舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その11)
なんといいかげんな男なんだろう、と。
この件で、そのことを確信した。
私にもいいかげんなところはある。
何もいいかげんなところがあるから、その知人のことをここに書いているわけではない。
私にとって、音楽とオーディオは大事にしてきたことであり、
そのオーディオにおける、瀬川先生の文章の位置するところは特別であり、
知人もまたそうだと思っていた。
彼もそのようにいっていたからだ。
でも、それは違っていたようだ。
口ではいくらでも格好つけたことをいえる。
そのためだけの、彼にとっては瀬川先生の存在であったのだ。
たとえ「虚構世界の狩人」を読んだことを忘れていたとしても、
サヴァランの、あの有名な一節を読めば、思い出すのが、
瀬川先生の書かれたものを読みつづけてきた者のはず。
本の読み方は百人いれば百通りの読み方があるのかもしれない。
私と同じように、他の人に読むことを強要はしない。
「虚構世界の狩人」を読んだ人のどのくらいが、
サヴァランの一節からから始まっていることを思い出してくれるのかはわからない。
だが、瀬川先生の文章の熱心な読み手だと自分で口にしていて、
あのいいかげんさは、私はどうしても許せない。
知人がサヴァランの一節を電話してきた時、
彼とのつき合いは終る、と予感したし、事実、一年ほどしてから、そうなった。
このことが直接のきっかけとなったわけではない。
彼の「読む」とは、どういうことなのか、こういうことなのか。
彼の「きく」とは、いったいどういうことなのか。
いまとなって、私にとってはどうでもいいことでしかない。
多くの人が、「読んだ」「きいた」と口にしたり書いたりする。
私もそうだ。
だが、どれだけほんとうに「読んだ」「きいた」といえるだろうか。
ただなぞっているだけなのかもしれない。
自分の裡(心)に、転写(transcription)しているといえるだろうか。