Date: 3月 8th, 2011
Cate: オーディオ評論
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オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その24)

瀬川先生だけがデザインの勉強をされ、デザインを仕事にされていた時期がある。
私は、このことも「瀬川冬樹からオーディオ評論が始まった」に大きく関係している、と思っている。

デザイナーとしての「かたち」の追求、「形」への問いかけ──と考えると、
やはりどうしても川崎先生の「いのち・きもち・かたち」が浮んでくる。

長島先生の書かれたものにあるように、瀬川先生の書かれるものが、
「単なる解説や単なる印象記」から離れることができたのは、
「かたち」という意識が瀬川先生の中にあったのではないだろうか。

あるスピーカーシステムを聴く。
その音について微にいり細にいり書いたところで、うまく伝わることはほとんどない。
そこに聴いた人の気持がはいっていなければ、抽象的な音を言い表すことはおよそ無理である。

だが「気持」さえあれば、それが読者に伝われば、それでオーディオ評論が成立するとは、私は思っていない。

それを評論と呼ぶ人も大勢いるだろうが、それは「瀬川冬樹から始まった」オーディオ評論ではない。
それをオーディオ評論と公言する書き手にも、それをオーディオ評論として受けとる読み手にも、
甘え・怠惰がある。

「きもち」を「かたち」にしていってこそオーディオ評論であり、
瀬川先生が苦心されていたのは、「かたち」にすることだったはずだ。

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