだっただろうか、
誰の指揮だったのかも、いまとなってはなぜだか憶えていない。

それでも、その時の第二楽章の美しい旋律は、
それまで聴いて感じてきた美しい旋律は、表面的にしか捉え切れなかった美しい旋律であって、
その奥に、五味先生が書かれている通りの「美しい旋律」が流れていることに、やっと気づいた。

こんなにも美しい旋律なのか、ととまどうほどに、そう感じられた。