Archive for 3月, 2011

Date: 3月 13th, 2011
Cate: オーディオ評論, 岩崎千明

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(岩崎千明氏のこと)

岩崎先生は、ジャズを聴かれていた。
そのことは文章を読めば伝わってくる。

それはなにも、岩崎先生の文章のなかに、ジャズに関係する固有名詞が登場するからではなくて、
文章そのものが、ジャズでもあったと感じていた。

この点が、クラシックもジャズも聴かれる菅野先生との違いのひとつでもあったと思うし、
だからこそ、ジャズの熱心な聴き手ではない私なのに、岩崎先生の文章を読み終えると、
ジャズが無性に聴きたくなっている。
それは岩崎先生の文章には、ジャズをオーディオで聴く面白さと楽しさがあるからだ。

ステレオサウンドを、オーディオ評論を築き上げてきた人たちは、
岩崎先生を除けばクラシックを主に聴かれる方ばかりだった。
クラシックでもなくジャズでもなく、ロック、ポップスをメインに聴く人は次の世代になってあらわれてきた。

いまのステレオサウンドに執筆している人たちは、
クラシック以外の音楽をメインに聴く人の方が多いようにみえる。
音楽の多様性からみれば当然のことだろう。

だが、岩崎先生のような人がひとりでもいるだろうか、と思う。

つまり文章そのものがジャズであったように、
ロックそのものが伝わってくる文章を書いている人は、いるだろうか(少なくとも私にとっては、いない)。

その文章からロック、ポップスに関する固有名詞を取り去ったあとでも、
ロックを感じさせてくれる文章を書けるオーディオ評論家の登場は、期待できるのだろうか。

それとも、単に私のロックに対するイメージが古すぎるだけなのだろうか。

Date: 3月 12th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(井上卓也氏のこと)

2000年12月10日に、井上先生が亡くなられた。
その数ヵ月前に電話で話す機会があった。

私が audio sharing をやっていることはご存知で、「いいことやっているじゃないか」と言ってくださった。

井上先生は、ステレオサウンドだけを執筆の場とされていたわけではない。
サウンドレコパル、それにリッスン・ビュー(のちのサウンドステージ)にもよく書かれていた。

「ステレオサウンドが一人勝ちすると、オーディオ界にとってはよくないことだ」
そういう主旨のことを話されていた。
それぞれのオーディオ雑誌がそれぞれの役割をもって成り立つことが、
オーディオ界のためになることだから、依頼があれば応じる、という姿勢を一貫してとおしてこられた。

だからなのか、電話を切るときに「がんばれよ」とも言ってくださった。
私が聞いた井上先生の最後の言葉だ。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その16)

この問題については、別項の「Noise Control/Noise Design」にて、これから書いていくけれど、
簡単にふれておくと、
スピーカーシステムの、ある種の固有音(Noise)は、
録音の不備による欠落した情報をときとして補っている可能性がある、ということ。

スピーカーシステムが発するNoiseすべてが、そうだというのではない。
だから、基本的にはノイズ(雑音)を少なくしていく方向は、正しい。
とはいうものの、オーディオにおける録音系・再生系、そのどちらにもなにひとつ完璧なモノは存在しない。

完璧なモノが、もしひとつでも存在していれば、これを基本・基準にしてなんらかの推測が成り立つとは思うが、
結局のところ存在しない以上,すべては憶測にすぎない、ともいえる。

そういう世界で、われわれはオーディオについて、音について考え、語っているわけだ。

私のNoiseに関して、これから先書いていくことは、直感によるところが多くなるはずだ。
Noiseを、いまのまま抹消していく方向で進んでいくのであれば、
そこにあるのは、ひじょうに味気ない、そして奇妙な世界なのかもしれない。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その15)

グールドのゴールドベルグ変奏曲を、肉体を全く感じさせない音で、
しかもアップライトピアノで弾いているふうに聴かせたスピーカーシステムのほうが、
私がいいと思っているスピーカーシステムよりも、忠実度の点では優れていると仮定しよう。

つまり、私が、ほかのスピーカーシステムで聴いたときに感じた演奏者の肉体、
それからグランドピアノと感じた音は、じつはそのスピーカーシステムの固有音によってつくられたもので、
実際には、録音にそういう要素は含まれていなかった、と考えることも可能だ。

グールドが弾いたピアノはヤマハCF、もちろんグランドピアノだが、
録音の不備で、じつはアップライトピアノのような音で収録されていた。
ピアニストの肉体などというものは、マイクロフォンでは捉えることができない。

そんなことが、ほとんど脚色されずにストレートに再生されたために、
肉体のない音、アップライトピアノのような音に聴こえただけであって、
スピーカーシステムに欠陥がないばかり、むしろ非常に優秀といえるし、それだけ新しい時代のモノでもある、と。

マスターテープにどんな音が収録されているのかは、じつのところ誰にもわからない。
録音している人も、完全にわかっているわけではない。
マイクロフォンがとらえている音に関しても同じだ。

だからこそ、上に書いたような考え方もできる。
そんなことはない、と私は思っているけれど、でも、それを実証することはできない。
そういう可能性は、ある。

私が欠陥スピーカーと思っているスピーカーシステムの鳴らす世界こそ、正しいものだとしても、
それでも、私が、そういうスピーカーシステムを選びはしない。
どんなにそれが正しい、としても、
グールドのゴールドベルグ変奏曲をあんなふうに鳴らされるのは、おかしいと、判断する。

私が、ゴールドベルグ変奏曲を、肉体を感じさせる音でグランドピアノで弾いている音を、正しい音とする。

Date: 3月 10th, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その11)

スピーカーシステムの後側の壁面が大きなガラスだったら、
ほとんどの人が嫌がるだろうし、実際ガラスとの距離がそれほど確保できない場合は、そのままでは耳障りになる。

ジャーマン・フィジックスのDDDユニットが、
ほかのスピーカー(つまりピストニックモーションによるもの)と大きく異るのは、まずここだ。
水平方向には無指向性があるから、ガラスのような反射壁に近づけたら、
フロントバッフルにのみスピーカーユニットがある通常のものよりも、
ガラスからの反射が多くなりよけいに耳障りな響きがのってくる、と思いきや、
実際には響きが豊かになるけれど、耳障りな響きが増すわけではない。

推測にしかすぎないが、
おそらくDDDユニットから放射されている波面がきれいに広がっていっているためだと思っている。

水面に石を落す。
波紋がきれいに広がっていく。石を複数落していくといくつもの波紋ができ、ぶつかりあう。
ぶつかることで波紋が乱れるかといえば、そんなことはない。

DDDユニットを壁にぐんと近づけても、いやな響きがのりにくいのは、このことと関係している気がする。
おそらくDDDユニットから放射される音の波面を真上からみたとしたら、
水面にできる波紋と同じようにきれいに広がっていっているのだろう。

乱れがない(極端に少ない)から、壁に当っても反射されてくる波面も乱れが少ない。
だから壁の素材の固有音に起因するいやな響きがのりにくい。
私は、そう考えている。

まわりの壁の影響を受けやすいスピーカーは、波面の乱れが大きい(汚い)せいではないのか。

Date: 3月 10th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その9)

グルンディッヒ・Professional 2500の、瀬川先生の評価菅野先生の評価がどう違うのか、は、
リンク先をお読みいただくとして、このふたりの評価は違いについては、
ステレオサウンド 54号の座談会の中でもとりあげられている。

54号での試聴は、3人の合同試聴ではなく、ひとりでの試聴である。
だから菅野先生のときのProfessional 2500の音と、瀬川先生が鳴らされたときのProfessional 2500の音が、
違っている可能性もあるわけだが、それについては座談会のなかで、
編集部の発言として、
「このスピーカに関しては、三人の方が鳴らされた音に、それほど大きな違いはなかったように思うのです」とある。
だから評価のズレが、鳴っていた音の違いによるものではない、といってもいいだろう。
となると、ふたりの聴き方の違いによる、といえるわけだが、ただそれだけで片付けられることでもない気がする。

Date: 3月 9th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その8)

瀬川先生の「本」づくりの作業において、書かれたものはすべておさめたいと思っている。
試聴記も含めて、だ。

試聴記といっても、すべてが30年以上昔のものばかりであり、
いま「本」に収録することにどれだけの意味があるのか、という声も実はあった。

でも実際に入力作業を続けていると、試聴記の中に意外な発見があり、おろそかにできない。
たしかにいま現在、その試聴記は試聴記としてはほとんど役に立たない。
でも、瀬川先生が何を求められていたのかは、試聴記から伝わってくることが多い。

なかには意外なモノの試聴記が,思わぬヒントを与えてくれる。
ステレオサウンド 54号に載っているグルンディッヒ・Professional 2500がそうだ。

54号では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生の試聴記が載っている。
Professional 2500に高い評価を与えられているのは、瀬川先生ひとり。
菅野先生の評価は、かなり低い。

ここに、瀬川先生の求められている音、
つまりこの項の(その1)に書いたことが顕れている。

Date: 3月 9th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その14)

結局、この項の(その6)で書いたスピーカーの音は、息吹をばっさりと拒否してしまったようにしか聴こえない。
ただ音だけが鳴っている、にしかすぎず、そこに誰の気配はない。

気配をまったく感じさせない音だから、そこにグールドを感じとることができず、
あれだけ聴いたゴールドベルグ変奏曲にも関わらず、
グールドみたいだけど、どうにも確信がもてない、というふうになってしまった、と考える。

気配はなにも演奏者だけのものではない。
優れた楽器、いわゆる名器といわれる楽器には、気配、もしくはそれに通ずるものがあって、
その楽器に見合った人によって弾かれることで、気配が発せられるのではないか。

そのどちらの気配をも、その高額なスピーカーシステムはばっさり削ぎ落としている。
皮肉ではなく、見事なまでに排除しているところに感心もする。

この気配は、単純にローレベルの再現性に優れている装置であれば再現できるものでもないから、やっかいだ。

皮肉なことに、このときのスピーカーシステムもアンプも、ローレベルの再現性では高い評価を得ている……。

Date: 3月 9th, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その10)

スピーカーの指向特性については、人によって意見が分かれる。
広ければ、直接音に対する壁からの反射による間接音の比率が増えてくるわけだから、
それだけ部屋の影響を受けやすくなる。
それに聴くのは、つねに左右のスピーカーから等距離でいつも聴いているから、
むしろ狭い方がいいくらいだ、という声は、ずいぶん昔からある。

ときには、こんな声もある。
楽器に無指向性のものはないのだから、無指向性スピーカーのどこに意味があるのか、と。

だが、ほんとうに指向特性のいいスピーカー、もっとも優れている無指向性スピーカーは部屋の影響を、
より受けやすいのか。つまりいい部屋でなければ、うまく鳴らないのか。

たとえば以前からあったビクターのGB1や、
比較的新しいところではソリッドアコースティックスの12面体のスピーカーが、
いわゆる無指向性スピーカーと、なぜか呼ばれてきている。

これらは小口径のフルレンジスピーカーを多面体のそれぞれの面にとりつけたものにしかすぎず、
決して無指向性スピーカーではない。
これらのスピーカーを無指向性スピーカーとするならば、確かに部屋の影響は受けやすいだろう。

でも、ジャーマン・フィジックスのDDDユニットのように、水平方向のみではあるが、
真に無指向性スピーカーは、何度か聴く機会があり、セッティングを自由に変えてみることもできた。
だからいえるのだが、DDDユニットは、むしろ部屋の影響を受けにくい。

過去のオーディオの常識にとらわれていると、そうは思えないことだろうが、事実だ。

Date: 3月 8th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その24)

瀬川先生だけがデザインの勉強をされ、デザインを仕事にされていた時期がある。
私は、このことも「瀬川冬樹からオーディオ評論が始まった」に大きく関係している、と思っている。

デザイナーとしての「かたち」の追求、「形」への問いかけ──と考えると、
やはりどうしても川崎先生の「いのち・きもち・かたち」が浮んでくる。

長島先生の書かれたものにあるように、瀬川先生の書かれるものが、
「単なる解説や単なる印象記」から離れることができたのは、
「かたち」という意識が瀬川先生の中にあったのではないだろうか。

あるスピーカーシステムを聴く。
その音について微にいり細にいり書いたところで、うまく伝わることはほとんどない。
そこに聴いた人の気持がはいっていなければ、抽象的な音を言い表すことはおよそ無理である。

だが「気持」さえあれば、それが読者に伝われば、それでオーディオ評論が成立するとは、私は思っていない。

それを評論と呼ぶ人も大勢いるだろうが、それは「瀬川冬樹から始まった」オーディオ評論ではない。
それをオーディオ評論と公言する書き手にも、それをオーディオ評論として受けとる読み手にも、
甘え・怠惰がある。

「きもち」を「かたち」にしていってこそオーディオ評論であり、
瀬川先生が苦心されていたのは、「かたち」にすることだったはずだ。

Date: 3月 8th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(その6)

菅野先生の音を聴かれたことのある人は、私の他にも、かなりの数の人がおられる。
それでも、CDを一枚、最初から最後まで聴かれた方となると、ほとんどおられないかもしれない。
ほぼすべての場合、鳴らされるのCDの中の一曲、
クラシックでその一曲(一楽章)が長いときには、途中でフェードアウトされる。

一曲で終るわけではないから、菅野先生の音を聴いている時間としては、CD一枚分よりも長くなるわけだが、
CDを一枚通して聴く、もしくはその曲のすべての楽章を通して聴くという機会は、私は2度だけ体験できた。

菅野先生の音の素晴らしさは、一曲聴いただけで、というよりも鳴り出した瞬間に瞬時に感じとれる。
それでも、ケント・ナガノ、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を通して聴くことで、
菅野先生がベートーヴェンをどう聴かれているのか、
(もちろん、すべてではないけれど)そのことを感じとれた、と思えた。

「まさしくベートーヴェンなんだよ」という菅野先生のことばが、ひとつの共通体験として理解できた。

Date: 3月 7th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その23)

この項の(その9)で引用した長島先生の文章をもういちど載せよう。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。
彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、
オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、
文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
このことが、この項の最初にほうに書いた「オーディオの知識」の「有機的な体系化」が、
瀬川先生のなかでなされていたことをあらわしている、と私は受けとめている。

Date: 3月 7th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その37)

カザルスのベートーヴェンの交響曲を知ったことが、
ロジャースのPM510に、スレッショルドの800Aを組み合わせようとしていたことを、思い起こさせた。

やはりどこかで鳴ってくる音に「凄み、凄さ」を求めている。
そのためには、十分な音の強さが必要となってくる。

PM510の音色、音の表情は、どんなアンプをもってこようとも、凄みを感じさせるようにはなってくれない、
と思ってしまった。
いまでは、出しにくい、とは思うものの、出ない、とは思ってはいないが、当時、まだハタチそこそこだった私は、
愚かにも、そう思ってしまい、PM510を手ばなした。

次にやってきたシーメンスのコアキシャルは、古いタイプのスピーカーユニットである。
これを90cm×180cmの平面バッフルにとりつけて、6畳足らずの狭い部屋に、文字通り押し込んだ。

コアキシャルの周波数レンジはPM510よりも狭い。
6畳間における平面バッフルとしては、限界に近い大きさのものにとりつけても、
低域は決して伸びていないし、高域に関しても一時代前のスピーカーという程度であった。
ただ能率は高い。
そして、コアキシャルがうち出してくるリズムに、PM510、というよりも、
BBCモニター系のスピーカーシステムにはない強さがあって、しかも硬質である。

カザルスのベートーヴェンが、こちらに迫ってくる、というよりも、なにかをつきつけてくる。

Date: 3月 6th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その22)

瀬川冬樹からオーディオ評論は始まった、と書いた。

この項を書いていくごとに、そして瀬川先生の「本」づくりにとりかかっていると、
そのことを以前以上につよく感じる。

けれど瀬川冬樹ひとり、だけでは、もちろんない。
才能のぶつかり合いのできる相手に恵まれ、
ぶつかり合う場(ステレオサウンド)があった。

ステレオサウンド登場以前には、瀬川先生の上の世代のオーディオ研究家の方たちがおられるし、
そしてなによりも五味先生の存在が、もう一方の極にある。
淺野勇、伊藤喜多男、加藤秀夫、今西嶺三郎、岡原勝、といったオーディオ研究家の方々という「土」、
五味康祐という「水」があり、瀬川冬樹という「芽」があらわれた。

こういう偶然と必然があったからこそ、「瀬川冬樹からオーディオ評論は始まった」。

Date: 3月 6th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その21)

ステレオサウンドは幸運だったといえる。
井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三、といった方々が、
創刊号から、もくしは創刊まもない号から参加されている。

これだけの才能がぶつかり合ってきたのが、ステレオサウンドの歴史のなかで、もっともよいところである。
ステレオサウンドが登場したころは、オーディオ評論というものが確立されている時代ではなかった。
ステレオサウンドの場(ときにはその裏側)で、才能のぶつかり合いがあり、「価値を有する意見」が生れてきて、
ステレオサウンドの誌面・テスト方法も変っていった。

ステレオサウンドの試聴は、いまみれば、まったく問題がなかったわけではない。
試聴方法は、つねに変化してきた。一度として,まったく同じ方法での試聴はなかったはずだ。

だから「熱かった」といえると思っているし、いまはどうだろう……とも当然思う。