Archive for 10月, 2012

Date: 10月 26th, 2012
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その6)

スピーカーケーブルでも、ピンケーブルでも、
いつごろから安いものと最も高いものとの価格差が、これほど大きくなってしまったのだろうか。

安いものに関しては、以前よりも安くなっている一方で、
高いものは、記録でも更新するかのように、より高価なケーブルが登場してくる。

価格には下限はあっても上限はないから、
買う人がいるのであれば、これからも価格の記録更新はされていくだろう。

こういう非常に高価なスピーカーケーブルを、
本田氏と中野氏が試されたこと、
つまりスピーカーケーブルの長さを30mにして使う、ということをやったらどうなるのか。

価格的にはとんでもない金額になってしまう。
だが、ここではその金額について、ではなく、
果して、この手のケーブルで、30mの長さにしても安心して使える製品はいくつあるのだろうか、
ということを考えてしまう。

パワーアンプの負荷となるのはスピーカーシステムだけではない。
スピーカーケーブルも含めて、パワーアンプの負荷となる。
スピーカーケーブルの長さが1mと30mとでは、パワーアンプにとっての負荷は変る。
それもスピーカーケーブルの種類によって、その変化も変ってくる。

試したことはないし、
1m数十万、もしくはそれ以上の価格のケーブルを30mとなったら、いったいいくらになるのか、
だから、これから先も試す機会は絶対にないから断言はできないものの、
非常に高価なスピーカーケーブルの中には、使える長さに上限があるのではないだろうか。

スピーカーケーブルとして、30mでも50mでも使えるケーブルが優秀であって、
ある長さでしか使えないケーブルは、長くしても使えるケーブルよりも劣っている、
といえるのだろうか。

30mという長さのスピーカーケーブルを必要を必要とする状況はほとんどない、
実際にはパワーアンプをスピーカーの、
ある程度近くに設置すればスピーカーケーブルの長さはそれほど必要としないから、
そういう30mという長さで使えない、としても、実際の数mの使用では問題にならない──、
これも、そういえるのだろうか。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十一・チャートウェルのLS3/5A)

マランツのModel 7は、私がオーディオに興味をもちはじめた1976年には、
製造中止になって10年以上が経過していたし、すでにコントロールアンプの名器として扱われてもいた。
Model 7を聴いたのは、数年後である。

だからなのかもしれない、
私がいまModel 7を手に入れて、コンデンサーを交換するのであれば、
Black Beautyではなく、TRW(現ASC)のコンデンサーにする。

そんなことをしたら、Black Beautyの音色が変ってしまう。
つまりはオリジナルではなくなる、という意見がある。
それもわからないわけではない。

でもBlack Beautyを使ったからといって、他の部品は製造ロットによって多少変更されている。
そういうModel 7の、どれをオリジナルとするのか。
ごく初期のModel 7を、オリジナルということにしよう。

そのごく初期のModel 7に使われている部品と同じものを集めてきて、
手に入れたModel 7をごく初期のModel 7とまったく同じ仕様にした、としよう。
それは、たしかにごく初期のModel 7と同じModel 7といえるかもしれない。

そういうModel 7に高い価値を見いだす人もいるけれど、
私はそうではない。

私がModel 7が、いまも欲しい、と思うのは、
コントロールアンプのとしての完成度の高さと、
基本性能の高さ(物理特性的ではなく、音楽を再生する上での性能)から、である。

ごく初期のModel 7の音色をそのまま手に入れたいわけではない。
だからBlack Beautyを使う気はさらさらない。

シドニー・スミスの頭の中にあった、
シドニー・スミスが世に出したかったModel 7こそが、私の欲しいModel 7であって、
実際に市場に出たModel 7の音色ではない。

そして、ここでいう、Model 7の音色とは、オーディオ的音色のことである。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十・チャートウェルのLS3/5A)

1980年代から1990年代にかけて、シドニー・スミスがマランツのModel 7の、
メインテナンスと改良を行っていた、と聞いたことがある。
シドニー・スミスの手によるModel 7の実物を見たことがないので、
その詳細についてははっきりしないけれど、コンデンサーをすべて別の銘柄に交換している、らしい。

Model 7の信号系に使われているのは、
アンプの部品にさほど関心のない人でも、名前だけは聞いたことがある、というBlack Beautyである。
これが高温多湿の日本では、ことごとくダメになってしまう。
どんなに大切に使われてきたModel 7でも、それが日本で、ということならば、
Black Beautyは全交換ということになることが多い。

そのダメになったBlack Beautyを、何と交換するのか。
Black Beautyの未使用の新品を何としてでも入手して交換するのか、
それとももっと信頼性の高いコンデンサーにしてしまうのか。

人によって、考え方によって、異ってくる。
シドニー・スミスはBlack Beautyは選ばずに、当時のTRWのコンデンサーに置き換えた、そうだ。
TRWのコンデンサーは現在のASCのコンデンサーである。
TRWになる前はGoodAllという銘柄のコンデンサーだった。

シドニー・スミスに直接確かめることはもうできないので真偽のほどはっきりしないものの、
Model 7にもGoodAllのコンデンサーが使われる予定だったのだが、
コストの面でBlack Beautyになってしまった、とのことである。

だから本来使われるはずであったコンデンサー、
つまりシドニー・スミスがメインテナンスを行っていた時期のTRWのコンデンサーへと置き換えている。

この変更をオリジナルの改変、さらにはオリジナルの冒瀆と捉える人もいれば、
逆に、TRWのコンデンサーへの換装こそが、
Model 7の設計者であるシドニー・スミスの頭の中にあった「オリジナル」の実現、という受けとめる人もいる。

これは、どちらが正しいか、ということではなく、何をオリジナルとするかの違いによって生じることである。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その21)

グレン・グールドがヤマハのピアノで録音している、という情報が伝わってきたとき、
こんなことを話してくれた人がいる。

ヤマハのピアノはスタインウェイのピアノと部品の互換性がある、とのこと。
だからグールドが選択したヤマハのピアノは、ほんとうに内部までヤマハのピアノだろうか、
外観はヤマハでも中身はスタインウェイに換えられている、ということだって考えられる、と。

オーディオの関係者が、そう話してくれた。
でも、実際にゴールドベルグ変奏曲を聴けば、
外観だけヤマハのピアノということではなく、正真正銘ヤマハのピアノだということはわかる。

でも、この話をしてくれた人も、心のどこかに欧米文化へのコンプレックスがあったのかもしれない。
そうでなければ、こんなことを考えたりはしない。
さらには、人に話したりはしない。

グールドがヤマハのピアノを選び、しかも絶賛していることを素直に喜べないところに、
あのころ私もふくめて、
まわりの人たちも欧米文化へのコンプレックスがまったくなかった人はいなかったように思う。

そのころの私だったら、
そして、そのころソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)とがすでに存在していたら、
もう間違いなくマークレビンソンの方を高く評価していたはず。
それだけではなく、ソニーの方を、つまらない音、とも評価していたように思う。

グールドのゴールドベルグ変奏曲から30年。
いまは、そのころとは違う。すでに書いているように、
グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
ヤマハのピアノで魅かれたグールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
選ぶスピーカーシステムは日本のダイヤトーン2S305であり、
2S305を鳴らすために選ぶパワーアンプは、日本のソニーのTA-NR10である。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×九・チャートウェルのLS3/5A)

ここからは、例を変えてみよう。
マランツのModel 7にしてみる。

Model 7は、いまも名器として取り扱われている。
Model 7を、いまも欲しいと思っている人は少なからずいる、と思う。
私だって、欲しいという気持は持っている。
持っているけれど、Model 7のシリアルナンバーをチェックして、
初期のModel 7でなければ絶対に認めない、という欲しさではない。

Model 7にこだわっている人にいわせると、
あれはModel 7じゃない、といわれている日本マランツが復刻したModel 7の方が、
オリジナルと呼ばれているけれど、もう中身はボロボロで自分で手直しをしなければならないModel 7よりも、
私は、ずっといいと思っている。

もちろん初期のModel 7の、非常に程度のいいモノが、良心的な価格であるのならば、
こんな私でも、それを選ぶけれど、実際にはそうじゃない。

こんなModel 7が存在していたら、かなりの値がついている。
かなりの値がついていても、中身がしっかりしていれば、それは良心的ともいえるのだが、
外観だけはしっかりしていても中身は……というModel 7にも、かなりの値がついて出廻っているのが現状だ。

そういうModel 7よりは、1990年代のおわりに復刻されたModel 7の出来は非常に良いから、
私は製造国には、それほどこだわらなくなる。

それにModel 7のオリジナルとは、いったいどういうものか、とも考える。
アメリカでつくられたModel 7にしても、
ソウル・B・マランツが自らの手でつくっていたわけではない。

すでにアメリカでは著名なオーディオメーカーとして知られていたマランツだから、
工場をもち、そこで働く多くの人達の手によってつくられていたわけだ。
マランツのModel 7も、工業製品である。

工業製品とは、プロトタイプの精密な大量のコピーなのだから。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×八・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのStudio Oneの、1981年当時の価格は148000円(1本)だった。
同価格帯には、スペンドールのBCII(138000円)、KEFの104aB(129000円)、JBL4311B(135000円)、
ヤマハNS1000M(108000円)、パイオニアS933(118000円)、BOSE901 IV(149000円)などがあった。

これらのスピーカーシステムのなかでは、Studio OneとBCIIの音は近い、といえる。
ほかのスピーカーシステムとStudio Oneとの音の違いは、BCIIとの差よりもずっと大きい。
同じイギリス製の104aBでも、Studio Oneとの差はBCIIよりも大きく、
さらに国が違うヤマハ、パイオニア、JBL、BOSEとなると、まったく別の魅力をもつスピーカーということになる。

Studio OneとNS1000M、Studio Oneと4311Bを比較試聴した後に、
Studio OneとBCIIを比較すれば、同じじゃないか、と判断する人がいても不思議ではない。

Studio OneとBCIIは似ている。
同じところも持っている。なのに、私の耳には、BCIIには魅力を感じてもStudio Oneには魅力を感じない。
PM510に魅力を感じてもPM510SIIには魅力を感じない。

なぜ、そう感じてしまうのか。
これは、私以外の誰にでもあることではないだろうか。

私にとっては、Studio OneとBCII、PM510とPM510SIIがそういうことになるが、
ほかの人にはほかの人なりの、こういう例があるはず。

ほかの人からしてみれば、同じじゃないか、といわれる差が、どうしてもがまんできない、
受け入れ難いものとして存在している。
しかも、この「差」は、オーディオ機器(スピーカーシステム)としての能力の差とは関係ない。

Studio OneとBCIIの間にも、PM510とPM510SIIとの間にも、
変換器としての能力の差は、それほど大きなものではなくとも存在している。
とはいえ、ここで関係しているのは、オーディオ的音色ということになる。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続・スコア・フィデリティ)

ここでいいたいスコア・フィデリティは、別項にて書いている、
録音におけるコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティの違い──、
そこでのスコア・フィデリティとは少し異る。

ここでいうスコア・フィデリティとは、
CDの直径が11.5cmから12cmに変更されたことによって増すこととなったスコア・フィデリティである。
簡単にいえば、収録時間に関することだ。

CDの直径が12cmに決ったことで収録時間は約74分になり、
ベートーヴェンの第九交響曲がCD1枚、
つまり片面で収まるようになった。
1楽章から4楽章まで、ディスクのかけかえをやることなく聴き続けられる。

なんだ、そんなことかと思われるかもしれない。
でも、家庭においてパッケージメディアで音楽を聴くうえで、
これは大事なことである。

LPではベートーヴェンの第九は、ほとんどが2枚組だった。
4面を必要としていたから、最後まで聴くには3回、レコードをかけかえなくてはならない。

この手間が面倒だと感じているわけではない。
私の世代はLP(アナログディスク)で育ってきているから、
2枚のLPのかけかえを面倒だとは思ったことはない。

でも、ベートーヴェンが第九を作曲した時代は、レコードなんてものは存在しなかった。
音楽を聴くということは、目の前に演奏者がいて、彼等が目の前で演奏している音楽を聴く、ということだった。
ベートーヴェンは(ベートーヴェンに限らずほかの作曲家も)、
レコードの収録時間を気にして作曲していたわけではない。
レコードで、家庭で、演奏者のいない空間で音楽が聴かれるようになるとは、まったく想像していなかった。

クラシック音楽を、いまの時代、オーディオを介して聴くということはそういうところとも関わってくる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(スコア・フィデリティ)

9月末に、ショルティ指揮のニーベルングの指環の限定盤がデッカから発売になった。
話題になっていたから、クラシックに関心の高い人ならばすでにご存知で入手されている方も少なくないだろう。

新たにリマスターされたCDの17枚組にDVD、30cm×30cmのブックレット、
それとは別の冊子などのほかに、この限定盤の最大の目玉(特典)といえるのが、
ブルーレイディスク1枚におさめられた24ビット・96kHzによる音源である。

CD17枚分、しかもサンプリング周波数もビット数も、
通常より高くそれだけデータ量を必要とするにもかかわらず、
ブルーレイディスクだと、1枚におさまってしまうことに、
記録密度の向上はめざましいものがあることは知ってはいても、
こういうふうに具体的な形で登場すると、
CD登場からちょうど30年の今年、その間のデジタル技術の進歩を、音とは違う面で実感できる。

DAD(Digital Audio Disc)がCDに統一されるまでは、
国内のオーディオメーカーからいくつもの規格が提案されていた。
ディスクのサイズもLPと同じ30cmで、収録時間も数時間というものがあった。

そんなに収録時間を長くして、いったいどんな音楽を入れるんだよ、という否定的な意見もあった。
たしかに、LPで流通していた音楽の大半は、それほど長い収録時間は必要としない。
クラシックの曲の大半だって、それほど長い収録時間はいらない。

けれど、オペラとなると、収録時間が長いディスクがあれば、
今回のショルティのブルーレイディスクのように1枚におさめられる。

こんなことを書くと、そんなにディスクの交換が面倒なのか、と思われそうだが、
ここでいいたいのはそんなことではない。
ディスクの枚数が減る、できれば1枚にまとめられれば、
そのことはスコア・フィデリティに関しては、高い、ということになる。
そのことをいいたいのである。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(iBooksとiBooks Author)

日付が変ってから、書きたいことがあったので、深夜ブログを更新していた。
気がついたら午前2時。ちょうどAppleのイベントのはじまる時間になっていた。
ちょっとだけ見てから寝よう、と思い、ライヴストリーミングを見始めた。

発表になったハードウェアの新製品は、
インターネットでウワサになっていたモノがほぼウワサのとおりに出てきたわけだが、
私が個人的にうれしい驚きだったのは、iBooksが縦書きに対応にしていたことだった。

いつかは縦書きに対応してくれるものだと思っていた。
でも、それは早くて来年くらいかな、と漠然と思っていただけに、
こんなに早く!? という感じを受けた。

縦書きも横書きも、どちらでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でも入力作業をやっている者としては、縦書きなのか横書きなのかは、
どちらを前提としなければすすめられないところがる。

おもに数字の入力なのだが、横書き前提でいくのならばすべて半角文字だけですむ。
縦書きとなると、1桁の数字は全角文字、2桁の数字は半角文字、3桁以上となると全角文字となる。
アルファベットの入力も、横書きならば半角文字だが、
縦書きでは英文の文章を引用するときは半角文字、型番の場合には全角文字というふうになる。

こうやって入力した文章を横書きで表示させていると、
文字の表示がバラついていて美しくない。

だから、横書きを前提とした入力に切りかえるべきかも、と考えていたところに、
縦書き対応の発表だっただけに、縦書き前提の入力を続けてきてよかった、と、
ほっとした。

しかもiBooks AuthorではTex数式ができるようになっている。
数式の入力はわずかなのだが、まったくないわけではない。
いままでは数式を言葉に置き換えていた。これもうれしい。

iBooksとiBooks Authorのヴァージョンアップによって、つくりこめる、という感覚が出てきた。
もちろん、まだまだなところもあるのはわかっている。

とはいえ、電子書籍をつくることが、これによりすこし楽しくなってくる。

しかも、今日、amazonのKindleの日本語版の発表もあった。

いつが電子書籍元年なのか、そんなことはもう少し先になってみなければわからない。
それでも、確実に、そのための環境は整いつつあるのを、実感できた日である。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その3)

映画「仮面の中のアリア」の冒頭の拍手のシーンで気づかされるのは、
観客席に大勢の聴衆がいるから、
これだけの拍手が、このコンサートを最後に引退するバリトン歌手に対して送られるのであって、
これがもし会場にまばらにしか聴衆がいなかったとしたら、
そこでバリトン歌手による歌がどれほど素晴らしかろうと、拍手の数は少なく、
そこでの拍手は、引退するバリトン歌手をみじめな気持にさせてしまうことだって考えられる。

これはコンサートというものは、ある一定数以上の聴衆が集まるからこそ成立するところがある。
100人以上の奏者がステージの上にいるオーケストラのコンサートでも、
ピアニストひとりによるコンサートであっても、
観客席には、その席を埋めつくすだけの人(聴衆)が必要だというところに、
コンサートでの音楽を成立させるものがある。

つまり原則としてコンサート会場では、
演奏者の人数よりも聴衆の人数が常に多い、ということになる。
この多数は、小ホールでは数百人、大ホールでは千人をこえる

どんなに聴衆が集まらず、がらがらだとしても、
ステージ上の演奏者の人数のほうが聴衆よりも多い、ということは、まずない。

演奏者の人数と聴衆の人数、
これが逆転するのが、グレン・グールドが選択した(求めた)音楽の聴かれ方(聴き方)ということになる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: background...

background…(その2)

ポール・モーリアのレコードをかけていたとしよう。
ポール・モーリアの音楽の聴き手は、
左右ふたつのスピーカーと聴き手との3点によってつくり出される三角形の頂点において、
微動だにせず、そこで鳴っているポール・モーリアの音楽に向い合うのだろうか。

そういうポール・モーリアの聴き方もあるけれど、
ポール・モーリアの音楽はそうした聴き方を前提としているのか、
そういう聴き方を、そこで鳴っている音楽は聴き手に求めているのだろうか。

もっと気楽に聴くことを望んでいる音楽ではないのだろうか。

ポール・モーリアの音楽をかけている(聴いている)途中で、
誰かからの電話がかかってきた、もしくは宅急便で荷物が届いたら、
電話の場合には会話の邪魔にならないようにアンプのボリュウムに手を伸ばし音量を下げるだろうし、
荷物を受けとるのであれば、そのまま椅子から立ち上り受け取ってくるだろう。

電話も大した用件でなければそれほど時間はかからない。
荷物を受けとるのは、もっと短い時間だ。

電話を切ったり、荷物を受けとったあとに、またポール・モーリアの音楽を聴くわけだが、
このとき音楽がかかってきたとき、荷物が届いたこと知らせる玄関のチャイムが鳴ったとき、
そのときまで再生した曲の途中までもどって聴き直すだろうか。

流しぱなしにしていて、
電話で話していたり荷物を受け取ってしまうのに必要な時間の分だけポール・モーリアの音楽は先に進んでいても、
その先に進んだところからまた聴く人の方が多いように思う。

私なら、たぶんそうするだろう。

カルロス・クライバーのトリスタンとイゾルデのCDが発売になったころだから、もう20年以上もことだが、
不思議なことにこのディスクを聴いていると、必ず同じ人から電話がかかってくる。

まさか、今日はかけてこないだろうな、と思って、クライバーのトリスタンとイゾルデを、
今日こそは最後まで聴き通そうとしよとうしても、やはり電話がかかってくる。

そういうとき、電話に邪魔される、という感じるわけだが、
これがクライバーのトリスタンとイゾルデではなく、ポール・モーリアの「恋はみず色」だとしたら、
邪魔された、とは感じないのではなかろうか。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×七・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのStudio Oneを、高く評価している人がいるのは知っている。
私はなにもStudio Oneが悪いスピーカーといいたいのではなく、
あくまでもBBCモニターの音に惹かれてきた私にとって、
Studio Oneは、その系列の中には含まれない、と感じた、ということである。

このStudio Oneに感じた、同じことをPM510SIIを聴いてたときにも感じていた。

Studio OneはスペンドールBCIIとほほ同じスピーカーユニット構成、
PM510SIIはPM510とほぼ同じスピーカーユニット構成、
Studio OneもPM510SIIも、BCII、PM510とエンクロージュアの構成もほぼ同じであるにもかかわらず、
私の耳には、Studio OneとPM510SII、
このふたつのスピーカーシステムがBBCモニター系列の音とは感じられなかった。

Studio OneとPM510SIIには、ひとつ共通するところがある。
エンクロージュアの材質にファイバーレジンを採用している。
ロジャースのLS7にも、このファイバーレジンは使われている。

BBCモニタースピーカーは、ウーファーの振動板に、ベクストレン、ポリプロピレンなど、
紙からの脱却が早かった。
だからエンクロージュアの材質においても、
同じように自然素材(それだけにバラツキが生じやすい)から
ファイバーレジンのような人工素材へ移行を行なうのは理解できる。

とはいうものの音を聴くと、私はどうしても、このファイバーレジンを使ったスピーカーはダメである。
どこにも魅力を感じられない。
中途半端なBBCモニターという感じがしてしまい、
これならばいっそのことまったく別のスピーカーのほうが魅力的に感じられてしまう。

BBCモニタースピーカーのオーディオ的音色に惚れ込んでいたから、
こういう感じ方になってしまう……。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その4)

聴感上のS/N比をよくしていくことは、音楽の鳴っている場の空気を清浄していくようなものである。
澱んだ空気の中で音楽を聴きたい、とは私は思わないから、
聴感上のS/N比は高くしていきたい。

でも、たとえばジャズのライヴ。
いまでこそ禁煙のところが増えているから、
ジャズのライヴでも全面禁煙もしくは分煙というところが増えているのかもしれない。
とするとジャズのライヴにおいても、タバコの煙がもうもうとしている、
昔の、ずっと昔のジャズのライヴの、そういったイメージのところはもはやないのかもしれない。

現実にはなくなってしまったかもしれない、そういう場を、
オーディオは再現しようと思えば、再現できないことではない。
クラシックが演奏されるホールとは違い、天井の低い、人が集まりすぎて空気が澱んでいるうえに、
タバコの煙まで、だれも遠慮することなく吸っては吐き出している場の雰囲気は、
聴感上のS/N比は悪くすることで、近づけることはできる。

これは特殊な聴き方かもしれない。
でも、そういう時代のそういう場で演奏される音楽を聴きたい、のであれば、
そういう聴き方を否定はしない。

それは、あえてそういう選択をした結果の音として、誰も否定することはできないことだ。

このことと、聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称する、おかしなこととは、
まったく意味の違うことである。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その8)

時代は変ってきている。
編集という仕事も変ってきている。

たとえば以前は罫線を、
どんな細い罫線であろうとキレイに引ければ、それだけでグラフィックデザイナーを名乗れた時代があった。

けれど、いまは罫線はコンピューターで指定すれば、どれだけ細い罫線でも、
誰にでも簡単に引けるようになってしまった。
だから罫線が引ける技術だけでは、デザイナーとは名乗れないし、それで食っていけるわけではなくなった。

こんな例は、他の業種でもいくつもあること。
出版の業界をみても、電子出版が主流となってくれば、
印刷、流通の会社の仕事は大幅に減り、なくなっていくことだろう。

コンピューターの導入で、すでにどれだけの写植の仕事がなくなってしまったことだろう。

写真に関しても同様である。
以前は撮影し、モノクロであれば紙焼きにしてもらっていた。
カラーであればポジフィルムだったわけだが、
デジタルカメラの登場と高性能化のおかげで、現像という仕事も減っているはず。

出版に関係している仕事が、私がいたころからは大きく変化してきたし、
これからも変化していく。

そういう状況の中にいて、編集者の仕事だけが変らない、ということはない。
変らなければならないし、変ってはいけないことも、編集という仕事にはある。
それは、編集という仕事が、出版という世界の中心もしくは中心に近いところにいてやる仕事であるからだ。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(その12)

前回の(その11)の最後に、
自意識なき自己顕示欲は存在するのか、と書いた。

これを書いたことによって、実は先を書きあぐねていた。

自意識なき自己顕示欲、と、1年以上前に、なかば勢いで書いてしまった。
書いてしまって、自意識なき自己顕示欲とは、いったいどういうことなんだろうか、
とそれから考えていた。

自意識とは、辞書には「自分についての意識、自我意識」とある。
わかったようでいてよくわからない説明である。

Wikipediaをみると、自意識の項目は作成中となっていて、
自己認識の項目のところに、自意識についての説明がある。
そこには自意識とは「自意識は責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠」とある。

となると、自意識なき自己顕示欲は、
責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠なき自己顕示欲、ということになる。

こう書いてみると、自意識なき自己顕示欲は存在する、
少なくとも自意識なき自己顕示欲による音は、たしかに存在する。
そして、自意識なき自己顕示欲による音を、聴いてきた──、
そう思える記憶がたしかにあることに気づく。