Archive for category テーマ

Date: 9月 28th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その5)

ダイヤトーンの2S305は古いスピーカーだ。
それもかなり古いスピーカーシステムである。

ステレオサウンド 62号の時点で25年ほど前ということだから、そこからさらに30年が経っているいま、
2S305は半世紀以上前のスピーカーシステムとなる。

30cm口径のコーン型ウーファーと5cm口径のコーン型トゥイーターの組合せによる2ウェイの2S305は、
いまどきの2ウェイのように広帯域の周波数特性を実現しているわけではない。
発表されている周波数特性は50Hz〜15kHzと、
2S305よりもずっと安いブックシェルフ型のスピーカーのほうが、
数値上ではワイドレンジということになる。

そういう古風な設計のスピーカーシステムを、
いま鳴らしてみたところでどうなる? と疑問をもつ人もいて不思議ではない。
でも2S305は、QUADのESLと同時代につくられている。

ESLがアンプの性能向上、プログラムソースの高品質化など、
ESLを取り囲む環境の変化によって本領を発揮してくるとともに、
その評価も高まっていったように、
優れたスピーカーシステムであれば、ESLに限らず、同じことは起り得る。

2S305でグールドのゴールドベルグ変奏曲を聴きたいと思っている私だけれど、
2S305を鳴らすアンプは、2S305と同時代のアンプ使うつもりはまったくない。
懐古趣味で2S305を聴きたいわけではないから、アンプの時代性にはこだわらない。

あえてこだわるとすれば、日本製のアンプ、ということか。
それもグールドのゴールドベルグ変奏曲を考え合わせれば、
ピアノは日本製で、奏者(つまりグレン・グールド)はカナダ人だから、
スピーカーをピアノ、アンプを奏者にあてはめれば、
アンプは海外製のモノもいい、と、都合よく考えている。

鳴らしてみたいアンプに求めるのは、第一に音色の統一性である。

Date: 9月 27th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その4)

ステレオサウンド 62号の「日本の音・日本のスピーカー その魅力を聴く」に参加されているのは、
岡先生、菅野先生、黒田先生で、特集の最後に鼎談が載っている。

菅野先生が、そこでジュリアス・カッチェンのことを語られている。
     *
もう死んじゃったジュリアス・カッチェンというピアニストと、たまたま録音の仕事をしていきるときに、ピアノ選びをやったことがあるんです。
そのときにかれはヤマハのピアノに猛烈にしびれた。最近じゃリヒテルがすごいしびれているようですけど、どういうしびれかたをしているのか知りません。カッチェンには、なぜヤマハのピアノにしびれたのかを非常に興味をもって聞いたわけです。
そこで、かれが言うには、とにかくピアノからこんな美しさをもった音というのは聴いたことがない、と。
ぼくは片一方にあったスタインウェイがすごく張りのあるキラッと光ったいい音がしているので、こっちのほうがいいだろう、と主張したら、かれはさかんにメンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソを弾きながら比べているわけ。そして、汚いって言うんですよ、スタインウェイの音が。これはジャリジャリして汚い、と。ヤマハの音がずっとピュアであるというわけ。
そのとき、ぼくは感じたんですが、これは意外にもぼくらの盲点なのかもしれないぞ、明治以来、急速に欧米文化をとり入れていくうちに、日本人の内部に欧米文化へのあこがれだけでなく、コンプレックスが育ってきていることは否定できないことだけれども、ぼくもまたそのコンプレックスをとおして、ヤマハとスタインウェイをくらべていた可能性があるな、と。
     *
ステレオサウンド 62号は1982年3月発売の号なので、
まだグレン・グールドがスタインウェイからヤマハのピアノにしたことについての情報は入ってなかった。

菅野先生は、この鼎談で、さらにデビッド・ベーカーについても語られている。
     *
この2S305については、デビッド・ベーカーというジャズ録音の専門の人が絶賛しているのを聞かされたことがあるんです。
かれは、ものすごくほれこんで、あんなきれいな音のスピーカーはない、それはきれいな音であり、しかも非常にアキュレイト(正確)だって言うんですよ。これこそモニターとして最良だ、と。
そして、かれの口からアメリカのスピーカーの悪口がポンポン飛びだしてきたわけ。
その話をかれとしたのは5〜6年まえのことですが、それほどまでにかれを感動させたスピーカーが25年まえに開発されたものであったのに、それじゃ他にはどうか、というと、これだけが突出していたんですね。それから長い空白がある。
     *
ヤマハのピアノとスタインウェイのピアノの比較、
欧米のスピーカーシステムと日本のスピーカーシステムの比較、
スタインウェイのピアノと欧米のスピーカーシステムの共通するもの、
ヤマハのピアノと日本のスピーカーシステム(ダイヤトーンの2S305)の共通するもの。

いま、グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くにあたって、
石英CDで聴くことのもつ意味、
ダイヤトーンの2S305で聴くことの意味を秤にかけたとき、
私にとっては後者の与えてくれるもの、そこから得られるものがずっと大きく多い、と思っている。

Date: 9月 27th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その3)

ステレオサウンド 60号は、
ひじょうに大がかりな試聴による特集「サウンド・オブ・アメリカ」を行っている。
続く61号では「ヨーロピアン・サウンドの魅力」、62号が「日本の音・日本のスピーカー その魅力を聴く」である。

これらの特集はすべてステレオサウンド創刊15周年記念の企画で、
たしかに60号の「サウンド・オブ・アメリカ」はそのことを感じさせてくれた。

このころはまだ読者だったわけで、
正直60号より61号は、すこし誌面から伝わってくる熱気が少なくなっていたように感じていた。
それはなにも編集方針が……、というよりも、瀬川先生の不在によるところも大きい……、
と当時から思っていた。

61号を手にしたときから、ここに瀬川先生がいたら、どんな発言をされていただろうか……、
そんなことを想像しながら読んだ61号だった。

62号は「日本の音」が特集のテーマ。
60号、61号の特集のテーマからすると、
企画そのものに、まだ10代だった私はそれほど興味を持てなかった。
しかも瀬川先生は、もうおられない。

そして62号は、私にとってステレオサウンド編集部に加わることの出来た号でもある。
私が働くようになったときには、すでに特集の取材は終っていた。
ダイヤトーンの2S305の音は聴いていない。
62号に登場した、他の日本のスピーカーシステムもとうぜん聴いてはいない。

そのときは、そのことをそう残念には思っていなかった。
でもいまは、日本のスピーカーシステムをこれだけ集めて聴く機会はそうはない。
ほとんどない、ともいえる。
聴いておきたかったなぁ、と思っている。

Date: 9月 27th, 2012
Cate: audio wednesday

第21回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、10月3日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 27th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その2)

月日の経つのは早い、ということう実感するのは、1年のうちにいくつかある。
9月の終りから10月にかけてのこの時期も、毎年そう感じる。

9月25日はグレン・グールドの生れた日で、10月4日は亡くなった日だから、
今年は、もう30年経ったのか、と思う。

自分の誕生日よりも、この時期がくるたびに月日の経つ早さを感じるのは、
グールドによるバッハやモーツァルト、ブラームスなどがまったく色褪せないからなのだろう。

グールドのCDは、いまも発売され続けている。
今年は生誕80年、没後30年ということもあって、ソニーからグールド・ファンの購買力を狙った企画CDが登場した。
いったいグールドの、この手の企画CDはどれだけあるのだろうか。
ソニーはジャズでは、マイルス・デイヴィスで同じことをやっている。

もういいかげん、すべてのグールドの録音をSACDにしてほしい、というのが、
きっと多くのグールド・ファンの願いだと、勝手に想像しているのだけど、
今年出なかったということは、次に可能性の高いのは10年後、
それとも生誕100年、没後50年にあたる20年後の2032年なのだろうか。

2032年、SACDというフォーマットはあるのだろうか、とも思う。
だから、もったいぶらずにさっさと出してほしいのに……。

でも、グールドのCDは、結局売れるのだから、全タイトルのSACD化は売れ続けているうちは、
ずっと先延ばしにされるのだろう、となかばあきらめている。
ステレオサウンドからは石英CDで、
ゴールドベルグ変奏曲が1枚CDの価格として非常に高価な136500円で出ている。

この石英CDに、まったく興味がない、と言い切りたいところだが、
興味がないわけではない。
聴いてみたい、とは思う。聴いたら、欲しくなることだろう。
とはいえ、13万円を越えるCDに手を出すのがグールドの聴き手としてふさわしいのだろうか、
と、なかば、言い訳がましいことも考えもする。

1枚のCDに13万円を投ずるのであれば、私ならば13万円に、さらに予算を足そう。
といっても13万円の倍でも足りないくらいではあるのだが、
ダイヤトーンのスピーカーシステム、2S305を手に入れたい。

2S305で、グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴きたい。
ゴールドベルグ変奏曲だけではなく、
グールドが
「これはコンピューターにまさるとも劣らぬエレクトロニック・マシーンだ。ぼくはチップ一枚はずんでやればいい」ピアノといったヤマハのCFによる録音(演奏)を、
もっとも日本的といえるスピーカーシステムといえる2S305で聴きたい、というおもいが日増しに強くなっている。

Date: 9月 26th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その2)

誰しも嫌いな音、苦手な音とあることだろう。
私も、どうしてもダメな音がある。
どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手であり、
しかも安直にパソコンを使った音出しで、この手の音をだしているところがある。

さらに、この音を鮮度の高い音と判断する人がいるのに驚いてしまうのだが、
こういう音は鮮度の高い音では決してない。

とにかく、この種の音だけはいくつになってもダメである。
生理的に拒否してしまう音であり、たぶん死ぬまで、この種の音に対する反応は変らないだろう。

私がいま出したいとしている音は、嫌いな音、苦手な音を出すこととは直接の関係はない。
私が出したいのは「音は人なり」のうえでの、己の醜さ、愚かさを表現した音である。

一般的にいい音とされるのが、正の表現による音だとすれば、負の表現による音となるのかもしれない。
鏡をみて、己の醜さをそこに見つけて戦慄いてしまう、そんな音を出したい。

Date: 9月 26th, 2012
Cate: ジャーナリズム

附録について(その3)

附録をつければ、その附録が魅力的であれば、その雑誌の売行きは通常よりも増えるからこそ、
いまやいくつもの出版社のオーディオ雑誌に附録がつくようになったのだろう。

出版社は本を売る会社なのか。
本を売る会社だとすれば、附録をつけて売上げを伸ばすことは批判されることではないことになる。

けれど出版社は、本を売る会社ではないとしたら、附録をつけることの意味合いが変ってくる。

別項の、モノと「モノ」の(その2)、(その4)でも書いていることとだぶるけれども、
黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」の中にでてくる
フィリップス・インターナショナルの副社長の話をいまいちど引用しておく。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ
     *
出版社は、本という物を売る会社ではないはず。
たまたま、出版社が本来売るべきものをおさめる物として本という形態があったという見方もできる。

フィリップス・インターナショナルの副社長の話を読んで、
なるほどなあと思う編集者ならば、オーディオ雑誌に附録をつけることを行うとしても、
いま、どこの出版社でもやっているやり方とは違ってくるのではないだろうか。

Date: 9月 26th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その1)

あの大きな事故以来、放射性物質の半減期は……、というのをよくみかけるようになった。
それ以前とは比較にならないほど目にするようになった。

半減期で思うのは、人の愚かさとか醜さ、そういったものに半減期はあるのだろうか、ということ。
あったとしても放射性物質の半減期よりもずっとずっと長いのかもしれない……。
そんなことを思っていると、「音は人なり」のもうひとつの側面について考えてしまうようになってきた。

愚かさや醜さを一切もたない人が、世の中にいるだろうか。
誰にだってある。
それを抑え込んでいるだけなのかもしれない。

それならば、「音は人なり」ならば、
愚かさ、醜さといった要素も、音として現れてくるのがほんとうなのではないだろうか。
現れてくる、というよりも、それを出してしまうのが、
コンサートに出かけていって音楽を聴くのではなく、
手塩にかけたオーディオによって、独りで音楽を聴くからこそできる表現なのではないか。

それは、いわゆる「悪い音」とは異る。
使いこなしの足りない音ではない。
その意味では、いい音ということになる。
けれど、顔を背けたくなる、耳で手で塞ぎたくなる、そういう類の音を出せるようになりたい。
そういう「音」を聴きたい、聴くことができるようになりたい、と強く思っている。

Date: 9月 25th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その7)

“new blood”と”strange blood”のことは、
別項の「公開対談について」の(その10)のおわりのところで、ほんのちょっとだけ書いている。

組織が生きのびていくために新しい血(new blood)を定期的に、ときには不定期に入れていく。
新卒でその組織(会社)に入ってくる人も、中途入社の年齢的には若くはない人も、
その組織にとっては、入社時は新しい血であるはず。

新しい血はいつまでも新しい血ではない。
いつしか「新しい」がとれていってしまう。
だからこそ、組織は、また新しい血を求めていくのかもしれない。

“new blood”も”strange blood”も、
組織にとっては最初のうちは、どちらも新しい血であっても、
“new blood”はnew bloodではなくなる。
“strange blood”は、というと、新しい血ではなくなっても、strange bloodのままでいることだろう。

“new blood”と”strange blood”の、その違いはなんだろうか。
血の純度の高さの違いだ、と思う。
strange bloodは純度が高い血であるからこそ、つねにstrange bloodであり続けられる。

new bloodがいつまでも新しい血でいられないのは、
不純物が、その血に多いためではないだろうか。
純度の低さゆえに、組織の血に取り込まれてしまう。
純度が高ければ、そしてその高さを維持できれば、決して混じり合わない。そんな気がする。

strange bloodをもつ編集者がいる編集部は、面白い雑誌をきっとつくってくれる。
strange bloodをもつ者がいる業界は、きっと面白いはず。

Date: 9月 24th, 2012
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(その1)

いま輸入商社を名乗っている会社は、いったいどれだけあるのだろうか。
オーディオがブームだったころよりも、輸入商社の数は多い。

1970年代にあった輸入商社の名前は、当時はすべて記憶できていた。
いまはどうかというと、いったいどれだけをあるんだろうか……、と思ってしまうほどに、
規模の小さなところが増えていて、正直、すべての数を把握できていない。

なぜ、こんなにも数は多いのだろうか。
そして、それらのうち、輸入商社とは呼べないところも、いくつかあるように感じている。
そこが輸入しているオーディオ機器を購入したわけでもないし、
私のまわりにも、そういうところからオーディオ機器を購入した人もいないから、
固有名詞を出すことは控えるものの、
そういうところは輸入商社ではなく、輸入代理店ではないか、と思える。

輸入商社は、
優れたオーディオ機器をつくっている海外のメーカーを見つけて契約し、日本に輸入するわけだが、
輸入するオーディオ機器は、必ずしも商品であるわけではない。

海外で、そのオーディオ機器は商品として市場に流通していても、
それをそのまま日本に持ってきたからといって、日本でも商品と成り得るかといえば、そうでないこともある。

輸入商社は、ただ輸入するだけではなく、
日本において、そのオーディオ機器が商品となるようにしていくのが輸入商社としての仕事ではないだろうか。
輸入商社が輸入するオーディオ機器は、どんなに海外で商品として通用していても、
あくまでも輸入の時点では製品だと思う。
その製品を商品としていくのが輸入商社であり、
製品を製品のまま市場に出してしまうのは、輸入代理店としか呼べない。

これは会社の規模とは直接関係のないことだ。
海外で、いいオーディオ機器を見つけた。うまく契約できた。輸入した。
それだけでも、商品として通用するモノもないわけではない。
だけど、そういうモノばかりではない。

海外のブランドの中には、輸入元がたびたび変るところがある。
これはどういう事情なのかは、すべてが同じというわけではないだろうし、
いくつもの事情があるとは思う。

それでも自社の製品を商品とすることができない輸入商社が輸入元だとしたら、
商品としていくための仕事をしてくれる輸入元へと移りたくなるのではないだろうか。

Date: 9月 24th, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その4)

それにしても、なぜ音は所有できないのか……を考えると、
以前「再生音は……」で書いたことに行き着く、というより行き当る。

「生の音(原音)は存在、再生音は現象」だから、
われわれオーディオマニアはオーディオ機器、それを鳴らす環境は所有できても、
そこで鳴る音、鳴ってくる音は所有できないのではないのか。

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その12)

リズム(rhythm)といえば、音楽を構成する要素のひとつであるわけだが、
私がここでいいたいリズムは、もちろんオーディオは音楽を再生するものであり、
しかもソプラノ歌手の声、とか、楽器の音色、とかいっているわけだから、それは音楽のことであり、
音楽のリズムのことでもあるのだけれど、
それだけではなく、歌手、演奏者の鼓動という意味でのリズムについても、である。

どのスピーカーシステムがそうだとは書かないけども、
スピーカーによってリズムのきざみ、打ち出される音の強さ、といったことは変化し、
まったく苦手としているのではないか、と思いたくなるスピーカーがないわけではない。

もちろんスピーカーシステムの責任ばかりなく、使いこなしにあったり、
アンプにも、そういう傾向のモノがやっぱりある。
とはいえスピーカーにあることが少なくないのも、やはり事実である。

そういうスピーカーでは、どんなに歪の少ない音が出てきても、
周波数特性(振幅特性)的にワイドレンジであっても、
音場感がきれいに左右に拡がってくれようとも、
音楽を聴いていてつまらなくなる、というか、
ボリュウムをしぼりたくなる。

同じレコードをかけてもスピーカーが変れば、そこでのリズムがまったく同じということは絶対にない。

リズムを打ち出す力、リズムをきざむ力は、一様ではない。
リズムは、やはり力だと感じる。
それゆえにスピーカーによって、この力の提示はさざまであり、
しなやかで軽やかにリズムを聴かせるスピーカーもあれば、
力強く、強靭とでもいいたくなるようなリズムを聴かせるスピーカーもある。

この力が、音楽の推進力を生んでいる。
オーディオで音楽を聴く、ということ、
つまりスピーカーを通して音楽を聴くという行為において、
この音楽の推進力が著しく損なわれると、そこで鳴っている音楽の印象は稀薄になり、
聴き手の心に刻まれなくなる。

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その11)

ソプラノ歌手の描き分けがうまく行えないスピーカーシステムが、現実にはある。
安い価格帯のスピーカーシステムにもあるし、
オーディオに関心のない人からするとバカげた値札のついたスピーカーシステムの中にも少ないながらも存在する。

別にソプラノ歌手に限らなくてもいい。
他の楽器についてでもいい。
楽器には楽器特有の音色があって、楽器の銘柄が変れば音色は違ってくるし、
同じ銘柄の楽器でも奏者によって音色は変化していく。

誰が歌っているのか、誰が吹いているのか、誰が弾いているのか、
このことが音だけで明確に聴きとれるためには、音色の再現性の高さがスピーカーには要求される。

その音色の再現性のためにはどういうことが必要なのか……。

物理的なことがいくつか頭に浮ぶ。
考えれば考えるほど、ワイドレンジであることが音色の再現性には重要というところに行き着く。
ワイドレンジとひと言でいっても、ただ単にサインウェーヴでの測定上の周波数特性、
それも振幅特性のみを延ばしただけのスピーカーシステムであっては、
ワイドレンジとは言い難い、ということは、別項の「ワイドレンジ項」でも書いている。

応答性、過渡毒性ということに関しても、ワイドレンジである方が優位である。
なのに、時として、何度書いているように、よくできた中口径のフルレンジユニットのほうが、
ソプラノ歌手の声の鳴らし分けを、その何十倍、何百倍もするスピーカーシステムよりも的確なことがあるのは、
物理的な過渡特性、応答性の優秀さのほかに、
いわば感覚的な応答性のよさがあるような気がしてならない。

過渡特性、応答性のもうひとつの側面──、
といっていいのかどうか迷うところもあるのだが、リズムへの対応力、再現性といったものを感じる。

Date: 9月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その3)

S/N比は信号(signal)と雑音(noise)の比であり、
物理的なS/N比においては信号レベルが高く、雑音レベルが低ければS/N比は高くなる。

聴感上のS/N比でも基本的には同じであるわけだが、
例えば雑音(ノイズ)にしても、
耳につきやすい、つまりは音(信号)にからみつくような質(たち)のノイズと、
うまく信号と分離して聴こえ、それほど気にならないノイズとがあり、
測定上では同じ物理量であっても、聴感上のS/N比は後者のノイズのほうがいい、ということになる。

聴感上のS/N比がほんとうによくなってくると、
ボリュウムの位置はまったく同じでも、音量が増して聴こえるようになってくる。
これもよく井上先生がいわれていたことのくり返しなのだが、
つまりは聴感上のS/N比がよくなることで、ピアニッシモ(ローレベル)の音が明瞭に聴きとれるようになる。
それまで聴き逃しがちだったこまかな音まで聴きとれるようになると、
最大レベルは同じでもローレベル領域へダイナミックレンジが拡がったことにより、
ピアニッシモとフォルティッシモの差も明瞭になることによるものだ。

つまり、このことは聴感上のS/N比が劣化していく方向に音を調整していくと、
同じボリュウムの位置でも音量が下がったように聴こえるわけである。
聴感上のノイズレレベルが増しているわけだから、ピアニッシモの音が聴感上のノイズに埋もれてしまい、
聴き取り難くなってしまうからだ。

聴感上のS/N比がよくなれば聴感上のダイナミックレンジは拡がる。
聴感上のS/N比が劣化すれば聴感上のダイナミックレンジは狭くなる。

聴感上のダイナミックレンジが拡がれば、音量は増したように聴こえ、
聴感上のダイナミックレンジが狭くなれば、音量は減ったように聴こえるわけである。

このことは明白なことだと私は思っていた。
井上先生が聴感上のS/N比という表現を使われるようになって、すでに30年以上経つ。
誰もが口にするようになっている。
これも量に関することであるから、基本的なことを理解していれば間違えようがないはずだ、と。
そして、どちらがいいのかも明白なことのはず、である。

しかし、世の中には聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称している人がいる。
その人によると、音量が下がって聴こえる方が正しい、ということになる。

これはおかしな話だ。

Date: 9月 20th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは・その6)

「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」
気の合う者同士で本をつくっていても、それでは絶対におもしろいものはつくれっこない、
ということもいわれた。

私に、このことを話してくれたのは当時、編集顧問だったKさんだった。
そのころペンネームを使ってステレオサウンドにもときどき書かれていたし、
スーパーマニアの記事や、対談、座談会のまとめもやられていた。
私がステレオサウンドを離れてしばらくして、本名で書かれるようになった。

記憶違いでなければ、Kさんは中央公論の編集者でもあり、
フリーの編集者として、多くの人が知っている雑誌にも携わっておられたはず。

Kさんは、私の父と同年代か少し上の世代だと思う。
Kさんは、さまざまな本に、いったいどれだけ携わってこられたのだろうか。
かなりの数のはずだし、本の数が多いということはそれだけ多くの編集者とともに仕事をしてこられているわけだ。

そのKさんの言葉である。

雑誌の編集とは、とくにそういうものだ、と最近とみに思う。
Kさんからいわれたときは、そうなのかな? ぐらいの気持だった。

ステレオサウンドという雑誌は、いうまでもなくオーディオの雑誌であり、
その編集者は、オーディオという同じ趣味を持つ者ばかりが集まることになってしまう。
ある特定の趣味の雑誌は、ほかの雑誌よりも同じ傾向の人が集まりやすいのかもしれない。
だからこそ、Kさんは、あのとき、私にいわれたのかもしれない、といまにして思っている。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤなヤツがいる仕事場では誰もが働きたがらないだろう。
気持ちよく仕事をしたい、というけれど、
気持ちよく仕事をしたいのが、仕事の目的ではなくて、編集者であれば面白い雑誌、
ステレオサウンド編集者であればおもしろいオーディオ雑誌をつくっていくのが仕事である。

いまのステレオサウンド編集部が、どういう人たちの集まりなのかは知らない。
気の合う人たちばかりの集まりなのかどうかはわからない。
でも、少なくとも「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!」という人は、ひとりもいないような気がする。

さらに思うのは、”new blood”と”strange blood”のことだ。